第6話 ⑤

 午前八時二十分を回った。

 沙織は満里奈とともに玄関を出た。手はずどおり、沙織が二つのリュックを持ってカーポートのミニバンへ直行するのと同時に、満里奈がカーポートを経由して門扉の親扉へと向かう。

 林田宅よりも先――左の奥のほうでは、相変わらず路上に人垣ができていた。幸いにも、その誰もがこちらには気づいていないらしい。「殴ってやればいいんだ!」という男の怒号が聞こえた。

 車をバックで停める習慣であるのを、このときばかりは嬉しく思った。これならば、殺気だつあの群衆に気づかれても素早く走り去ることができそうだ。

 ミニバンの運転席のドアを開けた沙織は、そこから二列目の座席に二つのリュックをほうり込んだ。リュックは沙織と満里奈のものであり、それぞれには着替えなどが入っている。

 運転席に乗り込み、手を伸ばして助手席のドアを開けた。前方を見れば、満里奈がアコーディオン型の親扉に手をかけてこちらを見ている。沙織が頷くと、満里奈はすぐに門扉の親扉を開けた。それと同時に沙織はミニバンのエンジンをかける。

 群衆の何人かがこちらに顔を向けた。気づかれたようだ。

 満里奈が助手席に乗り込み、二人同時にそれぞれの側のドアを閉じた。

 もう群衆のほうには目を向けない。

 沙織はミニバンを発進させると、すぐにハンドルを右に切った。

 満里奈がシートベルトを装着した。ミニバンを加速させながら、沙織もシートベルトを装着する。

 前方に二つの人影があった。

 沙織は息を吞んだ。

 二人の女が立ち話をしていたらしい。うち一人は、京子だ。もう一人は沙織とは同年代の顔見知りだが、名前は知らず、挨拶を交わす程度の主婦である。

 こちらに顔を向けた京子が、不意に道の真ん中に立って両手を広げた。揺らめく光に照らされる京子は、幽界から這い出した悪鬼のようだった。

 やむをえずミニバンを減速させ、運転席側のドアガラスを少しだけ下げる。

 停止したミニバンに京子が近づいてきた。

 こんな事態も想定していたのだ。沙織は満里奈に確認する。

「満里奈、いいわね?」

「うん」

 消え入るような声で満里奈は答えた。

 運転席の外に京子が立った。もう一人の女は動かずに、その場でこちらの様子を眺めている。

「沙織さん、どこかへ行くの?」

 車内を覗きながら京子は尋ねた。

 ルームミラーで後方を確認するが、こちらに迫っている者の姿はなかった。とりあえずの難関は、ここだけだ。

「コンビニへ行くの」

 感銘に答えた。当然、でっち上げである。

「だって停電なんだもの、やっていないんじゃないの」

 疑うような表情で、京子は突き返した。

「確かあそこのレジの担当って、どの人もあかの外の人でしょう? だったら、たぶん自宅に帰れないでお店に残っていると思うの。行けば、店員の誰かはいるんじゃないかな」

 シナリオどおりにうまく話せた。しかしこのあとは、京子がどう反応するかによってこちらの出方を即興で考えなければならない。

「もうすぐみんなで本郷へ行くんだよ。買い物なんてあとにしなさいよ」

「満里奈がおびえちゃって、落ち着くためにお菓子とかジュースとかほしい、と言って聞かないのよ」

 滞りなく言葉を返すことができた。挑戦するつもりで京子の反応を見れば、表情は変わっていない。

「お菓子とか飲み物なら、うちにたくさんあるわよ。今からうちに来なさい。満里奈ちゃんの好きなものがあれば、いくらでもあげるから」

 やはりなんとかして足止めをなそうとしているのだ。こうなると奥の手だろう。沙織は満里奈を横目で見た。

「そんなんじゃだめなんです!」満里奈が声を上げた。「お店に置いてあるのを自分で選びたいんです! それに、漫画雑誌の最新刊もほしいんです! ああ、やだやだ! お母さん、早く車を出してよ! もう我慢できないの! 早くしないと、このダッシュボード、蹴って壊しちゃうよ!」

 そして満里奈は、助手席の床を両足で踏み鳴らした。

「さっきからこんな感じなの」さも辟易としたように、沙織は告げる。「それじゃあ京子さん、本郷には先に行ってね。都合がついたら、あとから行くから」

「ああ……まあ、しょうがないわよね」

 まるで獲物を逃した獣だ。とたんに意気消沈した京子は、一歩、あとずさった。

 沙織がアクセルを踏むと、助手席の足踏みがやんだ。

 そして、二人同時にため息をついた。

「蛭田さんのおばさん、しつこいよ」

 疲れたように満里奈は言った。

「そうね」沙織は頷いた。「蛭田さんのおばさんだけじゃなく、旦那さんもほかのみんなも、何かに取り憑かれちゃったみたい」

「集団ヒステリー、っていうやつかな?」

「たぶんね。みんな興奮していたし、ちょっと危険だわ」

 そう言って、沙織はハンドルを右に切った。コンビニエンスストアの近くを通る道だが、この道を走るのは偽装でもある。

 北へと向かうミニバンは、やがてグリーンタウン平田を抜けた。そしてコンビニエンスストアの横から県道へと右折して出る。その際にコンビニエンスストアの店舗を見やるが、当然、店内は暗かった。人影は見当たらず、駐車場には車も見当たらない。

