第2話 ①

 大広間では何もすることがない梨花は、右を雅之、左を信代に挟まれた状態で、正座したまま、せんべいをかじったりお茶をすすったりしていた。

 仁志は二階にいるらしい。そんな彼も、棺を運び入れる際は逃げるわけにはいかなかったらしく、渋々と手を貸したという。

 会食はまだ一時間も先だ。山神の儀式が執りおこなわれる日は、待ち時間でも会食でも、参加者に酒は出ない。通夜祭や葬場祭のあとのなおらいでも同様だ。そのせいなのか、この待ち時間でさえ、世間話などの雑談はあっても羽目を外す輩は皆無である。

 酒が入らないのは山神の儀式の話題を避けるため――と梨花は睨んでいた。現に、おのおのが感情を押し殺している、という妙な空気に包まれているのだ。これならば、酔って口を滑らせる、などという事態にはならないだろう。

 酔って豹変する大人を、梨花は理解できずにいた。この中には下戸もいるだろうが、そもそも梨花はこの中で唯一、酒を勧められるはずがない立場なのだ。すなわち、この場で未成年者は梨花だけということである。

 前々から抱いていた懸念を、梨花は口にする。

「今回もおばあちゃんのときも、未成年者って少ないよね。特に葬場祭のあとの行事は、おばあちゃんのときはかろうじて仁志くんが未成年者だったけど、今回なんてわたしだけだよ」

「まあ、山神様の儀式は夜におこなわれる儀式だからな」雅之が答えた。「でも梨花は、おじいちゃんともおばあちゃんとも仲がよかったから、どっちの葬式のときも、来たい、って自分から言ったわけだ」

 梨花は自分の目に涙がにじむのを悟った。

 啓太は病院のベッドで息を引き取った。五日前の日中に自宅で倒れ、救急車で市内の総合病院に運ばれたが、意識不明のまま、その翌日の未明に、帰らぬ人となった。脳梗塞だった。

 梨花が啓太と面会できたのは通夜祭が始まる直前だった。コンクールに提出する油絵の仕上げに負われていたこともあり、病院に見舞いに行けずじまいだったのだ。美術部部員として、どうしても投げ出せなかったのである。時間を工面できなかったのが悔やまれてならない。

「うちのゆみは親戚のうちに預けてきちゃったからね」

 梨花のはす向かいに座る時子が言った。信代より二歳若い三十九歳だが、都会暮らしが長かったせいなのか、三十手前に見えなくもない。

「そういえば……」梨花はつぶやいた。「真弓ちゃんとはしばらく会っていないなあ」

 時子の娘、中学二年生の真弓は、梨花にとっては妹のような存在だ。距離が距離だけに頻繁には会えないが、週に何度かのメッセージアプリでのやり取りをしている。真弓がいれば梨花も少しは居心地がよかったかもしれない。しかも真弓は、梨花以上に控えめな割には仁志の攻撃の対象ではないのだ。どうやら仁志は、真弓の父を恐れているらしい。

「ちょっと一服してくる」と言って立ち上がったのは、梨花の正面に座っていたいいじまのりだった。時子の夫――すなわち真弓の父である。

 時子が紀夫を見上げた。

「ほどほどにしてね」

「ああ」と面倒そうに答えた紀夫は、廊下を横切って庭へと下りた。

 紀夫は昨夜の通夜から機嫌が悪かった。祖母の神葬祭でもそうだった、と梨花は回顧する。紀夫は啓太と同様、梨花には常に優しく接してくれた。それでも仁志のような人間には厳しい態度を取ることがある。五年前にあか村の夏祭りを楽しむために親族が本家宅に集まったのだが、そのときに、梨花をいじめる仁志を紀夫がいつも以上に激しく叱りつける、という一幕があった。暴力を振るうには至らなかったものの、それは祖父の啓太が仁志を叱るときの度合いを凌駕しており、雅之や信代が止めに入ったほどだ。当時の仁志は高校生だったが、恐怖のあまりに失禁したほどであり、以来、仁志は紀夫に近寄ろうとせず、真弓には声さえかけていない。この場に仁志の姿がないのは、むしろ当然だろう。

