第1話 ⑥
スナック菓子やチョコレート、紅茶のペットボトルが入った自前のレジ袋を左手に提げ、梨花は県道を渡り、畑の中の一本道を北に向かって歩いた。
芹沢本家宅の南側を横切る市道に出てすぐ、梨花は足を止めた。彼女が立ち止まった丁字路から西寄りに、北へと延びる未舗装の細い道があるが、その道に入ったばかりのところで一台の白いコンパクトカーがフロントを北に向けて停まっている。車体の横には「金盛市」と記されてあった。運転席の窓から顔を出して先のほうを窺っているのは、儀式の立会人の岸本だ。
「どうしたんですか?」
コンパクトカーへと近づきながら、梨花は声をかけた。
「え……」虚を突かれたように、窓から出した顔がこちらに向いた。「雅之さんのお嬢さんの……梨花さんだったね」
「はい」と頷いて、梨花はコンパクトカーの運転席側に立った。
「いやね、カーナビを見たらこの道で
そう言いながら、岸本は苦笑した。
「この先は、もっと細くなりますよ」
よく歩いていた道だからこそ、梨花は説くことができた。しかもこの道は、祖母の野辺送りが通った道である。雅之の話では今回の野辺送りでも利用するらしい。
「そうか、やっぱりだめか」
「こっちの道は」梨花は舗装路の西のほうを指差した。「途中で南にカーブしちゃうんですけど」
「カーナビでもそうなっているね」
岸本は首肯した。
「でも、県道に出ることはできます。カーブを曲がらないでまっすぐ行く道もあるんですが、そっちも狭いので、やっぱり県道に一度出てから、神会に向かう道に入ったほうがいいですよ。あとは……」続いて市道の東のほうを指差す。「この道を東に行くと、さっきの駐車場の先に北へと行く道があるんですが、それなら神会のほうに行けますね」
「なるほど……助かるよ。じゃあ、西から回ってみるか」
「神会に行くんですよね?」
梨花の脳裏に「山神様の斎場」という言葉が浮かんでいた。
「そうだよ。火葬祭のおこなわれる場所……というか、そこと芹沢さんのお宅との位置関係を把握しておきたいんだ。何しろわたしは、この辺の土地勘がないから。霊柩車で現地に向かう途中で道に迷うなんて、最悪じゃないか」
「その下見にわたしが同行したら……まずいですか?」
言葉にしてから自分の浅はかさを恥じた。
「いやあ、それはちょっと。仕事中だし、それに女子高生を乗せていくわけには……」
気まずそうに岸本は自分の頭をかいた。
「ですよね」
肩をすくめてごまかした。ほかに手立てはない。
「でも」ふと、思い出したように岸本は口を開いた。「わたしは仕事で行くけど、用のない人は行ってはいけない、って言われているんじゃなかったっけ?」
「はい。お父さんにもそう言われているし、別の人にも言われたばかりで……」
言いさして、梨花は岸本を見つめた。
「どうかしたの?」
不審そうな目が返ってきた。
「あの……葛城綾さん、ってご存じですか?」
「葛城さん?」
問い返した岸本は、一瞬の間を置いてから焦燥を呈した。その意味を読み取ることができないまま、梨花は続ける。
「金盛市役所の職員なんです。本所に勤務している人なので、面識はないかもしれませんが」
「あ、ああ……面識ならあるけど、その程度だよ。父親が山神様の儀式の斎主をされている人で、今回はその葛城綾さんが代理で斎主をされるとか。梨花さんの知り合いなの?」
やや早めの口調だった。
「はい、昔からお世話になっています。でも、今、気づいたんですが、市の職員って副業をしたらいけないんですよね? ボランティアでするのかな?」
「父親から代理を請う電話を受けた葛城さんが上司に相談したところ、業務命令として斎主を代行することになったんだ」
「市の業務、ということなんですか?」
女子高生でもさすがに呆気に取られる内容だ。
「芹沢さんのお宅に伺う前に、わたしの上司から連絡が入ってね、そう聞いたよ」
