第8話 ⑤
勝義は息を引き取っていた。すべてを使い果たしたのだ。
賢人が駆け寄ったとき、横たわる勝義のそばで綾が膝を突いていた。綾は地面に両手を突いて泣いていた。
言葉にならず、賢人は綾の横に棒立ちとなった。
自分の父に最後にかけた言葉はなんだったか、賢人は想起した。確か、「必ず帰ってきてね……って、姉さんが言っていた」と綾の言葉を伝えただけだ。もっと気の利いた台詞はなかったのだろうか――賢人は悔やんだ。
山神はいなくなった。しかし、多大な犠牲があった。雅之や信代、俊康、和彦、淳子、大賀、岸本、満里奈――おそらくは、その何十倍もの命が失われたはずだ。それらすべてに哀悼の意を表すべきなのだろうが、せめて今は、自分の父のためだけに泣きたかった。
意図せずとも、涙は左右の頬をこぼれ落ちた。
声だけは出すまいとしたが、気づけば号泣していた。
真樹夫は目を覚ました。ほんのつかの間、どこにいるのか把握できなかったが、すぐに、ビジネスホテルのベッドの上にいることを思い出した。
二階の狭い部屋だった。宿泊料が安いだけのことはある。しかし冷蔵庫とテレビは当たり前のように備えてあった。エアコンもあるが、これは必要なかった。それよりも、コネクタの規格が合っている充電ケーブルを置いてあるのは助かった。
カーテンの外は明るいようだが、ベッドサイドの目覚まし時計を見て午前十一時四十四分であるのを知った。デイユースとして四時間だけ滞在する予定だが、チェックインしてまだ二時間程度だ。
半身を起こし、目覚まし時計の隣に置いたスマートフォンを確認した。充電は七十パーセントほどまで進んでいた。充電ケーブルを抜いて確認すると、電話やメッセージの着信通知があった。すべてが宮本からである。
真樹夫はベッドから起きた。下着姿であり、とりあえずワイシャツとズボンを身につける。
宮本からのメッセージは二つあり、午前九時五十分着の最初の一件を見ると「電話が通じなかったのでメッセージしておきます」との出だしで、テレビ局のヘリコプターが
折り返し宮本に電話をしようとしたが、光るドームがなければ電話が通じるかもしれないと悟り、真樹夫はさっそく、沙織のスマートフォンに電話をかけてみた。
案の定、呼び出しが鳴った。
「沙織、無事か?」
通話状態になってすぐに、真樹夫は口を開いた。
「あなたも無事ね?」
疲れているのか悄然とした声だが、間違いなく沙織である。
「ああ、無事だよ。駅前のビジネスホテルにいるんだ」
「そう。わたしは朱の公民館にいるわ」
「公民館? 避難でもしているのか?」
あんな異様な現象が起きたのだから、非難しても当然だろう。だが、胸騒ぎがあった。
「満里奈はどうしている? 元気なのか?」
たまらずに尋ねた。できれば声を聞きたい。
「わたし、ここで待っているから、早く来てね」
そして通話は一方的に切られてしまった。
様子がおかしかった。普段の沙織ではない。満里奈がどうしているのか、その問いが無視されたのが、とにかく気にかかる。
真樹夫はすぐに沙織のスマートフォンに電話をかけ直した。だが、相手の電話が圏外にあるか電源が入っていない、というアナウンスが流れるではないか。
沙織とのやり取りは諦めて満里奈のスマートフォンにかけてみるが、こちらは呼び出しが延々と鳴るばかりであり、しまいには、繫ぐことができなかったというアナウンスが流れた。
真樹夫は気持ちを切り替えた。ここで危ぶむより、現地へと赴くべきだ。
バスが復旧しているかどうかまだわからないが、タクシーをビジネスホテルまで呼んだほうが早いだろう。通行止めだの立ち入り制限だのがあれば、そこでタクシーを降り、歩いて進む。警察に制止されても突っ切ればよい。どうしても阻止されるなら、山の中を歩いていく。あの光るドームさえなければ、物理的には可能なはずだ。電話も通じたのだ。
真樹夫はスマートフォンでインターネットブラウザを立ち上げると、金盛市内のタクシー会社を検索した。
腕時を見ると正午を三十分ほど過ぎていた。とはいえ、空腹感はなかった。次に空腹を覚えるのはいつだろうか。空腹になることなど永遠にないような、そんな気がした。
梨花は時子とともに、公民館の駐車場の隅にあるベンチに座っていた。二人とも呆然としており、言葉も出ないありさまだ。
まぶしい青空を見上げれば、警察か自衛隊のものらしいヘリコプターが何機か旋回していた。