「紀夫くんにはすまないと思っている」

 雅之の右に座っている和彦が言った。和彦は雅之の二歳上の兄だが、雅之よりわずかに背が低い。もっとも、横幅は和彦のほうが勝っていた。和彦は市街地の企業に勤める会社員であり、これまでも啓太の農業を手伝っていたが、今後も当分は兼業農家としていそしむらしい。

「和彦兄さん、気にしないで」

 時子もつらそうだった。

「時子も辛抱してくれ。これで最後だから」

「ええ」

 答えた時子が、お茶のそそがれた湯飲み茶碗を両手でそっと包んだ。

「おれもちょっと」と雅之が腰を上げかけた。

 雅之は喫煙者ではないはずだ。梨花が眉を寄せて「お父さんもたばこを吸うの?」と尋ねると、雅之は中腰の状態で顔を向けた。

「紀夫おじさんをねぎらってくるだけだよ」

 それはかまわないのだが、雅之の体にたばこのにおいが移るのが嫌だった。

「あなた」信代が心許なげな目を雅之に向け、小声で言った。「火に油を注ぐようなことだけはしないでね」

「当たり前だろう。……大丈夫だ。紀夫くんとは馬が合うし」

 雅之も小声で返した。

 雅之と紀夫は双方とも四十二歳だ。同い年ということもあってか、この二人も気兼ねなく付き合っている。畢竟、家族ぐるみの付き合いがあるわけだ。

 紀夫と時子は東京で暮らしているため、昨晩もこの本家宅に泊まった。とはいえ、紀夫の不機嫌はその気疲れだけが原因ではないらしい。それは梨花にもわかっていた。

 紀夫は今回の野辺送りに参加しない。というより、参加できないのだ。祖母――紀夫にとっては義母に当たる康子の葬儀でも、紀夫は野辺送りを見送るだけだった。しかも彼は、山神の儀式の内容を教えてもらえないのである。これまでの梨花は紀夫の処遇について、ただなんとなく「そうなんだ」と思うだけだった。しかし、先ほどの綾の言葉を聞いて得心がいった。紀夫からすれば啓太は妻の父である。すなわち、紀夫は故人の女婿であるため、山神の儀式に立ち入ることができないのだ。それが紀夫の不機嫌の原因であることは、おそらく、ここに集った全員が承知している。

 気づけば、ほかの者たちもそれぞれの会話が途切れがちとなっていた。紀夫の様子を気にしたわけではなさそうだ。話題が尽きたか話し疲れたかのいずれかだろう。

 紀夫の機嫌を詮索していると思われるのが嫌で、梨花は庭のほうには目を向けず、自分の手にある湯飲み茶碗を見下ろした。


 帰宅した綾と賢人を出迎えた勝義が、やはり自分が斎主を担うべきだろう、と綾に訴えた。対する綾がそれを拒んだため、勝義は話し合いをするために綾を伴って書斎へと入ってしまった。

 山神の儀式にかかわらないよう、賢人は日頃から勝義や綾に言いつけられているが、今回も、「話し合いが済むまでは書斎に近づいてはならない」と勝義のご沙汰があった。もっとも、書斎があるのは一階の廊下の突き当たりであり、トイレや風呂は階段の上がり口を挟んでその反対側だ。二階に部屋のある賢人が書斎に近づくことは、特別な用があるとき以外はまずない。

 それよりも賢人は、今になって素朴な疑問を意識してしまう。この山神の儀式についてだ。

 物心がついたときから、山神の儀式は賢人の身近にあった。とはいえ、あの綾でさえ、母の神葬祭までは山神の儀式への関与を許されなかったのだ。身近でありながら、常に意識の外にある――賢人にとっての「山神の儀式」は、そんな位置づけだった。面白半分で友人たちと山神の斎場に赴いたりもしたが、興味をそそるようなものは見いだせず、かえって興味が薄らいだほどだった。やはり単なる風習なのだ、と納得したのである。

