第1話 ②

 結局、お茶が用意されて信代が雅之の隣に腰を下ろすと、梨花の居場所はなくなってしまった。とはいえ、スマートフォンをいじって暇つぶしをするにしても、家の中や庭をうろつけば仁志と顔を合わせる恐れがある。梨花は仁志についてはふれずに近所を散歩する旨だけを両親に訴え、午後四時までならという条件付きで了承を得た。

 門を出て腕時計を見ると、午後一時四分だった。自由時間は三時間弱である。

 集落の中ではあるが、隣家でさえ歩いて三分以上はかかる。そのためか、見渡しても人の姿は皆無だった。

 梨花はわずかな安堵を得た。芹沢一族の者であることがわかってしまえば、葬式の話題を振られることは必至だ。高齢者の多い土地なのだから、その確率は高い。面倒な事態は可能な限り避けたいものだ。少なくとも梨花は、顔見知りでもない高齢者を相手にそんな話などしたくなかった。無論、仁志を相手にするよりははるかに気が楽なのだろうが。

 南に延びる未舗装の細い一本道に足を踏み入れた。両側には畑が広がっている。芹沢本家の畑ではない。栽培されている野菜が何か、梨花には判然としないものが多いが、チンゲンサイがあることだけはわかった。

 歩きながらスマートフォンを確認したが、メッセージの新着はなかった。友人らとのやり取りを楽しみたいところだが、休日なのは自分だけであるのを思い出し、スマートフォンをブレザーのポケットに戻した。

 細い一本道を二百メートルも歩くと、片側一車線の舗装路へと出た。金盛市の市街地と隣の市とを結ぶ県道だ。芹沢本家宅の前を横切る市道よりも広い東西に走るこの道路には、両車線の外側のそれぞれに歩道がある。もっとも、この沿道も家は少ない。梨花から見て一番近い建物は、東に五十メートルほど進んだ辺りにあるコンビニエンスストアだ。高齢者ばかりでかつ人口の少ない地区であるが、十五年ほど前に改修工事が施されたというこの道路は、それなりに交通量があり、コンビニエンスストアの需要はあるという。

 梨花の目指す場所はその店だった。ブレザーのポケットには財布やスマートフォン以外にも、折りたたまれた三枚のレジ袋が入っている。抜かりはない。菓子類や飲み物など、気に入った品があれば購入するつもりだ。

 近くに横断歩道はないが、行き交う車を見越し、梨花は道路を渡った。それなりの交通量がある――とはいえ、市街地の幹線道路と比較すれば明らかに少ない。いずれにせよ、どちらの方面へ向かう車も大半があか地区にはかかわりがない、と思われた。

 コンビニエンスストアの駐車場は十台ぶん以上のスペースがあるが、停まっている車は五台だけだった。

 店に入った梨花は、ほかの客を避けて菓子類を物色した。

「やっぱり来ちゃうよなあ」

 聞き覚えのある声に振り向けば、ワイシャツの上にナイロンジャケットを羽織った仁志だった。ボトムは黒いフォーマルのままだが、さすがにネクタイは外していた。眼鏡の内側の目が嘲笑を浮かべている。

 梨花は無意識のうちに一歩、あとずさった。

「この朱で女子高生が行くところなんて、ここくらいだろうし」

 言って仁志は、失笑した。

「仁志くん、わたしがここに来るのを知っていたの?」

 睨みつけて、梨花は尋ねた。

「知るわけないだろう。それとも、おれが梨花にストーカー行為をしているとでも? そりゃあ自意識過剰ってやつだよ。だいたい、おれのほうが先に来ていたんだし。まあ結局、おれの買いたいものはなかったけど」

 臆した様子もない仁志だが、梨花は信じなかった。

「わたしは別に仁志くんと話すことなんてないから。じゃあ」

 買い物ができる状況ではない。両親のそばにいるのが無難だ。梨花はきびすを返して店外へと出た。

 駐車場に接する歩道に至った辺りで気配を感じ、歩きながら振り向けば、すぐ後ろに仁志がいた。

 梨花は足を止めた。

「いい加減にしてよ」

「自分のうちに帰るのが、いけないのか?」

 対峙した仁志は、嘲笑を崩していなかった。

 ならばこうするしかない。

「わたし、買い物をしていく」

 梨花は仁志の横をすり抜け、再びコンビニエンスストアへと向かった。

 案の定、靴音が追ってくる。

 立ち止まって振り向くと、目と鼻の先に仁志の喉元があった。

「危ないなあ。急に止まるなよ」

 笑いをこらえているらしい。

 すかさずあとずさり、梨花は間合いを取った。

「やっぱりストーカーじゃん」

「んなわけないだろう。いとこ同士だぜ」

「変態! ばか!」

 たまらず、梨花は叫んだ。

「おいおい、恥ずかしいから大声を出すなよ」

 仁志は眉を寄せるが、笑みは浮かべたままだ。

「どうしました?」

 声がした。女の声だ。

 見れば、駐車場に前向きで止めてある黒い軽トールワゴンのほうから、ブラウスにジーンズという姿の二十代とおぼしき女が歩いてくる。セミロングのストレートヘアが軽く揺れていた。