ならば山神の儀式は金盛市公認の行事とでもいうのだろうか。だが山神の儀式は今回で最後なのだ。梨花は言葉に詰まってしまう。
「じゃあ、そろそろ行ってみるよ。どうもありがとう」
言って岸本はドアガラスを閉じた。目的地に早くたどり着きたい、というよりも、早くこの場から立ち去りたい、そんな趣があった。
バックで舗装路に出たコンパクトカーは、フロントを西に向け、静かに発進した。徐行で進むコンパクトカーは加速したいのを懸命にこらえているようでもある。
腑に落ちないまま、梨花は市道を東に向かって歩き出した。
「金盛の市役所って、なんか変」
ようやく口をついて出た言葉が、それだった。
腕時計を見ると午後二時四十三分だった。
怪訝に思いながら玄関をくぐると、廊下の反対側――左の奥から女たちのせわしそうな声が聞こえた。近所の主婦たちが台所で会食の準備をしているらしい。少なくとも彼女たちは勝手口から入った、と想像できるが、ほかの者たちの靴の行方が気になった。
靴を脱いだ梨花は、廊下を奥へと進んだ。大広間の手前の部屋は障子が閉ざされており、遺体の納められた棺がすでに畳の上に置かれているようだ。一方、庭に面した掃き出し窓は全開にされており、廊下の外を見ると、何足もの黒い靴が並べてあった。やはり、近所の主婦たちのものとおぼしき靴はない。
開け放たれたままの大広間を一瞥した。フォーマルスーツ姿が一堂に会している。
足を止めて会釈すると、雅之に「梨花」と呼ばれた。
「みんなに挨拶しなさい」
部屋の廊下側に座る雅之はそう言うが、ここに集った男女たちとは、祭場ですでに挨拶を交わしている。ざっと見渡してみるが、新たに加わった顔はなかった。信代と淳子の姿が見えないが、少なくとも淳子は、台所で采配を取っているに違いない。それより、仁志の姿がないことに安堵してしまう。
「お疲れ様でした」
レジ袋を片手に、しかも立ったままだが、とりあえず言葉にした。もっとも、多くは世間話に夢中であり、梨花の声に気づいた四、五人が笑顔を向けてくれた程度だった。
「お父さんの靴もこっちにあるんだね」
梨花は庭のほうを一顧した。
「ああ。お棺を運び入れるのを手伝ったからな。それに夜はこっちから出るから、このほうが都合がいい。お母さんのもこっちにあるよ」
その母が見当たらず、梨花は雅之に問う。
「お母さんは?」
「いつもの部屋で床の準備をしている。梨花のリュックもそこだ」
「わかった」
言って立ち去ろうとする梨花に、雅之は「一休みしたら、早くこっちに来いよ」と声をかけた。
「うん」
背中で答えた梨花は、廊下を奥へと進んだ。
大広間の先には四つの部屋が並んでいる。どれもが畳敷きの六畳間だ。その一番奥が、雅之の言う「いつもの部屋」だった。
「お母さん、入るよ」
廊下で声をかけた。母子でも礼儀は必須だ。
「どうぞ」と信代が返した。
襖を開けると、すでに三つの布団が敷かれいた。信代は部屋の隅で足を崩して座っており、コンパクトミラーを片手に化粧を直している。荷物の類いは信代の傍らにまとめて置いてあった。
「買い物をしてきたの?」
信代は問うとコンパクトミラーをたたんだ。
「県道沿いのコンビニでね」と答えながら部屋に入った梨花は、襖を閉じて信代の前に腰を下ろし、レジ袋を荷物の類いに並べた。
「ここで寝るあと一人って、誰? お父さん?」
布団の数が気になってそう尋ねた。梨花が小学生中学年になった頃から、家族で本家宅に泊まるときは、雅之は別の部屋を使うようになった。とはいえ、今夜の雅之は野辺送りに参加するのだ。
今夜の野辺送りに参加する六人以外でここで夜を明かすのは、葬列を見送ってから帰宅する三人を除いた全員だ。九人と聞いてる。そのうち淳子と仁志は自分の部屋があるため、来客用の部屋をあてがわれるのは七人だ。ならば三人部屋になるのもやむをえない。もっとも、トイレばかりか風呂までが二つあるのは救いだった。無論、普段は未使用というトイレと風呂が、来客用である。