駐車場の一角にはパトカーや救急車、レスキュー車、消防車、自衛隊のトラックなどがそれぞれ数台ずつ停まっており、警察官や救急隊員が、紀夫や裕次、木村、佐川など何人かの男たちと話していた。自衛隊隊員たちはなんらかの機材を運んでいるらしく、慌ただしくあちこちを走り回っている。ほかの仲間たち、またそれ以外の住人たちは、公民館の建物の中にて休んでおり、負傷した者ならば応急手当を受けているはずだ。必要がある者は救急車で市街地の総合病院に搬送されるという。
パトカーや救急車はほかにも何台かこの朱地区に入っているらしく、緊急車両のサイレンの音があちこちから聞こえていた。警察官の話によれば、朱地区のあちこちに生存者がいるらしい。その数は少なくないという。
また、駐車場には原田のコンパクトカーもあった。原田は柴田を同乗させてここまで車を走らせたのだ。原田によれば、芹沢本家宅周辺の家々に非難した仲間たちの半数ほどが命を落としたらしい。負傷者もいるという。挙げられた死亡者の名前の中に金成や井坂という姓を聞いたが、見知った顔の本人なのかその家族の誰なのか、もしくは一家族で複数なのか、まだわからなかった。また、ほかに命を落としたのは誰なのか、それもまだ把握していない。
ほかの家族の死を悼むほどの余裕がない梨花だが、今は雅之の遺体とも距離を置いている。雅之と勝義の遺体は公民館の建物の中に運ばれており、原田と柴田がその二つの遺体と面会しているはずだ。
梨花も時子や綾、賢人らとともにいったんは建物の中に入ったが、嗚咽や悲しみの言葉などで騒然とするその場に圧倒されてしまった。時子に「外のベンチで休もう」と誘ってもらい、二人でその場をあとにしたのである。
仁志はショットガンを手にしているところを警察官に目撃されてしまい、事情聴取のため、やはり建物の中にいる。その件では、銃砲所持許可と第一種銃猟免許を所有するという喜久夫が「おれが実家から持ち出した銃を、たまたま彼に持たせていただけだ」と言い張り、その喜久夫も事情を聞かれている。どのみち、もう一本のショットガンも見つかってしまうだろう。もしかすると雅之の車の中にあるはずのライフルも押収されてしまうかもしれない。そうなれば、言い繕いも困難になる。
梨花や時子も警察から事情を聞かれるはずだ。しかし、憔悴しきっている今の梨花には、何を訊かれても答えることはできない。山神や女神についても、どのように説明すればよいのかわからない、ということだ。加えて、沙織と昌子との会話を耳にしたときに湧き上がった思い――すなわち、公的機関は超常現象や化け物などを信じるわけがない、という危惧もある。そもそも、生き延びた者たちのどれほどが正気を保っているのか知れたものではないのだ。落ち着いた様子を見せる時子にしても、ときおり気もそぞろな表情を浮かべており、梨花を慮って無理をしているという節があった。これらに鑑みて、いかに警察がしらみつぶしに人々を聴取しようともまともな回答は得られない、と帰結するだろう。
時子は娘の真弓との連絡が取れたらしい。インターネットやテレビでこの事件の情報を得たのか、真弓は今朝から何度も時子にメッセージや電話で連絡を試みていたという。時子は自分や紀夫の無事だけは伝えたが、それ以外については口にできなかったようだ。当然だろう――と、上空を旋回するヘリコプターを呆然と見上げながら、梨花は思った。
「昔から、少し変だとは感じていた」
梨花の右に座る時子が、不意に言った。
口を開く力が湧かず、梨花は横目で時子を見た。
正面を向いたまま、時子は続ける。
「子供の頃、兄さんたちがほかの子たちと一緒に山神の斎場に行ったりして、結局は何ごともなかったけど……わたしが中学生のときには、小学生の男の子が二人、あの林に入って行方をくらまして、それっきりだったわ。そんな神隠しのような事件は、ほかにもあったみたいだし」
仁志が同級生との連絡が取れない、という話を梨花は回顧した。それらのことごとが山神に関係している可能性はあるだろう。
「そして、太一おじさんの自殺」
言って時子は、梨花に顔を向けた。思い詰めたような表情だ。梨花は目を逸らせなかった。
「梨花ちゃんにとっては大伯父さんね」
すなわち、啓太の兄である。
「だいぶ昔の話よ」時子は続けた。「わたしのおじいさんが亡くなったとき、その長男の太一おじさんが野辺送りに出たわ。太一おじさんが自殺したのは、どうやらそのあとみたいなの。埋葬が済んで家に戻って数時間後だったらしいわ」
「じゃあ……」
意図せず、梨花は声を出していた。
「そう、太一おじさんは……山神を見たに違いない」
反応を窺っているのか、時子はしばらく梨花を見つめると、再び口を開いた。
