にじり寄る宿弊 ~そのとき少女は何を見た?~

岬士郎

第1話 ①

 自宅の物置の陰で地べたに腰を下ろし、両膝を抱えて震えていた。礼服代わりの学生服は喉元が苦しく感じられ、詰め襟を外している。

 闇の中でコオロギの鳴き声だけが聞こえた。

 まどろみに包まれたそのとき、近くで物音がした。

 コオロギの鳴き声がやんだ。

 不意に、京介きょうすけは左腕をつかまれて強引に立たされた。

「こんなところに隠れていやがったか」

 暗闇で確認はできないが、おそらくは儀式の参加者の一人だろう。

「おまえの母親が犠牲になったのは、おまえのせいなんだぞ」

 その男は憤りもあらわに口走ると、京介の左腕を突き放した。

 物置の板壁に激しく背中を当てた京介は、そのまま壁にもたれた。

「だがな」もう一つの男の声がした。「おまえの説明がちゃんとしていなかったせいもあるだろう」

 その「おまえ」とは、どうやら京介を罵倒した男を指しているらしい。もっとも、京介は顔を上げる勇気もなく、二番目の男の顔も確認できなかった。

「おれは、儀式の最中は余計な声を上げてはなんねえぞ、って言っておいたんだ。どこが悪いんだ」

 最初の男が弁解した。

「それが手抜きだ、ってえんだ」二番目の男が言った。「儀式で何を目にするのか、それをきちんと教えなきゃ、誰だって肝を潰すぞ。何があるのか知っていても、大人の男でさえ気がふれてしまうことだってある。まして、こいつはまだ中学生だ。そういうのを踏まえてものを言えよ。自分の説明不足を棚に上げているとしか思えないな」

「ふん。じゃあ、おれが悪者だってことなんだな」

「寄り合いで協議するだろう」そして二番目の男は、京介の両肩に手を置いた。「いずれにしても、おまえの母ちゃんは自ら納得して、そうしたんだ。そしておまえもおれたちも、それを見届けた」

 その言葉を聞いたとたんに、京介は抑えていた感情を解放してしまう。涙があふれ出し、声にならない声で泣きわめいた。

 京介の家族は、もう誰もいない。


 黒いミニバンの二列目座席から降りた芹沢せりざわ梨花りかは、着替えなど必需品の入ったリュックを肩にかけてドアを閉じた。紅葉の山々に囲繞された景色が秋空に映える様子は、同じ金盛かねもり市でも市街地での生活に慣れきった梨花にとって、心が動かされて当然の風景だ。しかし今の彼女は、とてもそんな気分に浸れない。さらには、登校する日と変わらぬブレザーの制服でいるためか、学校を休んでいるにもかかわらず開放感もなかった。

 一面に砂利が敷き詰められたこの一角は、乗用車が十台以上は停められる広さだ。これでも敷地のほんの一部である。手つかずのいくつもの田畑も含めれば、あか地区での個人所有地では一番の面積を誇るという。

「前に来たときとは雑草が伸び放題だったけど、あのときとは比べものにならないほどきれいになったな。所有している農耕地もこうだったらいいのに」

 黒のスーツに黒のネクタイという姿の雅之まさゆきが、運転席から降りるなり言った。確かに周囲の鬱蒼とした藪とは違い、ここだけは雑草がほとんど見当たらない。

和彦かずひこおじさんが草刈りをしたの?」

 気が回る伯父、という印象を持つだけに、梨花にはそうとしか考えられなかった。

「近所の人たちにやってもらったのよ」

 答えたのは、助手席から降りた黒のフォーマルスーツ姿の信代のぶよだった。

「お母さん、どうして知っているの?」

「さっき、葬場祭が終わってから、淳子じゅんこさんが話してくれたの」

 そう説くと、信代は助手席からハンドバッグを取り、ドアを閉じた。

「葬場祭で帰った参列者が多かったけど、お清め以降の儀式に出席する人も少なくないからな」雅之が運転席のドアを閉じながら言った。「臨時の駐車場とするために、近所の人たちが草刈り機を使って、このほったらかしの荒れ地を手入れしたわけだ」

