第4話 ②
明かりの灯された提灯が玄関と来客用トイレに一つずつ置かれた。一階の南に面した廊下は雨戸を閉めずにサッシ窓を閉じただけであり、異様なあの光に照らされているため、提灯は必要なかった。そのぶん、大広間の三隅に残りの提灯が置かれた。もっとも、大広間は襖が取り払われたままであり、ほかと同様にあの光が入り込んでいるため、提灯はその光が消えた場合に対しての備えという意味合いらしい。
大広間に入った面々が任意の位置に腰を下ろした。二列の座卓はそのままであり、座卓と座卓との間の一番端――棺を安置していた部屋側に、ふすまを背にして喜久夫があぐらをかいた。梨花は喜久夫の反対側の端で小さくなり、そんな梨花を守るように、信代が隣についた。
「みんなそろったな?」
三つの提灯によって照らされた大広間を、喜久夫が見回した。
「ああ、そろったよ」
そう答えた俊康は、良子や花江、淳子、時子、紀夫といった身内たちの中にいた。
この寄り合いには仁志はもちろん、綾と賢人も臨席していた。仁志は金成ら近所の高齢者組の脇――しかも廊下側という隅のほうで魂が抜けたかのように呆然としており、綾と賢人は喜久夫の近くに腰を下ろし、力なくうつむいている。
お茶などが改めて出されることはなかった。非常事態の大事な話ということで、あらかじめ、喜久夫が淳子に「何も出すな」と申しつけておいたのだ。座卓に置いてあった飲みかけの茶碗はそのままにされた。
「結論から言う」重い口調で喜久夫は言った。「儀式は失敗した」
その瞬間、仁志の上半身がびくっと震えた。俊康と年配者四人組に至っては、明らかにほかの誰よりも色を失っている。俊康や年配組に共通するのは、山神の儀式における野辺送りから埋葬までの行程に参加した経験がある、ということだ。梨花は彼らの動揺に得心がいった。
「じゃあ、やっぱりあの怪しい光は……」
言いさした井坂は面々を見回し、口にしたこと後悔するようにそっとうなだれた。
それを受けて喜久夫は頷く。
「たぶん、そうだと思う。あの光がどういったものなのかそこまではわからないが、山神様はお怒りになられたんだ」
「話の腰を折るようで申し訳ありませんが」紀夫が挙手して口を挟んだ。「聞いていると、まるで山神様が実在するかのような話ですね」
この疑問が呈されると、信代はもちろん、淳子や時子、良子、花江も、同じ疑問を有していたとばかりに小刻みに何度も頷いた。
「答えよう」喜久夫は緊張の面持ちを呈した。「本来なら、野辺送りに出た者か出る予定の者だけが知ることだ。しかし非常事態の現状では、これまで知らなかった人たちにも知ってもらわなければならない」
「向こうでは、それでいいということになったんだな?」
俊康が尋ねた。
「雅之の提案だが、勝義くんも了承してくれた」
「葛城勝義くんも来ていたのか?」
次に尋ねたのは吉田だった。
「山神様の斎場から山神様の広場に戻ったときに、そこで会った。心配で様子を見に来たらしい」そして喜久夫は紀夫を見た。「そう……山神様は実在する」
「まさか」と良子が声を漏らした。
「良子、黙るんだ」
俊康が自分の妻をたしなめた。
「でも」時子が一同を見回しながら口を開いた。「信じられなくて当然です。野辺送りの経験のある方は、その山神様を見たことがあるんですか?」
「あるさ……もちろんな」
重い口調で答えたのは野口だ。金成と吉田、井坂が、野口に追従するかのごとく頷いた。
「いったいなんなのよ、山神様って」
じれったそうに口走った淳子は、
「あんなの、神様なんかじゃねえ!」
不意に仁志が叫んだ。彼の顔はこわばっていた。
「仁志、あなたは黙っていなさい」
淳子はきっぱりと言うが、仁志はそんな母を睨んだ。
「おれは見たんだ。みんなが山神様と敬っていたやつをな。内臓みたいな姿の化け物なんだよ。その化け物が、おれのおやじを食ってしまったんだ」