「あら、梨花ちゃんじゃない? それに、芹沢くん」

 梨花たち二人の前で立ち止まったのは、かつらあやだった。この朱地区の住民であり、梨花とは顔なじみだ。

「綾ちゃん、あの……」

 挨拶が先なのだろうが、そんな余裕はない。とはいえ、綾にこの窮状を伝えるべきか、躊躇してしまう。

「どうやら、梨花ちゃんは困っているようね」

 口調は穏やかだが、仁志に向けられた双眼は険しさをたたえていた。

「なんだよ葛城……おまえには関係ないだろう」

 仁志の顔から笑みが消えた。

「ストーカー、って聞こえたわ」綾の目つきはさらに険しくなった。「ことと次第によっては通報するようかもね」

「おれは、別に……」と言葉を濁した仁志が、視線を綾から逸らした。

「少なくとも梨花ちゃんは嫌がっているわ」

 追求が重なり、仁志の口が引きつった。

「ばかばかしい」と吐き捨てた仁志は、小走りで道路を渡ると、芹沢本家宅のほうへと大股で歩いていった。

山神やまがみ様の儀式があるっていうのに」そうこぼした綾が梨花に顔を向けた。「梨花ちゃん、大丈夫だった?」

 言葉をかけられて、梨花はようやく我に返った。

「うん……あの、おかげで助かったよ。ありがとう」

 礼を述べることはできたが、動揺は隠しきれなかった。

 そんな梨花を見て綾は笑みを浮かべる。

「どうってことないわよ。芹沢くん……えっと、仁志くんを黙らせるのは、小学生の頃から慣れているの」

 綾と仁志は同期だ。それは遠い昔に聞いていたが、その二人が仲よくしているところを梨花は見たことがなかった。もっとも、梨花はこの土地の住民でないため、綾と仁志がどの程度の頻度で顔を合わせるのか、そこまでは把握していない。

「それより」綾は表情を改めた。「おじい様の御霊のご平安をお祈り申し上げます」

 加えて低頭までされ、返事の言葉を用意していなかった梨花はたじろいでしまう。

「えっと……ご丁寧にありがとうございます」

 思いついた言葉を添えて頭を下げた。

 綾はほのかに笑みを浮かべている。問題はなかったようだ。

「学校を休んでまでの神葬祭、大変よね」

「ううん……」はにかんだ梨花は、神葬祭の今後の流れについて、気になっていたことを尋ねてみる。「神葬祭といえば、山神様の儀式っていうのがこのあとにあるけど、その儀式は綾ちゃんのお父さんが斎主なんだよね?」

 通夜祭と葬場祭は一般の参列もあるため、それらの儀式は市街地の祭場において、氏神神社である八幡宮の宮司が担った。一方、このあとに執りおこなわれる山神の儀式は朱の風習であるため、古くからそれを取り仕切っている葛城家の者が担うことになっている。

「それなんだけど……」

 なぜか、綾は顔を曇らせた。

「どうしたの?」

 問われて綾は、視線を落とした。

「うちのお父さん、こんな大事なときに体調を崩しちゃって……今晩の儀式は無理みたいなの」

「ええ?」梨花は目を丸くした。「じゃあ、野辺送りと火葬祭はできない、っていうことなの? あと……埋葬祭も?」

 山神の儀式は清めに始まり、野辺送り、火葬祭、埋葬祭と続く。加えて、火葬祭のあとに火葬、埋葬祭のあとには埋葬がある。それらのうち、梨花が特に気にしているのは火葬祭だ。

「火葬や埋葬と同じように、山神様の儀式の中止もありえないわ。よほどの悪天候で延期になることはあっても、ちょっとやそっとの雨では決行されるくらいだし」

「ほかにも斎主を務めることができる人がいる、ということ?」

「わたしがやることにしたの。それで、ここに来る前に喪主の和彦さんに連絡しておいたのよ」

 綾の言葉に梨花は驚きを隠せなかった。

「綾ちゃんが祝詞を唱えたりするの?」

「これでも一般的な神職の資格はあるんだよ」綾は小さく笑った。「山神様の儀式に関しては、わたしよりもお母さんのほうが上手だったんだけどね。お母さんは何度かお父さんの代役をこなしたけど、わたしはお母さんが他界したときに遺族として儀式に参加しただけ。つまり、斎主を一度も経験していない、ということよ」

 綾の母であるみどりは五年ほど前に他界した。梨花はみどりとの面識はないが、綾の父である勝義かつよしとは一度だけ会ったことがある。もっとも、自分の祖母、康子やすこの清めにおいて、斎主としての彼に会っただけであるが。

「朱村が金盛市と合併したことがきっかけになって、今回の儀式が最後だ、っていうことになったでしょう」綾は再び、笑みを消した。「だから、これで斎主を一度も経験しないで済む……なんて安心していたの。それなのに、お父さんが風邪を引いちゃって」