「相部屋になるのは
信代は言った。
「時子おばさんか」
安堵したとたんに笑みがこぼれてしまった。叔母の時子は雅之の妹であり、梨花や信代とは何かと気が合う。
「お父さんは野辺送りに参加するから寝ている場合じゃないでしょう。火葬が済んで朝方に戻ってきてから、大広間の隣の部屋で男だけで仮眠するんだって」
「そうだよね、お父さんは野辺送りに出るんだし。じゃあ、明日の帰りは、お母さんが運転するの?」
「そうよ。帰り際のお墓参りのときもね」
「お母さんの運転のほうが優しい感じがして、お父さんが運転するより好きだな」
「あらまあ。嬉しいけど、何も出ないわよ」
「別にこびたわけじゃないもん」
梨花は頬を膨らませた。信代と二人きりという場がそうさせた。
雅之は通勤に電車とバスを使っており、車を運転するのは休日のみだ。日頃から買い物などで車を使っている信代のほうが運転は慣れている。それは事実だった。
「でもね」信代はそっと肩を落とした。「お清めが済んだら、お父さんの車を山神様の広場まで移動させなきゃならないのよ。時子さんが手伝ってくれるから、助かるけど」
「なんのこと?」
梨花が尋ねると、信代は呆れたように見返した。
「野辺送りに出た人が火葬祭を済ませたあと、火葬場まで行くのに、霊柩車だけでは足りないでしょう。六人もいるんだもん。斎主も含めて七人ね。だからわたしがお父さんの車をそこまで移動させるの。時子さんの車が一緒に行ってくれるから、わたしはそれに乗せてもらって戻ってくるわけ」
「そっか」
「そっか、じゃないわよ。おばあちゃんのときも、葬列の人たちが山神様の広場から火葬場や墓地を経由してここまで戻ってこられたのも、立会人が運転する霊柩車とお父さんの車があったからのことだったでしょう」
「えーと……」
たった二年前ではあるが、祖母――康子の神葬祭のほとんどを、梨花は忘れていた。何より、立会人という存在さえ覚えていなかったのである。神葬祭など多くの中学生にとっては面倒で退屈な儀式であり、記憶に残るほうがまれだろう。火葬祭以降の自分が直接にかかわっていない行程ならば、なおのこと未知の領域だ。
「あのときも、わたしがお父さんの車を運転してあそこまで行ったんだからね」
信代は口をとがらせるが、そんな自分の態度をおかしく感じたのか、すぐに噴き出した。
つられて梨花も「そうだったね」と笑う。「お母さんのほうがお父さんより運転が上手なのは確かだけど、夜の田舎道で車を走らせるのは大変そう。街灯が少なくて、真っ暗なんだもん」
「野辺送りに出るより大変かも」
諧謔を弄する信代だが、彼女が請け負った役目が一仕事であるには違いない。
「でも確かに、火葬場までは遠いよね」
口にして、梨花は南東のほうに顔を向けた。
「そうだよね」信代は言った。「どんなに山神様の儀式にこだわっているとしても、火葬祭が済んでからも歩いてお棺を運ぶ、なんてことはしないわね。火葬場が近かったら話は別かもしれないけど。というより、普通の神式なら、火葬祭は火葬場でやるのよね。墓地が火葬場の近くだったのがせめてもの救いだわ」
山神の斎場と火葬場との間をも野辺送りにすれば、それこそ国道や県道を横断する必要が生じてしまう。距離が長いだけでなく、目立ってしまうわけだ。
「ところで、外出して少しは気晴らしになった?」
信代に問われて梨花は「うん」と頷いた。
「でもね、コンビニで仁志くんと遭遇しちゃったの」
「それは災難」
その苦笑が梨花の苦笑を誘った。梨花から相談を受けたわけでもないのに、信代も仁志の梨花に対する接し方には日頃から憂慮しているらしい。
「そうしたら、偶然にも綾ちゃんがいてね。助けてもらっちゃった」
「まあ、綾ちゃんが?」
信代は目を丸くした。
「賢人くんも一緒だった。綾ちゃんの車でミニドライブしたんだよ。国道の峠を登って、朱の里を見下ろしたりしてね」