 しかし、最後となる今回の儀式を数時間後に控えて、葛城家はこのように剣吞な空気に包まれてしまった。宗教だの風習だのを凌駕した何かを隠している――そのように思えてならない。

 トレーナーとジーンズに着替えた賢人は意を決し、二階の自室を出た。息を殺し、そっと階段を下りる。築五十年を超える和風の家だ。トイレや風呂、台所などは修繕したが、そのほかは昔のままである。油断すれば階段や床がきしんでしまう。

 階段を下り、奥へと続く廊下を進んだ。勝義の部屋の前を通り過ぎ、物音を立てることなく書斎の前にたどり着く。

 書斎の出入り口は木製のドアだ。新築当時からこの仕様だったらしい。

 賢人はドアに片耳を寄せた。

「お父さん、自分の声がわかるでしょう? わたしたちが帰ってきたときは確かによかったみたいだけど、今はまた悪くなっているのよ」

 綾はやや度を失っているようだ。

「今回は慰謝の儀ではないんだぞ」勝義の声だ。綾の言うとおり、先ほどとは打って変わり、かすれぎみである。「声はなんとかする。おれがやったほうが安全だ」

 これまでの山神の儀式における火葬祭を勝義が「慰謝の儀」と呼んでいたことを、賢人は思い出した。無論、これを勝義が賢人に教示するはずがなく、以前にも同様に勝義と綾との会話を盗み聞きし、知り得たのである。

「儀式の途中で声をからすほうが危険よ。そうなったら、山神様の怒りを買うわ。今までだって、お父さんの体調が悪いときはお母さんが代役を務めた。体調の悪いときに無理をするのは、決してプロとは言えない」

 葛城家は代々、山神の儀式を執りおこなう斎主を輩出してきた。山神の儀式の斎主は世襲制なのだ。とはいえ、山神の儀式の斎主という仕事だけでは生活はできない。詳細は賢人のあずかり知らぬ域であるが、山神の儀式一式ぶんの祭祀料は、一般の神葬祭で宮司が受け取る金額よりもはるかに多いらしい――のだが、いかんせん、仕事の数が年に数回なのだ。綾の収入に頼らなくても一家が不自由なく暮らせているのは、借地料という収入があるためだ。その借地は、朱地区内の宅地の一部や大型園芸店の敷地などである。

「無理だと思ったからわたしに電話したんでしょう?」

「そうだ。儀式の失敗は多くの犠牲を生むことになるからな」

 山神の儀式が正しくおこなわれないと凶事を招く――こればかりは賢人も聞かされていた。それは謂われであって現実的には何もない、とばかり思っていたが、勝義のこの言いようは、単なる謂われであることを否定している。

「だがな」勝義は続けた。「今回はショウテンノギなんだ。おまえは罪の意識にさいなまれる。その苦しみから解放されることはないだろう」

 綾にどのような罪がもたらされるというのか、想像もできないが、賢人は胸のむかつきを覚え、声を漏らしそうになった。しかし「ショウテンノギ」という言葉の意味がわからず、それを知るためにも、息を潜めて引き続き耳を澄ます。

「でも今回は、わたしがやったほうが絶対にうまくいく。それに、代役から身を引くことが、わたしにとっては罪なのよ。きっと、一生後悔すると思う。わたしはやるからね。覚悟はできている。これ以上話すことはないわ」

 話は綾が一方的に打ち切ったようだ。

「綾、待て」

 勝義の声がした。

 まだ「ショウテンノギ」の意味をつかんでないが、賢人は静かに、そして素早く廊下を戻った。

 綾が書斎のドアを開けたのだろう――その音が聞こえたとき、賢人はすでに階段を上りきっていた。


 二列に並んだ座卓に人数ぶんの料理が用意された。フォーマルスーツの上にエプロンという姿の淳子と割烹着姿の六人の女たちが、手際よく配膳したのだ。二階の自室にこもっていた仁志も和彦に声をかけられ、フォーマルスーツを整えて席に着いた。