その訴えの最後の部分で、現場を目にしていない者たちがざわついた。
「何を言っているの?」淳子が声を尖らせた。「山神様が化け物だとか、お父さんが食われただとか」
「仁志の言うとおりなんだ」喜久夫が言った。「和彦は山神様に食われてしまった」
「喜久夫おじさんまで何を言うんです」
自分の夫の死を認めたくない、というよりは「突拍子もない与太話」と受け取ったらしく、淳子は呆れ顔で小さくかぶりを振った。
「信じられないだろうが」喜久夫はそこで言葉を切り、一呼吸を置いてから続ける。「淳子さんも時子さんも、朱を取り囲んでいるあの光を見たはずだ。すでに、ありえない現象を目の当たりにしているんだよ。信じられない、の一点張りじゃらちがあかない」
「でも、あの光がなんなのか、まだわかっていません」
淳子は食い下がった。
「証拠はあるんだ」と言って仁志が立ち上がった。
うつむいていた綾と賢人が、顔を上げて仁志を見た。
梨花を含むほかの者も一斉に仁志に目を向ける。
一同の視線を一身に浴びた仁志は、目の前の座卓をまたいで反対側の座卓へと歩み、淳子の正面で立ち止まった。そしてカーゴパンツのサイドポケットからスマートフォンを取り出す。
そんな仁志を、淳子は困惑の表情で見上げた。
「火葬祭の最中の斎場に、おれは乱入した」仁志は淳子を見おろした。「そのせいで山神は怒ったんだ。おれが撮った動画には、おやじたちが立会人に何をしでかしたかも映っている」
重々しい表情の仁志はスマートフォンの画面を操作し、そのスマートフォンを淳子に差し出した。
両手で持ったスマートフォンに、淳子は目を落とした。彼女の表情に緊張が走った直後に、スマートフォンから「早くやめさせなきゃ」とか「まだだめだ」といったささやき声が聞こえた。馬の背での賢人と仁志とのやりとりらしい。おそらく動画は、岸本が巨石に寝かされた辺りだろう。
そして綾の呪文やいくつかのささやきが聞こえたのちに、スマートフォンを両手で持つ淳子は、画面に向けた目を見開いた。
「なんなの……このお化けみたいなのは……」
見開いた目を逸らせないまま、淳子は声をうわずらせた。
スマートフォンの動画で和彦の最期を確認した淳子は、声にならない声を上げて卒倒しかけた。自分の部屋で休むように皆に勧められたが、それでも彼女は「ちゃんと事態を把握しないと」と蒼白した顔で訴え、その場を離れようとしなかった。
「みんなにも見せてやれよ」と淳子に伝えた仁志は元の位置に戻って座り込み、座卓に伏せてしまった。
撮影時の仁志の手は震えていたはずだが、淳子の様子からするとその動画はまともに見ることができるようだ。手ぶれ補正が機能していたとおぼしい。
仁志のスマートフォンは淳子から俊康に渡され、俊康と良子と花江の三人がまとまって動画を見た。そしてスマートフォンは順次、年配組の四人、信代と時子と紀夫の三人、というように現場いなかった者たちに回され、自然とできたそのグループごとの視聴となった。
動画を見た全員が動揺していることは、梨花にも感じ取ることができた。特に、隣に座る信代の呼吸の荒さははっきりと伝わっていた。
スマートフォンが戻ってくると仁志は顔を上げてそれをカーゴパンツのサイドポケットに入れ、小さなため息を落とした。
「何がなんだかわからないわ。和彦兄さんと雅之兄さんさんが岸本さんを襲ったり、変なお化けが出てきたり、お父さんや和彦兄さんが食べられちゃったり……ありえない光景ばかりで」
声を漏らしたのは時子だった。
「仁志よ、なんであんなことをしたんだ?」
俊康が問い詰めるが、仁志は黙って首を横に振るだけだった。
「なあ、俊康兄さん」喜久夫が口を開いた。「おれたちにも責任があるんじゃないか」
