第7話 ④

 奥の部屋では綾のために布団が一組だけ用意された。床に就いた綾には、梨花と信代、時子が付き添った。

 満里奈と波瑠は大勢のほうが心強いと訴えて大広間に移った。もっとも、綾を気遣って部屋から離れたという見方もあるだろう。彼女たちは大広間でそれぞれ自分の母とともにいる。波瑠に至っては父も同席しているが、満里奈の父は例の光によってあか地区に戻ってくることができない状況らしい。彼女たち二人の女子中学生の事情は、似て非なるものなのだ。

 いずれにしても、賢人には居場所がなかった。庭に出てみれば、幸か不幸か、臨時の喫煙所だという軒下には誰もいない。植え込みといくつかの植木鉢と一本の松、あとはだだっ広いだけ、という庭だ。それでも賢人の自宅の庭よりは趣があるだろう。

 片隅に庭石を見つけた賢人は、それに座った。所在なく、ナイロンジャケットのポケットからスマートフォンを取り出そうとするが、電波が遮断されている現状を思い出して手を止める。

 ため息をついて空を仰ぎ、光の幕の揺らめきを改めて凝視した。ひかりの強い部分は白としか言いようがないが、弱い部分はその外側に広がる空を透かしてみせている可能性がありそうだ。夜間よりも日中のほうが顕著である。とはいえ色は曖昧であり、青みがかっているのか灰色がかっているのか、判然としなかった。

 玄関の引き戸を開ける音がした。しかし賢人の位置からでは、植え込みと屋敷の外壁とに遮蔽されてそちらの様子は窺えない。加えて、怒鳴り声も届いたが、言葉の内容までは聞き取れなかった。

 廊下のほうに目をやれば、襖を開けたままの大広間から何人かの男たちが玄関のほうへと歩いていくところだった。その二つ手前の部屋では、襖が開き、時子が顔を出して玄関のほうを見ている。誰がそうしたのか、廊下のサッシ窓は再び全開にされていた。

 何が起きているのか気になり、賢人は立ち上がって玄関のほうへと歩き出した。

「賢人くん」

 声をかけられて足を止めた賢人は、廊下へと目をやった。襖から顔を出している時子が、手招きをしていた。

「いかないほうがいいよ。廊下から上がって、こっちへいらっしゃい」

「え……でも……」

 賢人は言葉を濁すが、時子は顔をしかめて首を横に振っている。

「いいから早く」

 再度の忠告を受け、賢人は靴を脱いで廊下から上がった。

 大広間を覗けば、満里奈や波瑠も含め、残っている男女が不安そうな表情を浮かべていた。何人かの男は立ったまま玄関のほうを気にしている。

「なんなんですかあなたたちは!」

 玄関のほうで声が上がった。前日の夜に顔を合わせた芹沢淳子である、と賢人は気づいた。一面識があるだけだが、間違いない。寝込んでいるとは聞いていたが、起きてきたらしい。だがやはり、この位置からでも玄関の様子を目にすることはできなかった。

「だからここが野辺送りを出したばかりの芹沢家なんだろう!」

 大声だ。男の声である。そのほかにも恫喝するような声がいくつも同時に上がっていた。

「あんたら、大勢で押しかけてきて、どうかしているぞ。ここは悔やみを出したばかりなんだ。わきまえてくれないか」

 これも男の声だ。

「聞いてのとおりだ。すぐに帰ってくれ」

 別の男の声がした。

「邪教のやつらがほざいてんじゃねーよ!」

 これもまた別の男だ。

「何をこそこそやっているのか、見せてもらおうじゃないか!」

 そしてまた別の男が声を上げた。

「勝手に上がらないで! 土足で上がらないで!」

 淳子の叫びがした。

 さすがにほうってはおけないのだろう。俊康や喜久夫、裕次、岡野、大賀、柴田らが、大広間から玄関へと向かった。ほかにも何人かの男たちが続いた。

「賢人くん」

 またしても時子に呼ばれ、賢人はそちらへと足を進めた。

「石塚さんが言っていた人たちよ」

 そう言葉にして、時子は賢人を部屋の中にいざなった。

「山神信仰反対派……でしたっけ?」

 訊きながら、賢人は部屋に入った。

「たぶん、そうね」と答えて、時子は襖を閉めた。

 部屋の片隅に布団が敷いてあり、綾が掛け布団を口元まで覆って目を閉じていた。その横に腰を下ろしている梨花と信代が、不安げな顔で賢人と時子を見上げている。

「淳子さんが玄関にいたみたいですよ」

 賢人はそう伝えた。

「声が聞こえたような気がしたけど、やっぱりそうなんだ」

 時子はさらに表情を曇らせ、信代に視線を移した。

「淳子さん、心配ね」信代が話を繫いだ。「反対派の大声で起き出したのか、たまたまなのか、それはわからないけど、和彦さんがあんなことになったばかりなのに、こんな騒動に遭うなんて……」