 近所の女たちの役割はこれで終わりだ。片づけは、会食の席に着く女たちが、野辺送りを見送ったのちにするのだという。無論、梨花も手伝うことになっている。とはいえ、信代と時子は雅之の車を移動させるために外出しなければならないのだ。梨花を含めた四人という限られた人手だが、たとえ広い台所とはいえ、入れる人数に限りがあるのだから、むしろ都合のよい分担なのかもしれない。

 近所の女たちが帰宅し、この芹沢本家宅にいるのは山神の儀式に参加する者だけ、となった。しかし多くの参加者は「清め」までであり、この中で野辺送り以降の行程に参加するのは六人である。

 ここで梨花は、改めて会食の顔ぶれを観察してみた。自分の両親、和彦と淳子に仁志という本家の家族、紀夫と時子の夫婦、啓太の弟である芹沢としやすとその妻のよし、啓太の下の弟である芹沢とその妻のはな――梨花自身を含めたこの十二人が親族だ。そしてなりそうよしいくさかまさはるぐちただおかひろしおおむねしばひでという野辺送りの経験がある七人の男が、近所からの参加者である。会食の準備にいそしんでいた女の中には、金成たち七人の妻や娘もいたようだ。

 野辺送りの参加資格に性別による可否はないが、男ばかりになる場合が多いという。今回の参加者も、斎主の綾を除けば男ばかりだ。もっとも、俊康、金成、吉田、井坂、野口ら高齢者や、親族であっても仁志や紀夫らは野辺送りを見送るまでとなる。和彦の同期の岡野と大賀、雅之の同期である柴田、この三人は、山神の儀式を何度か経験しているだけでなく四十代という中年層であるため、今回も清めから埋葬まで務めてくれるという。

 午後四時半になった。

 濃くなりつつある夕闇が、掃き出しのサッシの外に窺えた。

 和彦が立ち上がり、一礼した。

「このたびは、父、啓太の神葬祭の締めくくり、山神様の儀式にお立ち会いくださいまして、誠にありがとうございます。このあとに控えるお清め、それに続く野辺送りから、埋葬まで、まだまだ皆様のお力添えをいただきとうございますが、まずは、ささやかながら会食の準備が整いましたので、お時間の許す限りくつろいでいただきたいと思います。それでは、どうぞ召し上がってください」

 そして和彦は再度一礼し、腰を下ろした。

 皆が静かに箸を取った。

 直会でもそうだったが、会食は待ち時間とは異なり、世間話さえ禁忌とされ、笑い声を上げるなど言語道断なのだ。静粛な雰囲気の中での食事、となるわけである。

 食材は朱産が多いらしい。天ぷらや煮つけに使われている山菜も豚の角煮の肉もそうだという。前もってそれを聞いていた梨花は、箸を口に運ぶごとに、里を取り巻く山林や南郷の養豚場を脳裏に浮かべた。確かに美味だ。しかし、それらの味の感想さえ口にすることができない。一女子高生にとっては居心地の悪さが際立ってしまう。

 加えて、仁志が同席していることも負担だった。彼は梨花の右側――すなわち同じ列であり、しかも彼との間には雅之や和彦が座っているためその様子は窺えないが、この場の重圧に耐えつつ虎視眈々と自分より弱者である梨花に牙を剝こうとしている、そんな気がしてならない。

 二十分もすると、大半の箸が膳に置かれた。特に苦手な料理がなかったがためにほとんどを食べ尽くした梨花も、静かに箸を置く。この頃になると、トイレに立つ者も出始めた。

 マナーモードにしておいた梨花のスマートフォンのバイブが鳴った。

 ブレザーのポケットから取り出したスマートフォンをそっと覗くと、賢人からの電話だった。バイブはすぐに切れ、留守電にメッセージの入ったという通知が表示された。

 左隣の信代が梨花に顔を寄せた。

「誰からか急ぎの用?」

 小声で問われて梨花は頷く。

「うん。ちょっと席を外していい?」

「行ってきなさい」

 小声での短いやり取りを済ませ、梨花は席を立った。

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