第6話 ③

 リビングのソファで横になっていた沙織は、ふと目を覚ました。アナログの掛け時計を見ると六時四十七分だが、午前なのか午後なのかわからない。かけていた毛布をのけて立ち上がり、テーブルの上からスマートフォンを取った。スリープを解除させ、午前であることを知る。

 この明るさは通常の朝である証しなのだろうか。わずかな期待を抱いた沙織は、スマートフォンをテーブルに置き、窓辺に歩み寄ってレースカーテン越しに外の様子を窺う。だが、目に飛び込んできたのは相変わらずの異様な光景だった。日中とも夜間ともつかない明るさであり、空の光の揺らめきに同調して下界の陰影までもが揺らいでいた。

 はす向かいの蛭田宅では二台の車がカーポートに収まっているが、その隣の林田宅の駐車スペースにあるは林田の妻の軽ワンボックスだけだ。林田のSUVはない。林田が修司を助手席に乗せて知り合いの家に向かった、ということを沙織は思い出した。

 満里奈のことが気になり、沙織は二階へと向かった。万が一ということもある。自分が寝ている間に出かけた、などという事態が脳裏に浮かんだ。

 満里奈の寝室のドアをノックするが、返事はなかった。そっとドアを開けると、娘はベッドで寝ていた。見れば掛け布団がはだけている。沙織は安堵しつつベッドに近づき、掛け布団を直した。

 不意に満里奈が目を開けた。不安をたたえた目だった。

「お母さんお母さん……」

 横になったまま、満里奈が両腕を広げた。

 沙織は思わず満里奈を抱き締めた。

 満里奈も沙織を抱き締める。

「どうしたの? 怖い夢でも見たの?」

 抱き締めたまま尋ねると、満里奈は頷いた。

「お父さんが遠くへ行っちゃうの。わたしが、帰ってきてよ、って言っているのに、どんどん遠くへ行っちゃうの」

 そして満里奈は泣き出した。

「大丈夫よ。お父さんは帰ってくるから、何も心配しないで」

 なだめながら、優しく満里奈の髪をなでた。

「うん」と答えた満里奈は、少しだけ落ち着いた様子だった。

「今は朝? 外はまだあのまま?」

 耳元で問われた沙織は「朝になったけど、外はあのままだね」と返すと、満里奈から体を離し、「おなか、すいていない?」と訊いた。

「ちょっとだけすいた」

 片手で涙をぬぐった満里奈は、上半身を起こした。彼女もゆうべと同じ服装のままだ。

「じゃあ、簡単に何か作るね」

 沙織が言うと満里奈はようやく笑顔を見せてくれた。

 二人が一階のリビングに入ってすぐ、外で音が二回、連続したした。車のドアを閉じる音だ。

 レースのカーテン越しに見れば、林田のSUVが彼の自宅の駐車スペースに後ろ向きで停まっていた。修司と林田が車を背にして何やら話し込んでいる。

「蛭田さんのおじさんと林田さんのおじさんが戻ってきたんだね」

 沙織の横に立つ満里奈が言った。

「そうね」

 この異様な現象の原因についての論議などにかかわるつもりはないからこそ、「かまわないでご飯にしよう」と満里奈に告げた。

「うん……」

 得心はいかないようだが、頷いた満里奈は沙織とともにキッチンに立った。

 ソーセージエッグとサラダ、トースト、インスタントスープがメニューだった。三十分ほどで食卓を整え、無言のまま、食事は終わった。片づけも二人で済ませ、ソファに落ち着いたのは午前八時を過ぎたばかりの頃だった。

 玄関のドアがノックされた。落ち着いてから五分も経っていない。

「また蛭田さん?」

 不安そうに口にする満里奈に、沙織は苦笑してみせる。

「たぶんね」

 近所付き合いをないがしろにもできず、沙織は立ち上がった。

「はい」

 沙織が玄関に向かって声を飛ばすと、「蛭田よ」と京子の声がした。

「満里奈はここにいて」

 言って沙織はリビングをあとにした。しかし、玄関に向かう途中で満里奈が右腕にしがみついてきた。

「リビングで待っていて」

 立ち止まって言いつけたが、満里奈は首を横に振る。

「やだ。お母さんと一緒にいるもん」

 反駁した満里奈は、沙織の腕を引いて玄関へと歩き出した。

 こんなことに娘を巻き込みたくなかったが、沙織はそれを諦めた。満里奈の精神状態を慮ったのだ。一人にしておくことが無理なら致し方あるまい。しかし、巻き込まれることによって彼女の不安が募る可能性もあるだろう。そうならないようにサポートする必要はありそうだ。

 二人そろって靴を履いた。その間も満里奈の片手は沙織の腕をつかんでいた。

 ドアを開けると、いつもの姿の京子が立っていた。

 挨拶もそこそこに、沙織から「修司さんが帰ってきたんだね」と振ってみた。

「そうなの。それでね」京子は言った。「やっぱり、この異常事態には山神信仰が絡んでいたらしいのよ」

「本当?」

 眉唾に聞こえたのは否めなかった。だが現状を思えば、何があっても不思議ではない。

「どうなんだかねえ」京子は肩をすくめた。「どこまでが本当なのか、ということなんだろうけど、ただ、昨日の夜に野辺送りが本郷から出たのは事実みたいだし、この現象が始まってしばらくしてから、山神信仰の人たちがどこかに集まったんだって。今も、何かしているらしいの」