「砂利まで入れてね」

 信代がそう付け加えると、雅之は肩をすくめた。

「砂利は業者にやってもらったらしい。とにかく、和彦おじさんも淳子おばさんも葬式の準備で忙しかったから、それどころじゃなかったわけだ」

「ふーん」

 興ざめした梨花は顔を背け、両親に気づかれないよう口を尖らせた。

 目を凝らせば、近くの電線に止まっている四羽のスズメが、さえずりながらこちらを見下ろしていた。さらに視線を上げると、二羽のカラスが北の山へ向かって飛んでいくところだった。市街地でも遭遇するありふれた光景だが、今は空虚しか感じられない。

「あなた」信代が雅之に顔を向けた。「そろそろ行ってみましょうか?」

「そうだな」

 頷きつつ、雅之は腕時計を見た。

 つられて梨花も自分の腕時計を見た。正午を四十分ほど過ぎていた。

 梨花の家族以外で野辺送りに参加する者たちは、時間に余裕があるため葬儀場で雑談に興じている。喪主である和彦は当然ながらその場を空けることはできない。本家宅の玄関鍵を預かった雅之が、野辺送り以降の儀式の参加者を迎える準備をしておく、という手はずだ。

 梨花は親戚の葬儀に何度か参列しているが、どれもが一般的な仏式葬儀だった。仏式とはいえ、それぞれの様式や作法には微妙に差がある。それらと照らし合わせてみると、今回の祖父の葬儀は趣が大きく異なっていた。この国でも少数派の神式なのだ。難関の玉串奉奠を両親の指導どおりにこなせたおかげで、仏式の告別式に相当する葬場祭は無事に乗りきることができた――が、問題はこれからである。

 一台の白いコンパクトカーが臨時駐車場に入ってきた。駐車場の奥、雅之の車のほうへと徐行してくる。

「市役所の車だ」

 コンパクトカーの横に記された「金盛市」の文字を目にして、梨花は言った。

立会人たちあいにんだよ」

 雅之の声には憂いがあった。

 なおのこと梨花は、訝ってしまう。

「市役所の人が何に立ち会うの?」

「野辺送り前のお清めから埋葬まで……つまり、お清め以降のスケジュールのすべてだよ。火葬祭以降の遺体の移送も任されているから、あとで霊柩車に乗り換えるんだろうな」

 ミニバンの右に並んだコンパクトカーを見つめながら、雅之は答えた。

「だって、お清めとか野辺送りは暗くなってからだし、埋葬なんて夜中になっちゃうんでしょう? 市役所の人がそこまで立ち会うなんて、なんか変」

 神葬祭だの仏教葬だの、それらの様式に疎い梨花だが、さすがに朱地区のこの風習には異様さを感じていた。その異様な風習に市の職員が立ち会うというのだ。

「まあな」雅之は梨花に視線を向けた。「でも朱の葬祭もこれで……じいちゃんのこの葬式で最後だ。まして、おまえは野辺送りの葬列を見送ればいい。今回の葬祭でおまえがこのあとにかかわるのは、明日の墓参りだけ。それを済ませたら、家に帰るんだ」

 事実を述べているにすぎないのは理解できた。旧朱村が金盛市と合併したことによりこの異様な葬祭も廃止されることになった、ということも承知している。しかし梨花は、雅之の言葉の端々に脅迫めいた趣を感じてしまう。必要のないことに首を突っ込むな、と警告されている気がしてならない。

 コンパクトカーのエンジンが止まり、運転席からビジネスバッグを手にした一人の男が降り立った。年の頃は三十前後だろうか。スラックスにネクタイだが、上着は薄茶色の作業着である。いかにも、現場に出向いた役所の人間、といった出で立ちだ。