 ミニバンを東へと走るせる沙織は、国道との交差点でハンドルを左に切った。信号が点いていないため、慎重に愛車を左折させる。

 国道に入ったところで、沙織は横目で満里奈を見た。

「木村さんのお宅……波瑠ちゃんちって、園芸センターの裏だったわね?」

「うん。詳しい場所は、行けばわかるよ」

 何度か遊びに行った満里奈は、おおよその場所を把握しているらしい。

 まずは木村家の者に事情を伝え、昨日の野辺送りを出した家の場所を教えてもらい、そこを尋ねる。そして、山神信仰の人たちにこの危機的状況――山神信仰反対派の暴動から身を守るように訴えるのだ。可能であれば、暴動を鎮めるために力を貸してもらおう。

 山神信仰とこの異常事態とに関係があろうとなかろうと、少なくとも今の沙織にとっては問題ではない。山神信仰反対派の決起集会の様子を見れば、この奇怪な異常事態を収めるための訴えが暴力沙汰になりうることが考えられるのだ。異様な光が消え失せたとしても、安穏な暮らしが送れないのであれば意味がない。

 朱川を渡ってしばらくすると、前方、国道の右側に園芸センターが見えた。ミニバンは右折して園芸センターの手前から横道へと入った。

 民家が密集する界隈を速度を落として前進すると、一台の車が前方から走ってきた。軽トールワゴンだった。

「あ、波瑠ちゃんだ!」

 すれ違った直後に満里奈が声を上げた。

「え?」

 まともな言葉を出せないまま、沙織はミニバンを停止させた。

「今の車の助手席に、波瑠ちゃんが乗っていたよ」

「わかった」と頷いた沙織は、通り過ぎたばかりの辻までミニバンをバックさせ、そこで切り返して車体の向きを変えた。アクセルを一気に踏み込み、ミニバンを加速させる。

 国道に出る前――園芸センターの横で、ミニバンは軽トールワゴンに追いついた。すかさず、沙織はクラクションを短く何度も鳴らした。

 軽トールワゴンが停車したところで、沙織は満里奈に声をかける。

「車を降りて波瑠ちゃんのところへ」

「うん」

 答えた満里奈が助手席から降り、ドアを閉じて軽トールワゴンのほうへと走った。自分がいきなり話しかければ相手は逃げるかもしれない、と沙織は判断したのだ。

 ほかの車が来ないことを確かめて、沙織もミニバンを降りた。ドアを閉じて小走りに軽トールワゴンへと近づくと、すでに満里奈がその助手席側で何やら話しかけていた。

 沙織がたどり着く前に、軽トールワゴンの運転手が車外へと出た。ドアを開けたまま立つのスカート姿の女は、沙織の記憶にもある人物だ。波瑠の母のである。

「石塚沙織さん……満里奈ちゃんのお母さんですよね?」

 尋ねられた沙織は、三砂都の前に立ち、会釈する。

「はい」と沙織が答えると、相手は「波瑠の母親の木村三砂都です」と名乗った。

「突然にすみません。今からお宅へ伺うところだったんです」

 まずはそれを伝えた。

 無論、三砂都は首を傾げる。

「そうだったんですか」

 こんなときにどうして――と言いたげな顔だった。

「出かけるところだったんですか?」

 急ぎならば申し訳ない、と思いつつ尋ねた。もっとも、こちらも急を要するのである。

 三砂都は「ええ、ちょっと……」と言葉を濁した。

 助手席からトレーナーにジーンズの少女が降り立った。三つ編みに眼鏡という容貌が愛らしいその少女が、満里奈の友人の波瑠だ。

「おはようございます」

 沙織に向かって挨拶した波瑠が、満里奈とともに歩いてきた。

「おはようございます」と波瑠に返した沙織は、三砂都に視線を戻した。「木村さん、大変なことになっているんです」

「大変なことって……」

 表情を曇らせた三砂都が、空を覆う揺らめく光を見上げた。

「あれも大変なことですけど」言って沙織は、三砂都の視線を引き戻した。「もっと身近な脅威です」

「何があったんです?」

 訊かれて、沙織は単刀直入に答える。

「山神信仰に反対する人たちが、昨日の野辺送りを出した家に押しかけようとしているんですよ」

「ええっ」

 三砂都が目を剝くと、波瑠も同じような表情を浮かべた。

「満里奈ちゃん」

 不安げな声を漏らした波瑠が、満里奈を見た。

「本当なんだよ」

 言いにくそうに、満里奈は口にした。

「大事にならないうちに、なんとかしたいんです。急がなければ、山神信仰反対派に先を越されてしまいます」

 沙織は言葉に力を込めた。しかし、これだけでは言葉が足らないのだ。

 説明する時間がもどかしかった。

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