「とにかく、反対派の人たちを興奮させないようにしなくちゃ。わたしたちは、ここでおとなしくしていましょう」

 言って時子は、賢人を見た。

「はい」と頷いた賢人だが、反対派のあの剣幕は、早々には鎮まらないような気がしてならない。

「貴様ら邪教徒が朱をこんなにしちまったんだ!」

 またしても怒鳴り声が聞こえた。「そうだそうだ!」だの「山神の手下め!」だのと怒号が続く。

 梨花が信代の隣で震えていた。

 布団の中の綾は、眠り続けている。

 今の自分に何ができるのか――時子の横に立ったまま、賢人は考えていた。


 暴漢がなだれ込んできたとき、沙織は自分が盾になるように、座ったまま強く満里奈を抱き締めた。しかし能動的に行動できたのはそこまでだった。騒然とした大広間で何が起こったのか、断片的な記憶があるだけだ。

 暴漢の中に修司がいたことはわかった。「裏切り者がいるぞ!」と怒鳴った彼に髪を鷲掴みにされて倒された。そして気づけば、満里奈が畳の上でうつ伏せになっていた。自分の娘は頭から血を流しており、その頭は心なしかゆがんでいた。

 半身を起こした沙織は満里奈に近づこうとした。そんな沙織の前に、図太い金属の棒を右手に下げた修司が立ち塞がった。金属の棒の先端が鮮血で濡れていた。


 部屋の外は阿鼻叫喚の騒ぎだった。

 全身の力が抜けて立つことさえできない梨花は、横に座る信代に肩を抱き締められていた。そんな二人を背にして、時子が膝立ちになっている。さらに時子を背にして、賢人が立っていた。綾だけが、この緊迫した空気から遮断されたかのごとく眠り続けている。

 賢人は両足を肩幅に開いて身構えていた。山神信仰反対派が入ってきたら戦うつもりらしい。無論、梨花は賢人にそんな暴挙をさせたくなかった。

 廊下を踏み鳴らす音が近づいてきた。

「みんな、気をつけて」

 襖を睨んだまま賢人はそう言うと、両手にこぶしを作った。

 外側から荒々しく襖が開けられた。廊下には一人の中年男が立っている。その男は長さが一メートルはありそうな木製の角材を右手に提げていた。

「ここにもいるぞ!」

 叫んだ男が角材を片手で振りかぶった。

 それが振り下ろされるより早く、賢人が男に飛びかかった。

 身を低くして組みついた賢人が、右のこぶしで男の股間に一撃を与えた。

「あぐっ」と声を上げて男が背中を丸めた。

 間髪入れず、賢人は男のみぞおちを左膝で蹴り上げ、そのまま男を押し返した。

 サッシ窓が開いたままの廊下から、男が背中から仰向けに庭へと落ちた。

 男の両足が廊下の外で上がるのを、梨花は見た。男は靴を履いていた。他人の家に土足で上がるような行為に、梨花は胸のむかつきを覚えた。

 大広間側から別の男が賢人に飛びかかった。不意を突かれたらしく、賢人はその男に両手で首を絞められてしまう。

「ガキのくせに邪教の徒かよ!」

 声を荒らげた小太りのその男が、目を剝いて両手に力を入れた。

 力の差があるのだろう。賢人は男の両手を引き剝がそうとするが、かないそうにない。

 時子が「その子を離しなさい!」と叫びつつ腰を上げた。

 賢人を救ってほしいのは当然だが、無謀である、と梨花は感じた。ならば自分が時子に加勢すれば賢人を救える確率は上がるかもしれない。だが、意に反して梨花の体は固まっていた。

