第8話 ⑥ (最終回)

 あか地区の周辺から上空までをすっぽりと覆っていた光が消滅した、という知らせを隣家の主が自宅を訪ねてきて教えてくれたのは、正午になろうかという頃合いだった。家の外に出てみれば、案にたがわず、朱地区方面の景色は、昨日の日中以前――いつもの状態に戻っていた。

 しかしテレビのどの報道番組を見ても、これに関する情報はなかった。報道陣が二度目の取材に来た、という話を聞かなければそんな様子もない。もっとも、隣家からの知らせがあった直後に警察官が集落のすべての民家を回り、朱地区への立ち入りや近づくのも制限され続けている、という現状を告げた。光のドームが消滅した、というだけで、周辺住民に課せられた束縛に変化はない。

 しろすぎもとはこの日二度目の見回りに来た。それぞれ自分の軽トラックに乗り、自分たちの田んぼだけではなく、知人たちの田んぼも、分担して見て回った。

 見回りを済ませた田代は、朱川にかかる狭いコンクリート橋の近く、朱川の北側の小道に軽トラックを停めた。朱川の向こう岸――県道側には藪や雑木林があり、県道からは目立たぬ位置ゆえ、警察官に見とがめられることも、まずないだろう。

 田代は軽トラックのエンジンを切って車外に出た。そして、一足遅れで走ってきた杉本の軽トラックを出迎える。

「杉本さんよ、特に変わった様子はなかっただろう?」

 田代は眼鏡のずれを直しながら、軽トラックから降り立ったばかりの小太りの男に尋ねた。

「ないない」杉本は笑いながら胸の前で片手を横に振った。「問題ないよ。川なんてきれいなもんだし。化学薬品かなんだか知らんが、あの変なにおいだって消えているからね」

 杉本の言うとおりなのだ。光るドームが消滅したあとのこの一帯は、あれほど強烈だった悪臭がまったく嗅ぎ取れないのである。

「だけど、川の水や土壌が犯されていない、とは限らないからなあ」

 来年の作付けに影響があるか否かが心配なのだ。言うまでもなく仕事にならないのは最悪だが、都会で暮らしてる息子や娘に自慢の米を遅れなくなるのも寂しい。

「さっき、自治会長とおれんちの前で話したんだけど」杉本は言う。「会長の話によると、市か県の土壌調査がそのうち入るらしい」

「調査かあ。それで何か検出されたら、困っちまうな」

 とはいえ、検出されて困るものを見過ごしてあとで問題になるのは、さらに悪い。それが原因で孫が体を壊すことがあってはならないのだ。

「この様子なら、何もないと思うよ」

 広大な田園地帯を見渡しながら、杉本は言った。

「だな」

 頷いて、田代も見渡した。

 苦労して守り続けてきた田んぼだ。わけのわからぬことでたった一日にして使いものにならなくなったのでは、やるせないと言うよりは、たまらない。台風などの増水を気にして自分の田畑の確認に出向いたために流された――そんなニュースをたまに目にするが、自分の命と等しいほどに大切な財産である。そういった事故で亡くなった者を非難する言葉を耳にするたびに、田代には憤りを覚えてしまうのだ。

「そういや、あの兄ちゃんはどうした?」

 出し抜けに尋ねられ、田代は目を丸くして杉本を見た。

「兄ちゃんって誰だ?」

「ほら、今朝、会っただろう。街まで送ってやったんじゃないのか?」

「ああ……」田代は頷いた。「駅前まで送ったよ。ビジネスホテルで休む、と言っていたな。あの辺に二軒あったはずだが、昼間だし、混んでいることもないだろうから、部屋は取れたと思う」

