第7話 ②
芹沢本家宅の大広間の壁寄りで、沙織は芹沢俊康と喜久夫という兄弟と向き合って座っていた。さらにほかの大勢の者が沙織ら四人に向かって座っている。沙織が山神信仰反対派についての知りうることのすべてを伝えると、続いて俊康が山神信仰についての真実と、昨日の晩に起こった事件や進行中の諸々を語ってくれた。市役所の一部が極秘にかかわっているという話もあった。無論、それらは常軌を逸した内容であり、沙織は驚愕を隠せなかったが、現に異常現象が起こっているのであり、異議を訴えることこそ愚かに思えた。
「山神様が実在するとは、知りませんでした」木村友和の隣に座るその妻――三砂都が言った。「それに、犠牲者まで出ているなんて。でも……以前からずっと、何か変だとは思っていたんです」
山神信仰の家に住んでいても真実を知らない、という者のほうが多いことは俊康の話にあったが、三砂都の様子を見ればそれも得心がいく。それよりも心得なければならないのは、山神を崇拝していないとはいえ沙織も立場的にはこちら側である、ということだ。
「俊康おじさん」
廊下で声がした。見れば、開けっぱなしの出入り口の外に三人が立っている。芹沢家の梨花という少女に、葛城家の綾と賢人の姉弟だ。綾は右手で自分の頭を押さえており、そんな彼女を梨花と賢人が左右で支えている。
「どうしたんだ?」
座ったまま、俊康が尋ねた。
「神がかりです」
賢人が答えると、大広間の一同が騒然となった。
「ここへ連れてきてくれ」
俊康は自分と沙織との間の畳を片手で示した。
「神がかりって……さっきの話にあったやつですか?」
沙織が訊きたかったことを、先に三砂都が口にした。
「そうだよ」と答えたのは木村だった。
綾は梨花と賢人に支えられたまま、一同の間を通って沙織と俊康との間にたどり着こうとしていた。その三人を一顧して、沙織は俊康に問う。
「わたし、席を外したほうがいいですよね?」
「いや、あんたもいてくれ。もう仲間も同然なんだから、こちらの事情に耳を塞ぐのもおかしいだろう」
そう、仲間なのだ。言い換えれば、我が家以外のグリーンタウン平田の住人たちを敵に回したことになる。仮に事態が収束したとして、その後もこれまでどおりに安穏に暮らせるのだろうか――沙織は気が遠くなりそうだった。
とはいえ、俊康の話が事実なら、山神信仰は山神の暴走を防ぐために続けられていたことになる。そして今も、山神信仰の中核たる二人の人物が、この異常事態を終わらせるために儀式を執りおこなおうとしているそうではないか。すなわち、山神信仰反対派がこの者たちの行動を阻止しようとすれば、事態の収束に支障を来すばかりか、さらなる悪化を招く可能性があるということだ。
いずれにしても、もう逃げられない。覚悟を決めるしかないだろう。
俊康と喜久夫という二人と沙織との間に、綾は腰を下ろした。綾を左から支える梨花と右から支える賢人も、同時に腰を下ろす。
沙織は梨花の左に座っていた。これから始まる様を見て、沙織が綾に偏見を抱かないか、と梨花は憂慮した。
自分の頭を押さえる右手を、綾はそっと下ろした。そして彼女は、顔を上げる。綾の視線は一同の頭上をかすめて庭のほうに向けられた。
「何をしようとしているのか、と山神様はお尋ねです」
綾は言った。
「誰に対して尋ねているんだい?」
落ち着いた声で俊康が問い返した。
「山神信仰の人たちに対してです」綾は庭のほうを見つめたまま答えた。「山神様は、先ほど、わたしの記憶をお探りでした。いくつかの儀式を組み合わせて一つの儀式とする新たなる昇天の儀を、飛田さんとわたしの父が二人で執りおこなう……それを山神様はわたしの記憶からお読みになったのです。しかし、わたしが知っているのはそこまでです。ですから山神様は、知っている者にそれを言わせろ、とお告げなのです」
「つまり、儀式の内容を教えろ、ということなのかな?」
次に尋ねたのは喜久夫だった。