その言葉に俊康は、納得がいかない様子で眉を寄せた。
「喜久夫は何が言いたいんだ?」
「昔から山神様の儀式で死人を神饌として捧げてきたことも、今回の立会人のことも、公にできないことばかりだ。つまりは、そういうことだよ」
諦めの混じった表情で喜久夫は言った。
「山神様の信仰自体を否定するつもりか?」
俊康の口調は喜久夫を非難するかのようだった。
「それじゃあ」紀夫が口を開いた。「これまでずっと、あの化け物に死者を食べさせていた、ということなんですか?」
「口を慎みなさい。化け物ではなく、山神様だ」
俊康が叱責した。しかし紀夫は、険しい面持ちで座卓の上に身を乗り出す。
「あれのどこが神様なんですか。死者を食べさせていたということは、つまり、死者は埋葬されていなかったわけでしょう。山神は化け物であり、死者はそれに食われていた。ならば、野辺送りの真相を知らない者は、みんな、だまされていたことになる」
「しかも」賢人が顔を上げて話を繫いだ。「今回の儀式では立会人までもが化け物の贄にされる予定だったんです」
「うちの主人と和彦さんとで岸本さんに何かしていたけど、あれが……岸本さんを贄にするということなの?」
今にも泣き出しそうな声で、信代は賢人に問うた。
「特殊な睡眠薬を染み込ませたハンカチを口に当てて、岸本さんを眠らせたんです」
うつむいたままそう言った綾を、すかさず紀夫が睨んだ。
「眠らせておいて、あの化け物に食べさせる? それこそ犯罪じゃないか」そして紀夫は俊康に視線を戻した。「ならば仁志くんを責め立てるのはおかしい。自分たちの業を棚に上げておいて、儀式の失敗も何もあったものじゃない」
珍しく紀夫が仁志をかばう形となった。それほどまでに儀式の異様性は甚だしいということだろう。
対する俊康は、憤りを呈していた。
「紀夫くんはそう言うが、この朱や近隣の地域を山神様から守るためには必要なことだったんだよ」
「守る? それがどういう意味なのかわかりませんが、とにかく、死者だけでなく、なんの罪もない岸本さんまでもあの化け物に食わせようとした。そうなんですよね?」
紀夫は声を荒らげた。
「岸本さんに罪は……あったんです」
静かに言って、綾は顔を上げた。
「え……」と声を漏らし、紀夫は綾を見た。
「岸本さんは、前の職場……本所で業務上横領をしたんです」綾は一同を見回した。「領収書を偽造して経費を浮かせていた……そのことに気づいたある人が、岸本さんに、このことは伏せておくから朱支所への転属を素直に受け入れてくれ、と促したんです。でもそれは、山神様の生け贄にされるためでした。当然、岸本さんは自分が生け贄にされることなんて知らなかったはずです」
紀夫や淳子らは言葉を失っていた。梨花も綾の話を飲み込むのに五秒ほどを費やした。
「その、ある人……って?」と尋ねたのは時子だった。
しかし綾は口ごもり、俊康と喜久夫とを交互に見た。
「それはな……」
喜久夫は言葉を詰まらせ、俊康に至っては皆から目を逸らす始末だった。
「これまでも立会人を生け贄にしていたんですか?」
仕切り直すように紀夫が尋ねた。
「いや」喜久夫が口を開いた。「山神様の最後の儀式……昇天の儀ということで、生きたままの神饌……生け贄が必要なのは今回だけなんだ」
「だからって、そんなことが許されるはずがない」
座卓の一点を見つめながら、賢人が言った。
「もしかして君は、儀式を止めようとして、山神様の斎場へ行ったのかい?」
問うた紀夫は、とがめるふうでもなく、じっと賢人を見つめた。
「はい。姉さんにそんなことをさせたくなかったんです」
視線を変えることなく賢人がそう答えると、その隣で、綾が唇を噛み締めた。
「ねえ梨花」信代が横目で梨花を見ながらそっと声を出した。「お父さんは本当に岸本さんにあんなことをしたの?」