「そうか、ならいいや」

 納得した様子で、杉本はほほえんだ。

「杉本さん、あの兄ちゃんのこと、心配してたんか?」

「そりゃそうだよ。自宅に帰れなくて困っていたじゃないか。真面目そうな男だったが、彼も災難だったな」

「かみさんと娘がいる、とか言っていた」

 市街地へ送る途中の車内で聞いた話だ。

「そうか……早く家族に会えるといいな」

「ちゃんと会えるさ。自宅は朱の平田らしいよ」

「平田といえば、新興住宅地かな?」

 そう問われて田代は頷く。

「グリーンタウン平田だな。分譲中の広告が新聞についてきたことがあった」

「ああ……県道を抜ける途中で見かける住宅地か。いいところに住んでいるんだな」

「仕事、頑張っているんだよ」

「真面目そうだったもんな」

 杉本の笑みにつられて、田代も「うん」と笑った。

「平田の新興住宅地といえば、朱のそこ以外の土地では、変わった宗教をやっている家が何軒かあるんだってな」

 またしても出し抜けだった。田代は眉を寄せる。

「変わった宗教?」

「うん……なんというか、葬式とかで野辺送りを出して、その野辺送りが、儀式をするために山の中に入っていくんだってよ。山神様っていうのをあがめているらしい」

 そう説かれるが、田代は首を傾げてしまう。

「山神様……儀式……聞いたことがあるような気もするが、意識したことはないかなあ」

「もともと朱って閉鎖的な地区というか、村だったじゃねーか。国道や県道が整備されて、今じゃ開けた土地だけどさ」

「そうだったなあ」

 田代は首肯した。道が整備される以前の朱地区――すなわち朱村には、よほどの用事がなければ行かなかった。通過するのもまれだったのだ。

「未だにそういう風習が残っていたわけだけど、市町村合併で、山神様をあがめるその信仰もどうやらなくなるらしい」

 朱地区にいるという知り合いから情報を仕入れたのだろうが、人様の人間関係などを質すのも野暮に思え、田代は別の気がかりを尋ねてみる。

「金盛市と合併すると、続けられない風習なのかな?」

「そこら辺はよくはわからないけど、なんかわけありだよな」

 謎ということだ。これ以上は訊いても無理だろう。

 もう一度、田代は一帯を見渡した。異常が見つからないのだから、ここにいても時間の無駄だ。自分たちに把握できることは限界がある。土壌調査があるというのなら、あとはそれに任せるしかないだろう。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか」

「そうしよう」と朱川に目をやった杉本が、固まった。

「どうした?」

 田代は杉本の顔を覗いた。

「ほら……なんだあれ?」

 声を上げて、杉本はすぐ目の前の朱川を指さした。

 田代は朱川の流れに視線を移すが、特に変わった様子はない。

「何も変なものはないぞ」

 見たままを訴えた。

「あ、いや……おかしいな」

 指さした手を下ろした杉本は、それでも朱川に目を凝らしている。

「何が見えたんだよ?」

 業を煮やし、田代は率直に尋ねた。

「なんというか、蛙の卵みたいなのがいくつも浮かんで流れていたんだ」

 自信がなさそうに杉本は答えた。

「だったら、蛙の卵なんじゃねーの。まあ、今の時期にはあんまり見ないような気がするけど。……そっか、種類にもよるか」

「でもさ、蛙の卵にしちゃでかすぎるんだよ」

 杉本はそう言うと、右手を掲げてこぶしを作った。

「その大きさ?」

「うん」と答えて、杉本は右手を下ろした。

「なら蛙の卵じゃないな。……ほら、子供らが硬貨をいれてハンドルを回すと出てくるやつ。あれの容器じゃないか?」

 田代の言葉を受けて杉本はまばたきを繰り返した。

「ガチャガチャとかいうやつのカプセルか? 違うなあ。もっとてろんてろんしたやつだった」

「てろんてろん……なら、目玉とか?」

「そうそう、目玉だ」

 得心がいったように、杉本は表情を明るくした。

「握りこぶし大の目玉なんてあるわけないじゃないか」

 そう否定して、田代は肩をすくめた。

「でもそこに浮いていたんだよ」

 言い募った杉本が見る朱川に、田代はもう一度、目を向けた。

 流れの穏やかな川だ。浮いていたのなら、まだそう遠くには流れていないはずだ。しかし下流に目を向けても、そういったものは見当たらない。

「沈んだのかな……たくさん浮いていたのに」

 川の流れを見つめたまま、杉本は首を傾げている。

「たくさん、って?」

「十個とか二十個とか……それ以上だったな」

「おいおい」

 担がれているに違いない。もっとも、杉本にそんな癖があるという噂はなく、現に、寄り合いで酒を飲んでも冗談を口にすることさえほとんどないのだ。

「気のせいだったのかなあ」

 杉本は諦めきれない様子だ。

 ふと、危惧を覚え、田代は朱川の上流に視線を移した。コンクリート橋から上流側に田んぼはない。草地とその先に雑木林が広がっている。そのさらなる奥に、朱の里があるのだ。

 光るドームは化学薬品の可能性があるとのことだった。それと杉本が目撃したという目玉らしきものとに、関連はないのか。

「浮かんでいたものが急に沈むなんて、やっぱりおれの見間違いだったんだよ」

 杉本は言った。

「まるで、見られたから隠れる、みたいな感じか?」

 冗談など言っている場合なのか――言っている田代本人がそう案じた。そもそも見間違いなのかどうか、それが判然としない。

 どうすればよいのか考えがまとまらず、田代は途方に暮れた。

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にじり寄る宿弊 ~そのとき少女は何を見た?~ 岬士郎 @sironoji

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