「芹沢啓太けいたさんのご遺族でしょうか?」

 慇懃な態度で男は雅之に尋ねた。

「はい。啓太の次男の芹沢雅之です」

 雅之が答えると、男は「御霊のご平安をお祈りいたします」と挨拶したうえで、作業着の内ポケットから名刺を取り出した。

 間髪を入れず雅之も自分の名刺を取り出す。

 名刺交換をしながら、男は「岸本きしもと武志たけし」と名乗った。朱支所の職員だという。

「和彦さんはご自宅にお戻りでしょうか?」

 岸本に尋ねられ、雅之は西の藪に目を向けた。その向こうに和彦の自宅――啓太が住んでいた家がある。

「まだ帰っていないと思いますが、わたしが合鍵を預かっているので、ご一緒しましょう。こんなところに突っ立っていてもしょうがないですし」

 そう言って雅之は、受け取った名刺を内ポケットにしまうと、信代と梨花を岸本に紹介した。

「じゃあ、さっそく行きましょう」信代が雅之に言った。「一時半には近所の奥さんたちが手伝いに来るから」

「ああ」

 頷いた雅之が自分のミニバンのバックドアを開け、夫婦の着替えが入っている大きめのスポーツバッグを取り出した。

「じゃあ、行こうか」

 バックドアを閉じた雅之は、スポーツバッグを肩にかけ、先頭を切って歩き出した。

 信代に促された岸本が、雅之のあとに続く。

「ねえ、お母さん」信代の横を歩きながら、梨花は声を細めた。「お母さんも葬列を見送るだけなんだよね?」

 信代は梨花に合わせ、ささやくように「そうよ」と返した。

「火葬祭でどんなことをするのか、本当に知らないの?」

「知らないって言ったでしょう」

 声のボリュームは落としているが、信代はいら立っているらしい。

「火葬だって夜中にやるんでしょう? 火葬場の職員って夜勤もやるの?」

「だから、わたしにもわからないのよ。お父さんが何も教えてくれない……というか、変な風習だから知らなくていい、って。梨花もお父さんにそう言われたじゃない」

 そして信代は口を結んだ。

 前向きな気持ちに水を差された思いだった。二年前の祖母の葬式では作法を何も知らないまま済ませてしまったが、今回はそれを挽回するつもりでいたのだ。とはいえ、これ以上の質問は信代の機嫌を損ねる懸念がある。通夜祭と葬場祭を無事に済ませただけでもよしとするべきだろう。

「そうだったね」

 梨花は不本意ながらもそう答え、歩くことに専念した。


 臨時駐車場の南に接する市道は、乗用車がすれ違える程度の幅があるものの、センターラインはなく、歩道らしきものもなかった。交通量がほとんどないのが救いである。

 鬱蒼とした藪を挟んで、臨時駐車場の西に芹沢本家の屋敷があった。白い塀に囲まれた広大な屋敷である。瓦葺き二階建ての家屋は、近隣の家々と比較にならないほど目立つ家構えだ。この地区ではいち早くIHや水洗式洋風トイレを取り入れた家だという。防犯センサーも導入してあり、ホームセキュリティも万全だ。

 この屋敷の主だった啓太は、芹沢本家の長男ではない。彼の兄である長男の太一たいちは、四十五歳にしてこの世を去った。自害だった。そのため、朱村の外に所帯を持っていた啓太が、その家族ごと本家に戻ったのである。しかし梨花は、朱の風習の詳細を聞かされていないのと同じく、太一の自害の理由についても聞かされていない。朱も芹沢本家もあまりに闇の部分が多いが、それでも祖父母に懐いていた梨花は、機会があればここに来ずにはいられないのだ。

 近隣では豪農として知られている芹沢本家だが、晩年の啓太は体調を崩すことが多くなり、田畑に出ることはほとんどなくなってしまった。一方で、資格を有していることもあって猟友会の仕事には熱を入れていたらしい。とはいえ、芹沢本家宅でたまに出されるぼたん鍋は、どうにも梨花の口には合わなかった。今になってはそれも懐かしい思い出である。