 そして綾は、思い出したように目を丸くした。

「やだ、わたしったら……梨花ちゃんのおじい様が亡くなられたのに、安心だなんて」

 梨花はすぐに首を横に振った。

「気にしないで」そして続ける。「この時間にここにいるということは、儀式のために仕事を休んだの?」

「仕事中にお父さんから電話があったの。代理で斎主をしてくれ、って。おとといから風邪ぎみだったんだけど、なかなかよくならないばかりか、電話でもわかったんだけど、喉をやられたみたいで声が変なのよ。祝詞を唱えるなんて無理。だから午前中で早退してきたの」

 綾は金盛市役所の職員だ。市役所の仕事を置いてでも務めなければならない斎主とはどれほどの役目なのだろうか――梨花には計り知ることができなかった。いずれにしても、斎主を任される身ならば山神の儀式に精通しているはずだ。

「山神様の儀式が今回で終わりなのは朱村が金盛市と合併したからだ、というのは知っていたけど、このままやり続けると何か不都合とかあるのかな? 朱以外の人たちに広く知れ渡ったら困るとか」

「それは……」

 言葉を詰まらせた意味が読めず、梨花はさらに問う。

「あんまりしつこく訊くと、お父さんが怒るの。しかも、お母さんは何も知らないようだし。なんというか、公にはできない何かが、山神様の儀式……というか、火葬祭にはあるんじゃないか、とわたしは思っているんだけど」

「火葬祭の実情を知る人はね」綾は梨花を見つめた。「葛城家の家督を継ぐ者以外には、山神様を信仰する家の人だけ。しかも、山神様を信仰する家の家族のすべてではない。亡くなった人の実の親や実の子、兄弟姉妹、配偶者、もしくはそのどれにも当てはまらないけどやむをえず喪主になった人、それだけなの。今ではここも仏式が増えてきているし、儀式を知る人はごく限られた人、ということになるわ」

 ぐうの音も出なかった。想像以上に盤石な連帯らしい。

「やっぱり、わたしなんかが知ってはいけないことなんだね」

「知らなくてもいい、という程度のことよ。でも古い人たちは、禁忌にふれることを許さないものなの。だから、ね」

 飲み込めなかったが、とりあえずは頷いておいた。

「姉さん、待たせてごめん」

 声の主は、コンビニエンスストアから出てきた制服姿の少年だった。梨花がかよう金盛高校とは別の高校の制服だ。

 少年が二人の前で立ち止まると、綾は眉を寄せた。

「コンビニでの立ち読みなんてほどほどにしなさいよ」

「はいはい、気をつけるよ」と苦笑した少年も、梨花の顔見知りだった。

賢人けんとくん、お久しぶり」

「梨花ちゃんか? 誰かと思ったよ。大きくなったなあ」

 梨花とは同い年であるその少年――葛城賢人が、満面に笑みを浮かべた。

「何よそれ」梨花は賢人を睨んだ。「わたしの身長、二年前に賢人くんと会ったときから、たいして変わっていないよ」

 中学三年の夏に、梨花は祖母の葬儀で両親とともに朱村を訪れた。あのときも仁志と距離を置くためにこのコンビニエンスストアで時間を潰そうとしたが、やはり今日と同じように賢人と顔を合わせたのだ。異なるといえば、大学にかよう綾がいなかったことだろうか。

「そうか、梨花ちゃんはおじいさんのお葬式なんだったね」

 思い出したように言った賢人は、先ほどの綾と同じく、低頭しつつ「御霊のご平安をお祈りいたします」と梨花に伝えた。どうやら葛城家の者として、こういった挨拶には慣れているらしい。

「あ、はい」梨花はかしこまった。「ご丁寧にありがとうございます」

 制服姿の高校生同士でこんな挨拶を交わすなど、滅多にない光景だろう。湿舌に尽くしがたい感慨を、梨花は覚えた。

「梨花ちゃん、時間ある?」

 綾に問われて、梨花は門限を伝えた。

「なら」綾は自分の腕時計を見た。「あと二時間半はあるね。一時間くらい、近場をドライブしない?」

「でも、体調の悪いおじさんを一人にしておいていいの? それに儀式の準備とかあるんでしょう?」

 梨花が焦燥をあらわにすると、綾は肩をすくめた。

「電話によるとお父さんは、軽い昼食を取ったらしいの。それに、今は寝ているはずだから静かにしてあげたほうがいいし、儀式の準備はゆうべのうちにお父さんがあらかた済ませちゃったのよ。わたしも四時までに帰れば準備は間に合うわ。ちょっと遠回りをして帰ると思えばいい。それに梨花ちゃんは手持ち無沙汰なんでしょう?」

 そうまで言われて断れるはずがない。むしろ、気分転換にはうってつけだろう。

 梨花が綾の申し出を承諾すると、賢人が戸惑いの表情を呈した。

「姉さん、おれも一緒でいいの?」

「いいに決まっているでしょう」

 即答だった。

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