「そうです」頷いた綾が、顔をしかめた。「今、また山神様がお伝えくださいました。自分を愚弄する儀式であればそれを阻止する、とおっしゃっています。山神様は、自分の体をもっと里に広げる、と……」
「あの光は山神様の体だったのね」
裕次の隣に座るその妻、昌子がつぶやいた。同様に感じていたのか、多くの者が得心がいったように頷いている。
梨花も頷きたかったが、それをこらえて横目で沙織の様子を窺った。自分の感慨を伏せたまま見れば、彼女は梨花を――否、綾に視線を定めていた。不安げな面持ちが露骨に現れている。
「山神様に伝えてくれ」俊康は言った。「山神様をこの土地から解放するだけなのだということを。そのための儀式なのだと」
「はい」
綾は答えると、目を閉じてうつむいた。そして何かをつぶやき始める。隣に座る梨花には「この土地……解放……」とだけ聞こえた。
山神への訴え――すなわち綾のつぶやきは、二十秒ほど続いた。それが終わり、綾が目を開かなければ顔も上げないまま、沈黙が三十秒ほど経過した。そして――。
「うう……」とうめいた綾が、両手で頭を押さえた。
梨花は綾の顔を覗いた。賢人も綾を心配そうに見つめている。
綾が両手を下ろして顔を上げた。虚空に向けられた双眼が大きく見開かれていた。
「だまされるものか」怒りのこもった声で綾は言った。「おまえたち人間ごときがこのわたしを欺けるものか」
「完全に山神様に取り憑かれたか」
驚愕の表情で喜久夫が声を漏らした。
「このわたしは神としてあがめられるべき存在なるぞ。何を企んでおるのか、それを言いたくなければ言わぬがよい。ならばこのわたし、ギナ=ハが、おまえたちを粛正するだけだ。ギナ=ハはおまえたちを……殺す……殺す……殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す。一人残さず、殺す」
綾の口から出た言葉は、一同を青ざめさせた。梨花と賢人によって支えられるこの人物は、綾であって綾でない何者かなのだ。それでも梨花は、賢人とともに綾を支え続けた。
「イア、イア、イアアア!」
叫んで、綾は大きくうなだれた。彼女の重みが梨花の両手に伝わる。
綾は気を失っていた。
「姉さん!」と賢人が綾に声をかけた。
ほかに声はなかった。
綾を支える自分の両手が震えていることに、梨花はようやく気づいた。
雅之や飛田ら五人は公民館の建物から出ると、三台の車のほうへと移動した。
「あとは勝義くんとわたしだけでやる」白衣の飛田が三台の車を背にして言った。「儀式は相当な時間がかかるし、近くで見ているだけでも危険なんだ。とりあえず、君たちは芹沢本家の屋敷に戻ってくれ」
「どれくらいの時間がかかるんですか? われわれは飛田さんたちが戻ってくるのを待つだけなんですか?」
雅之は尋ねた。儀式の進行具合を知らないまま芹沢本家宅でいつまでも待っている、というのもつらい。
「成功して事態が収束したら、芹沢本家の屋敷に向かうよ」飛田は答えた。「もっとも、成功すれば、空や山の様子が元に戻るだろうから、わたしたちが戻る前にそうとわかるだろう。それに念のため、わたしも勝義くんもスマホは持っているから、電波が繫がれば、それで連絡もできよう」
飛田は自分の懐を軽く叩いた。白衣の内側にスマートフォンを入れてあるようだ。
「まあ、儀式は最低でも二時間はかかるな」
平然とした様子で勝義は告げた。
「二時間も……」
そうこぼした雅之は、紀夫や高田と顔を見合わせた。二人とも啞然とした顔だ。そして雅之は腕時計を見た。時刻は午前九時二十五分である。成功するにしろ失敗するにしろ、正午前には結果が出そうだ。
「注意しておきたいことがある」勝義は雅之ら三人を見て言った。「山の光が里に迫ってきたら、たとえ儀式が終了していなくても、ここを目指して避難してくれ。ここは本郷でも西寄りのほうだが、
「それは、山神がここにやってくる、という意味ですか?」
紀夫のその問いを受けた勝義は、口元に笑みを浮かべる。