 観音開きの巨大な門は開け放たれたままだった。その隣の通用門の門扉は、使う必要がないのか、きっちりと閉ざされている。

 四人は正門から中に入った。

 玄関先の左には大型ガレージがあり、三つ並ぶシャッターのうち、向かって右端と中央が開いていた。中央は和彦のコンパクトカーのための位置だが、今は空だ。右端にはフロントを手前に向けて白いSUVが収まっている。シャッターが閉ざされている左端に白い軽トラックが止まっているのが、中央の空間から垣間見えた。

「なんだ、仁志ひとしは先に帰っていたのか」

 歩きながら雅之が言った。

 梨花が芹沢本家で唯一厭うのが、このSUVの所有者――仁志の存在だ。和彦の一人息子である彼は、梨花より六歳年上である。高校を卒業して金盛工業団地の工場に就職したが、屈折した性格の持ち主であり、他人との接触を避ける傾向にあった。一方、弱者に対しては横柄な態度を取ることが多く、従妹である梨花に対しては、ことあるごとに嫌みな言葉を投げかけ、ときには性的な嫌がらせをささやくことさえあった。さすがに通夜祭でも葬場祭でも仁志はおとなしくしていたが、梨花の滞在中に何かしらの不埒をしでかす可能性はある。梨花は仁志と二人きりにならないよう留意するしかないだろう。

 広々とした日本庭園を右に見ながら、引き戸の開け放たれた玄関へとたどり着いた。

「おい、仁志」玄関の前で足を止めた雅之が、家の中に向かって声をかけた。「いるんだろう? 支所の職員さんが来ているぞ」

 反応はなかった――と思えたが、五秒ほどして二階のほうから声が返ってきた。

「おれは喪主じゃないよ。もうすぐおやじが帰ってくるから、上がってもらえば?」

「ふざけたやつだ」

 憤懣を呈した雅之だが、ため息をつくと表情を落ち着けた。

「まあ、セキュリティを解除する手間が省けたか」そして雅之は、岸本に正面を向けて頭を下げる。「大変失礼しました。和彦の長男なんですが、卑屈な性格で……」

「いえいえ、お気になさらず」

 苦笑する様子からして建前であるに違いない。

 雅之は岸本を促し、玄関をくぐった。

 梨花と信代は岸本に続く。

 靴を脱いだ四人は雅之が先頭となり、玄関から入って右手の、前庭に面した廊下を進んだ。廊下の右側――掃き出しのガラス越しの庭園は荘厳なたたずまいだが、うつむき加減に歩く岸本は興味がないのか、顔をそちらに向ける素振りさえ見せない。幼い頃からこの庭を見ている梨花に至ってはすでに見慣れた風景であり、高校二年生である今でさえ、その価値が理解できなかった。

 廊下の左側――一つ目の部屋は、廊下に面した障子のすべてが取り外されていた。九畳の畳の間であり、奥の壁に据えられた神棚は、その正面を白い紙で塞がれている。

 その部屋とは襖で仕切られた二つ目の部屋も、廊下側の障子のすべてが取り外されていた。こちらは十二畳という大広間であり、座卓が二列に並べられている。野辺送りの参加者や見送る人たちがここで食事を取るのだ。座布団の数からすると、二十人前後は集まるらしい。

「兄が帰ってくるまで、ここで待つとしましょう」

 雅之は言うと、岸本を二つ目の部屋にいざない、座卓の端に座らせた。

「わたし、お茶を入れるわね」

 そう申し出た信代に、雅之は「頼むよ」と返し、座卓を挟んで岸本と向かい合わせに座った。

「お母さん、手伝うよ」

 このあとの予定に関する話があるのなら自分は邪魔なだけだろう――と悟っての言葉だった。

「なら、お願いするわね」

 承諾した信代がハンドバッグを部屋の片隅に置くと、梨花もそれに倣ってリュックを信代のハンドバッグに並べた。

 そして二人は、台所へと向かった。

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