 時子が廊下に出るより先に、長い何かが小太りの男の後頭部を殴った。

 息を吞んで、梨花は見守った。

 小太りの男がその場に崩れ落ち、解放された賢人は前屈みになって咳き込んだ。

 襖の陰から現れたのは仁志だった。彼は座卓の脚のようなものを右手に提げており、それでこの闖入者を殴ったらしい。

「賢人くん、大丈夫?」

 時子が賢人に近寄った。

 ふらつきながらも、賢人は顔を上げた。咳き込みは鎮まったようだ。

「ええ、なんとか」答えた賢人が、仁志に顔を向けた。「仁志さん、ありがとう」

 仁志が賢人を救う光景など、梨花は頭の片隅にも置いていなかった。この期に及んで軋轢などにこだわっている場合ではない、ということだ。

 大広間のほうでも騒ぎは収まっているようだ。何か話し声が聞こえるが、内容は聞き取れない。すすり泣く声が聞こえるのが、梨花には気になった。

「まだ油断できないぞ」仁志は言った。「上がり込んできたやつらは、この二人以外に八人はいた。この二人以外はとりあえず退散したけど、石塚さんっていう人の話どおりなら、仲間はもっといるはずだ」

 平田の団地での決起集会には、最低でも三十人はいたらしい。さらに朱の旧家で山神信仰に疑念を抱く者が加わったとすれば、それ以上の数になる。

「けがをしている人とか、いない?」

 時子に問われて仁志は足元の小太り男を見下ろした。小太り男は生きてはいるようだが、意識はない。庭に落ちた男も動く気配がなかった。

「この人じゃなくて、わたしたちの仲間のことよ」

 じれったそうに時子は言い募った。

「ああ……うん、何人かはけがをしているよ」

 仁志は言葉を濁した。

「じゃあ、早く手当をしなきゃ」

 言って時子は、信代に視線を移した。手を貸してほしいのだろう。

 信代が梨花から手を離して頷くと、仁志が首を横に振った。

「いや、ちょっと待って」

「いったいどうしたのよ」

 時子は仁志を睨んだ。

 しかし梨花は、ただならぬ雰囲気を仁志から感じ取っていた。黙して仁志を見ている賢人も、おそらく梨花と同じ気持ちなのだろう。

「殺された人もいるんだ」

 その答えに時子は言葉を失っていた。

「殺されたのは、誰?」

 訊いたのは賢人だった。

「大賀さんと……」

 知っている名前が出るなり、梨花は震え上がった。もう聞きたくないが、いずれわかることである。耳を塞ぎたいのをこらえて、仁志を見つめた。

「満里奈っていう子……あと……」

 仁志は泣いていた。もっとも、梨花も涙を流していた。

「あと……」嗚咽交じりに仁志は続けた。「あとは……うちのおふくろ……」

 またしても身内が命を落とした、ということだ。そんなにも簡単に人は死ぬものだろうか――梨花は心の整理ができなかった。

「淳子さんまで」

 そうつぶやいた信代が、小刻みに首を横に振った。

「わかったわ」時子は仁志の肩を軽く叩いた。「あなたと……それから賢人くんはここにいて」

 言って、時子は廊下へと出た。

「時子おばさん」

 思わず、梨花は声をかけた。

「あなたもここにいて。信代さんも来ないほうがいいわ」

 時子はそう言うが、信代は「でも……」と腰を浮かせかけた。

「またあの人たちが来るかもしれないんだったら、綾ちゃんもいることだし……そういうことよ」

 理にかなっているようなかなっていないような、梨花には飲み込めなかったが、時子のその言葉で信代は腰を落ち着かせた。

「時子おばさん、おれは行ったほうがいいんじゃないかな」

 自信なさげに仁志が訴えた。

「また奇襲があったら」時子は答える。「賢人くんと一緒に、ここを守って」

 得心がいったらしく、仁志は頷いた。

 時子が大広間のほうへ行ってしまうと、賢人は庭へと降りてすぐに廊下に上がった。彼の右手には角材が握り締められている。

「なあ賢人、こいつらを縛っておいたほうがいいよな?」

 足元の小太り男と庭のほうを交互に見ながら、仁志は尋ねた。

「そうだね……そうしよう」

 賢人は頷いた。

 そんな二人を見ながら、梨花は何もできないでいる自分に気づいた。


 芹沢本家宅の前を横切る市道の左右に何台もの車が停まっているが、出発したときよりも台数が減っているかもしれない。高田のミニバンはその西寄りの端で停まった。

 ハンドルを握る高田が「ん?」と声を漏らし、前方を凝縮した。

 雅之も同じ様子を目にしていた。八人の男たちがこの市道を東へと走り去っていくのだった。

 シートベルトを外した紀夫が、運転席と助手席との間から顔を出して「なんだあの人たちは」と声を漏らした。

「ここにいた人ではないみたいですね」

 高田が眉を寄せた。

「何かあったのかもしれない。急ごう」

 胸騒ぎを抑えきれず、雅之は告げた。

 三人はミニバンを降りた。

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