「山神を目にして、精神を傷つけられたのね。でも山神の存在は秘匿されていた。だから太一おじさんの自殺の原因はうやむやにされた。今だから、そうじゃないか、と思えるの。あくまでもわたしの憶測だけど」
「たぶん、時子おばさんの憶測どおりなんだと思う」
梨花も私見を述べた。
「ほかには考えにくいもの」時子は頷いた。「でもこんなことがなければ、ずっと……たぶん永遠にわからなかったわ。わからなくてもいいこと、なのかもしれないけど」
「わからなくてもいいこと……っていうのは、太一おじさんのことだけじゃなくて、山神のことも?」
いつしか、梨花は話に注意が向いていた。
「そうね、どっちもよ。知らないで済むのなら、知らないほうがいい」
「だよね。あんなの、知らないほうがいいよ」
「うん。山神もそうだけど、あの女神もね。だからこそ、山神信仰は秘密を守り続けてきた」
そして時子は、何かに気づいたように目を見開いた。
「ごめんんさい。こんなときにこんな話をするなんて」
そう述べて、時子は正面に顔を戻した。
時子も傷心しているに違いない。それだけではなく、恐怖からまだ解放されていないのだろう。ゆえに、話さなければ己の精神を保てないのかもしれない。それは、梨花自身にも当てはまることだ。
「時子おばさん」
梨花は時子に顔を向けた。
時子も梨花に顔を向ける。
「お父さんや和彦おじさん、おじいちゃん、俊康おじさん、喜久夫おじさん……山神を知っていたほかの人たちも、みんな、ずっと怖かったんだろうね」
梨花の言葉を聞いて、時子は目を細めた。
「そうね。みんな、怖かったと思う」
「でも、怖いと思っていたのと同時に、強くもあったんだよね」
次の言葉を受けて時子は遠い目をすると、すぐに焦点を梨花に合わせた。
「強かったよ。だって、山神を知らないみんなを守るために……朱に住んでいる人たち全員を守るために、公には知られることなく、家族にも内緒で、ときには怪訝そうな目で見られて、ときには嫌みまで言われて、それでも山神信仰を続けてきた。だからみんな、強かったんだよ」
「わたしのお父さんも強かった……そういうことだよね?」
「実際に、強かったじゃない。みんなの先頭に立って、みんなを導いてくれた。梨花ちゃんにとって誇れる父親であるように、わたしにとっては誇れる兄なのよ」
そう言ってもらえて、梨花は嬉しかった。時子の言うとおり、雅之は梨花にとっての誇りである。今になって、そう確信した。
時子はほほえみを浮かべた。無理に作っているのかもしれない。だが、梨花の心がほんの少しだけ温かくなったのは事実だ。
気が緩んだのだろう。思い出したくない光景が浮かんだのはそのときだった。
「お母さん――」と声にしてしまった。
「梨花ちゃん」
時子はすぐに梨花を抱き締めてくれた。
「お母さんの最期が、あんなだなんて」
どれだけ流したのか知れないが、また涙がこぼれてしまった。
「きっと……きっとね、雅之兄さんが信代さんを見つけて、今頃は夫婦で仲良く一緒にいるはずよ」
まるで子供に言い聞かせるような話だ。寓話である。それはわかるが、梨花もそうであってほしいとは思う。
「でも、絶対に痛かったんだ。あんなにたくさんの大きな手に……」
梨花は信代の最期の瞬間を見たわけではない。とはいえ、あの手によってとらえられた者が始末される瞬間は、芹沢本家宅から逃げる際に目にしている。母がどうなったか、それは想像にたやすい。
「あのとき、山神の手につかまったお母さんと、目が合ったの。そのすぐあとに、お母さんは……」
涙が止まらない。
「そうだね。痛かっただろうね」
時子は梨花の髪をなでた。
「お母さん、今でも痛いのかな……」
死後の世界など信じていなかったが、今はそんな思想に頼りたかった。神道でも仏教でもかまわない。山神信仰のような邪教でなければ――。
「これだけは言っておくよ」梨花の髪をなでながら、時子はささやいた。「向こう側に行った人は、もう何も痛くないし、苦しくもないの。残された人がいつまでも未練を抱く、なんていうことがない限り、光の中で永遠に安らかでいられるの」
仏教の理なのだろうか。もしくはキリスト教か。どうであれ、その言葉を受け入れることができれば、梨花の心の痛みもいくらかは癒えるだろう。その言葉を受け入れることができれば――である。今はまだ、時子の腕の中で日の光を浴びるだけで精一杯だ。
ヘリコプターの音とサイレンの音がけたたましく鳴り響くが、それに紛れるように、どこかでカラスが鳴いていた。
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