「まあ、違ってはいないかな」
「そんな危険な場所に、あなたたちは残るというんですか?」
焦燥を呈したのは高田だった。
「どうにか持ちこたえるよ」勝義は苦笑した。「儀式が済めば山神様はすぐに退散する。そうすれば、地上に広がる発光物質も空を覆う光の幕も、すべてが消えるんだ」
それは誰もが望む結果だ。儀式が成功するのを願ってやまないが、だからこそ、どうしても気になるのだ。雅之はそれを問う。
「儀式の具体的な内容は、教えてもらえないのですか?」
「ああ、教えられないな」飛田が答えた。「ほかに知っているのは話し合った先輩方だけだが、ことが無事に済むまでは、彼らも口を割らないことになっている。だから、彼らが教えてくれないからといって、機嫌を悪くしないでくれよ」
「わかりました」雅之は答えて、紀夫と高田を見た。「さあ、行こう。おれたちがいたんじゃ儀式を始めることができない」
紀夫と高田は頷いた。
揺らめく光を見上げた雅之は、あれはもうすぐ消えるはずだ、と信じて唇を嚙み締めた。
高田のミニバンが走り去り、勝義は飛田とともに即席の環状列石――祭祀場へと向かった。
「飛田さんを巻き込んでしまうとは……」
抑えきれず、勝義は言葉にした。
今からの昇天の儀の是非は、最終的には飛田が決定した。むしろ彼は、最初からこの方法を推していたのだ。無論、これには勝義の同意が必要である。勝義にとっては苦渋の決断だったわけだ。
「気にするな、と言うほうが無理なんだろうが」隣を歩く飛田が言った。「わたしとしては、これで決着がつけられるんだ。ありがたく思っているくらいだよ。むしろ君が危険な目に遭わないか、そっちのほうが気がかりだ」
真実なのだろう。だが、こちらの身を案じるくらいなら、「しっかりせんか!」と嘲罵の一つでも吐いてほしかった。
「それより、『天帝秘法写本』を持たなくていいのか?」
そう尋ねられ、勝義は前を向いたまま答える。
「石柱を作ったのがきっかけで、石柱の力を引き出す呪文は暗記しました」
「それほどその儀式に惹かれたわけか」
「その当時は、もしかしたら何かの役に立つんじゃないか、と思ったわけです」
「しかし、儀式は組み合わせておこなう。呪文は相当な長さだ」
「合わせて取り入れる呪文も、全部頭に入っています。それに今回は、同じ呪文を何度か繰り返す部分が多いので、思ったほど難しくはありません。何より、両手を空けた状態のほうが集中しやすいんですよ。だから、あの重い本は持たないほうがいいんです」
左手の腕時計以外は、本だけでなく、道具の一つも手にしていない。飛田も手ぶらであり、彼は腕時計さえ外していた。ほかに必要なものは、すでに配置してある。
「そういうことか」
飛田は頷いた。
二人は環状列石の外縁で立ち止まった。
勝義は飛田の顔を見るが、言葉が出ない。
「そう辛気くさくなるな。淡々と進めよう」
ほほえみと静かな口調が、勝義の心に突き刺さる。
「わかりました」
それ以外の返事は思いつかなかった。
飛田が環状列石の中に足を踏み入れると、勝義は外縁の南側へと移動した。環状列石の中央で飛田が立ち止まり、勝義は飛田の立つ位置――北に正面を向けた。
息を思いっきり吸って、ゆっくりと吐いた。心の準備はできている。
正面に見える飛田は、緊張などしていないらしい。天空を覆う揺らめく光を静かに見上げていた。
「始めます」
勝義が告げると、飛田は顔を正面に向けて頷いた。そして彼はうつむき、目を閉じる。
腕時計を見て午前九時半ちょうどであるのを確認した勝義は、意を決し、天空を仰いで両腕を大きく広げた。
「イエット、ニエル、サム……ンリリリ……ングググ……クォーン、ンルルル……シェエン……」
最初の呪文を口にすると、勝義は儀式に陶酔した。
俗世から乖離した土地――異界に入り込んだかのような、そんな気分だった。
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