梨花は動画を見ていないが、梨花が見たのと同じ状況を映しているはずだ。ならば答えても意味はないが、「わたしは、あそこで見たことが信じられない」と小声で返しておいた。無難な答えというより、卑怯な手段であろう。それでも自分の父を悪者にしたくなかった。
何かを追求すれば誰かのせいになる――そんな場面ばかりだが、梨花はそれに違和感を覚えた。根本的な疑問がまだ説明されていない。
梨花は顔を上げて喜久夫を見た。そして、思いきって声を出す。
「そもそも、山神様ってなんなの?」
その瞬間、喜久夫は「それは……」と声を詰まらせた。
それでも梨花は、答えを待った。
雅之が仁志のSUVで葛城宅の玄関の前に来ると、すでに霊柩車が勝義のミニバンの脇に停まっており、白衣姿の勝義やフォーマルスーツ姿の面々が立っていた。
霊柩車の横にSUVを停めて灯火類とエンジンを切った雅之は、周囲が明るい、という状況に気づいた。このSUVのヘッドライトは落としてあるうえ、周囲に照明の類いは何もない――にもかかわらず、集まっている一同の様子が十分に把握できる。
雅之がSUVを降りてドアを閉じると、柴田が「停電らしい」と声をかけてきた。
「停電……こんなに明るいのに?」
生け垣の外を見渡せば、確かに街灯は一つも灯されていない。SUVを走らせている最中は気づかなかったが、朱の里を取り囲む光――特に空に伸び上がる幕が勢力を増したおかげで、一帯は十五夜のように明るいのだ。
「お疲れ様」勝義は雅之に言った。「間もなく何人かが来てくれるはずだが、先に立会人を棺ごと中に運んでおこう。それにしても、悪いタイミングでの停電なんだ。外は明るいが家の中は真っ暗だから、照明器具を集めておく」
「わかりました。……ところで、この停電は山神様と関係があるんでしょうか?」
雅之が尋ねると、勝義は周囲の光を見渡した。
「あるかもしれない。時間が過ぎるごとにさらに異常な事態に陥るかもしれないな」
それがすでに起きている可能性は考えられるだろう。感じていた懸念を雅之は口にする。
「もしかすると、朱にいる人々は閉じ込められたんじゃないんでしょうか?」
「山並みに沿って朱を取り囲んでいる光が、県道の市街地に繫がる部分……あの平野部にも横たわっているとすればな」
「となると、完全に包囲されたということになりますね」
「しかしあの光を通過することが可能か不可能か、それ自体がわからんのだよ。市街地方面だけじゃなく、南と西と北、それぞれの峠もしかりだ」
「それらの問題も検討しなければなりませんね」
「そうだな」と答える勝義の後ろで、岡野と大賀、柴田らも首肯した。
「さあ、まずは棺を家の中に運ぼう」
勝義の言葉で、柴田が霊柩車のバッグドアを開け、棺の載った棺台を引き出した。
「葛城さん、照明の準備をお願いします」
雅之の訴えに「わかった」と返した勝義が、玄関の鍵を開け、中に入った。
「こいつをどうするかという問題もあるな」
棺を見下ろしつつ、岡野が言った。
犯罪者である岸本だが、自分たちも彼を睡眠薬で眠らせたのだ。その自分たちの罪を隠蔽するのであれば――そして山神の存在を隠し続けるのであれば、岸本という生き証人は障害となるだろう。とはいえ、彼を処分するなどできそうにない。生け贄として山神に差し出したのに、である。少なくとも雅之には無理な策だ。
玄関の中が明るくなった。引き戸は開けたままだが、光源が何かは見極められない。
「明かりをそろえた」
玄関から顔を出した勝義が言った。
「今から棺を運びます」
そう返した雅之は、岡野と大賀、柴田に目配せした。
フォーマルスーツの四人が棺を取り囲んだ。
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