「何かしているといっても、きっと、自治会とか常会とかそんな感じよ。こんな状況だし、どうにかしなきゃ、って話し合っているんじゃないの?」

 この右腕にしがみついている満里奈を思えばこその言葉だった。

「そんな寄り合いじゃないのよ。あかの全域から集まっているというんだもの、区域ごとの自治会なんかじゃないわけよ。何度も言うけど、山神信仰の人たちが集まっているの」

 いつになく、京子は高ぶっているようだ。

 沙織の右腕をつかむ満里奈の両手に力が入った。

「うちの主人の話だと」京子は続けた。「しまざきさん……林田さんの知り合いの東郷に住んでいる人ね。その人も普段から山神信仰を胡散臭く思っていたんだって」

「その島崎さんっていう人、信用できるの?」

 逆恨みや曲解など個人の感情に惑わされているのだとすれば、とんでもない事態へと波及する懸念がある。できることなら食い止めたい。だが、隣人とのいさかいは避けたかった。ここでことを荒立てれば、満里奈の情緒に影響を及ぼしかねないのだ。

 沙織が言い淀んでいると、京子は家の中に視線を移した。

「真樹夫さんはまだ……だよね?」

 朱地区と外との往来が不可能と知っていての言葉なのだろうか。それでも沙織は気持ちを落ち着かせ、京子と目を合わせる。

「ええ。連絡も取れないまま」

「だったら、奮起するべきよ」

 京子は力を込めて言った。

「奮起するって……何をするの?」

 尋ねてみたが、答えを聞きたくないというのが本音だ。

「ここの団地のみんなもほかの住人も、山神信仰の人以外は、みんな怒っているんだよ。この光を消してもらうためにも、みんなで団結して、山神信仰の人たちに訴えるのよ」

 予想どおりの内容だった。とはいえ、山神信仰と無縁の住人のすべてが怒っているなど、勢い余っての言葉だろう。そこまで把握できるはずがないうえ、現に、沙織と満里奈はそれに含まれていないのだ。隣人との諍いは起こすべきではないが、早まった考えに巻き込まれてはならない。

「そうね……でも、もうちょっと休ませて。主人が帰ってこないという不安もあるし、積極的に行動するなんて、今は無理よ」

 あながち虚言でもないのだが、過度な表現ではある。

「そんなことを言っている場合じゃないのよ。山の光が今はどうなっているのか、見ていないの?」

 問われて沙織は、南の山並みに目をやった。そしてようやく、事態の変化に気づく。

「山の光が、広がっている」

 声をうわずらせたのは満里奈だった。

 昨夜は稜線から中腹にかけての幅だったはずだが、下方にかけての幅が広がっているのだ。その下端は建物や木立の陰になっていて確認できないが、少なくとも見える範囲において、山々はすべてがあの異様な光に覆われていた。

「光るスライムが、少しずつ下のほうに広がっているの」京子は言った。「しかも朱の周囲のすべてがそんな状況なのよ。東側は最初から平地に広がっていたけど、ほかのところでも、場所によってはすでに平地まであれが届いているんだって。早くなんとかしなくちゃ、ここだってあれに覆われてしまうわ。そうしたら、ほら、触手っていうやつに、みんな襲われちゃうじゃない」

 焦燥は理解できた。むしろ同調したいくらいだ。しかし沙織は逡巡する。真樹夫がいないからこそ、選択をしくじってはならない。

 家並みの奥のほうに人垣が見えた。何を語り合っているのか聞き取れないが、かなり興奮しているらしい。怒号だか雄叫びだかを上げている者もいる。

 沙織の視線を追うように、京子がそちらに顔を向けた。

「ほら、みんな、訴えに行く準備をしているのよ。反対派の決起集会よ」そして京子は沙織に視線を戻す。「林田さんはこの集まりを、山神信仰反対派、って言っていたわ。昨日の野辺送りを出した家に行けば真相はわかるんじゃないか……ということで、そこへ行くことになると思う。本郷だね。うちの子供たちも一緒に行くのよ。ねっ、満里奈ちゃんも行くでしょう?」

「それはうちで決めることよ」

 爆発しそうだったが、どうにかこらえて静かに伝えた。

「沙織さん」

 未練がましい声だった。

「とにかく、考えてから声をかけるね。今は休ませて」

 一方的に告げ、京子を押しのけるようにしてドアを閉じた。

「もう……」とドアの向こうで声がした。

 無用な勧誘が衝撃だったらしく、満里奈は沙織の右腕にしがみついたまま固まっている。

 門扉の子扉を閉じる音がした。京子は門の外へ出ていったようだ。

「ねえ」右腕にしがみつく満里奈が、沙織を見上げた。「お母さんは行かないよね?」

 満里奈でさえ、蛭田夫婦や林田らがしようとしていることに懸念を抱いているのだ。

「行かないわ。あの人たち、何か間違っているよ」

 沙織が目にした山神信仰反対派の決起集会は、まるで凶暴な集団だった。そんな集団に加わる者の精神を疑ってしまう。

「お母さん、あの光はここまで来るのかな?」

 満里奈の声はおびえていた。

「わからないけど、そうなるかもしれない」

 さらにおびえさせてどうするつもりか、と自分を責めたくなった。しかし、適切な回答はそれ以外に思いつかなかったのだ。

「逃げようよ」

 そんな訴えに沙織は言葉を失う。

「光も怖いけど」満里奈は言った「外にいる人たちも怖いよ」

「でも、どこへ逃げていいのか……」

 違うのだ。そんな言葉では満里奈を守れない。

「朱の真ん中のほうは、どうかな?」

 満里奈のつぶやきを耳にして、沙織は考える。光る何が周囲から押し寄せてくるのなら、朱地区の端にいるより中央付近にいたほうが、少なくとも時間稼ぎにはなるだろう。山神信仰反対派との物理的な距離を取ることもできるかもしれない。

「満里奈」沙織は満里奈を見た。「手短に作戦を立てよう」

「作戦?」

「うん。満里奈の言うとおり、逃げるのよ」

 言って沙織は、満里奈を連れてリビングに戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る