「いいなあ、わたしも行きたかったな」すねるような表情を呈した信代が、思い出したように「あっ」と声を漏らした。「綾ちゃんといえば、急遽、綾ちゃんが今夜の斎主を務めることになったんだって。綾ちゃん、言っていなかった?」
「聞いたよ。儀式の祝詞も覚えているようだし、すごいよね」
「そうよね。しかも、市役所の仕事の一環なんだって」
「それも聞いた……っていうか、それは岸本さんから聞いたんだけど」
「岸本さんにも会ったの?」
「うん」梨花は頷いた。「綾ちゃんたちと分かれてコンビニで買い物をして、歩いてここに戻ってくる途中で会ったの。岸本さんってば、細い道に車を乗り入れちゃって立ち往生していたんだよ」
「岸本さんって、結構そそっかしい人なんだね」
などと笑った信代が、すぐに表情を引き締めた。
梨花も笑顔を忘れてしまう。
「何か心配事でもあるの?」
「ええ」
歯切れの悪い返事だった。
「言ってよ」
気になるあまりに促すと、信代は口を開いた。
「市役所の仕事の一環、というのが引っかかってね」
「それは、わたしも感じたよ」
梨花は相づちを打った。
「でしょう?」信代は続けた。「合併する以前からも、立会人を出すとか、朱村役場はこの風習にかかわってきたけど、今回なんて、斎主の代理までもが市役所の仕事の一環なんだもの」
「そのくせ、山神様の儀式は今回で終わりだもんね」
「そう。金盛市がそうさせた。それに立会人も、急遽、岸本さんに変わったし」
「えっと……以前は岸本さんじゃなかったんだっけ?」
「おばあちゃんのときの立会人は、違う人だったでしょう」
梨花は「そうだったかもね」と曖昧に返しておいた。
「本当に、わからないことばかりよ」
信代は言うと、遠くを見るかのごとく壁に目を向けた。
この話題を避けていた信代だが、この期に及んでたがが外れたようだ。ならば、と梨花も口にする。
「野辺送り……というか火葬祭に参加したことのある人は、みんな、何かを隠しているよね。綾ちゃんも肝心なことは絶対に話してくれない。それどころか、宮司の家に生まれた賢人くんにさえ、やっぱり肝心なことは知らされていないの」
「葛城さんのお宅でも、そういうふうなんだね」そして信代は、梨花を見た。「わたしね、なんだか怖いのよ」
「怖い?」
問い返した梨花が、背筋に冷たいものを感じてしまう。
「何か恐ろしいことが起きるような気がするのよ」
「恐ろしいこと……って、たとえば、どんな?」
「わからない」信代は首を横に振った。「わからないけど、みんながこぞって隠しているんだもの。起きるような気がする……というより、もう起きているのかもしれない。いくら今回で終わりだからって、この嫌な感じは、今後もずっと残りそう」
「そうだよね。たとえ市が絡んでいても、公にできない儀式なんだし」
そして梨花は、コンビニエンスストアでの主婦らしき二人の会話を思い出した。不吉なあの会話だ。
――お母さんだけじゃない。みんなが恐れている。
梨花は身震いをこらえた。
祖父の啓太は細面で彫りの深い顔立ちだった。享年七十歳である。まだ若いのに、と言われているが、取り巻く環境を見れば、悔やまれているというより忌み嫌われているようである。そういった感情は啓太に対してではなく風習に対するものなのだろうが、少なくとも、啓太は梨花には優しかったのだ。ゆえに梨花は、啓太が不憫に思えてならなかった。
暗澹とした空気を払拭すべく、梨花はレジ袋から箱入りのチョコレート菓子を取り出した。
「お母さん、これ、一緒に食べよう」
「ありがとう。これを食べたら、みんなのところへ行こうね」
「うん」
梨花は頷き、信代とともにチョコレート菓子を口に入れた。
お気に入りのはずの味が、なぜか素っ気なく感じられた。
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