第37話 氷塔

 とても長い二十分だった。アークはもう戻ってこないかもしれないと思っていた矢先、閉店した店を守る俺の前にとぼとぼと人影が戻って入店してきた思わず立ち上がって声をかけたが、返事はなく意気消沈したというよりは何かに取り憑かれた目で前だけを凝視している。


 その口元が不適に笑っていて背筋が寒くなった。


 俺のことは空気、または壁というように押しのけて、俺は扉の役割をしたにすぎなかった。アークの中で何かが凍てついて燃えていた。床に吸いつく足取りながら、つまづきもせず歩幅はゆったりと進む。


 お目当てのアイスティーにたどり着くと、もう冷えていないことへの落胆か、グラスを払いのけて床に落として割った。座り込んだので泣いているのかとそっと覗くと、かっと目を見開いてこれ以上面白いことはないというように半狂乱に口を引きつらせて笑っている。


「おい、どうした」


 俺たちも一応は執行シャ警察ルフから逃げた方がよくないかと控えめに言いかけて口をつぐんだ。


「逃げようなんて考えないでよ」


 今のは俺に言ったのかと恐る恐る目を合わせる。こいつ、明らかに報復を考えている。執行シャ警察ルフに対してか、それともまさか、アンヌ・フローラか。


「言いにくいんだが、ニノンは……捕まったのか? 俺が悪いのは分かってる。悪かった」


 アークの耳にはどれも雑音でしかないのか。返事は期待してなかったが、案外まともに淡々と答えた。


「ニノンは裸足で歩いていたよ。自分の足でタクシーを拾うみたいに手を振って、青い液晶車体の執行シャ警察ルフのマシンに乗り込んだ。俺の方を一度振り返ったけど、執行シャ警察ルフに手を引かれてどこかの金持ちみたいに見えたよ」


「署なら知ってる。俺たちなら脱獄ぐらい仲間が援助してくれる」


「姉さんは、令嬢と同じなんだ、それでいて奴隷さ。署なんか行くわけがないよ」


「だったらどうする? どこに乗り込む」


「姉さんが自分で出て行った事実を見るに、ナノマシンに脳や神経系統を支配されてる。しかも、外からナノマシンの現在位置を特定するのは不可能。ナノマシン自体が流動的に移動しているしね。姉さんはもうやつらに支配されたんだよ」


「でも、連れ戻すことはできるだろ」


 アークはただ薄ら笑った。怒りよりも悲観しているのが伝わってきて俺は額をついて謝った。アークはただおかしく笑うだけで何の琴線にも触れた様子はなかった。


「ナノマシンは脳内を逃げ回っているんだよ。取り除くのは脳外科医でも不可能だよ。通常のナノマシンは投与して不要になった場合体内で吸収しても無害であるか、または排泄されることが義務づけられているんだ。アンヌ・フローラが姉さんを捕まえるのに合法的に進める必要はないからナノマシンが勝手に出ていく保証もない」


「じゃあ連れ戻してもニノンはまた、自分の意思で逃げ出すってことかよ」


「それだけじゃないでしょ。ニノンは俺をおびき出して殺そうとするかもしれない。別にそれは構わないよ。ただ、分かる? 姉さんの人格は完全に失われるんだよ」


「そんな。医者のお前が言うんならそうかもしれないが、ニノンの意思はあるはずだ」


 何を根拠にという顔をされた。確かに俺には科学や医学の知識はない。


 でもニノンにはまだ肉体がある以上魂はあるはずだろ。今までだってニノンの感情を薄れさせる治療をしてきたくせに、それを自分の特権だとでも思っているのか。


 それをアンヌ・フローラに横取りされて怒っているのだろうか。ニノンの治療を百年も続けているのは肉体にこそ魂が宿ると考えているからではないのか? 

 

 人体のロボット化に否定的なのは、機械には魂が宿らないと心の隅で思っているからではないのか? 俺の無言の攻撃をよそにアークの落胆は予想以上だった。


 警報が鳴った。ついにこの店にも執行シャ警察ルフが来たのだ。だが、アークは一歩も動こうとしなかった。もう捕まろうが殺されようがどうでもいいらしい。


 こいつを助けたところで自分の過失を取り戻せるとは思っていないが、何か手をつくさずにはいられない。せっかくノーペアリングになったというのに、むざむざと殺されるわけにはいかない。俺だってやつらからしたら用済みのはずだからだ。


 アークをつかんで強く念じる。ポーターのある場所。空気を伝って電極を探る。電圧のようなものを感じる。ポーターと俺は一つだ。


「行くなら、エクステリユへ」


 アークがぶつぶつとポーターのアドレスとついでに緯度と経度を言った。執行シャ警察ルフの駆け込む足音。室内は簡単に突破された。部隊が突入してくる。


 最初のウォータージェットが発射されるとき俺は瞬時に外界エクステリユをイメージした。


 下層階の掘り進めた秘密の道。マイナイスの世界。身体が浮く。そして息切れする。俺は白いトンネルの中を走る。白い光が赤、青、黄色に別れてはまた一つの白に戻る。目の前を光と火花が走る。飛び込んできた視界は閉じたまぶたも突き抜ける光。足が着くと同時に息が詰まった。


 吸い込んだマイナスの気温が肺を締めつける。アークもどっと地面に手をついている。アークも一緒に走ったことになるのか、二人とも動機と息切れが激しい。長距離を走ってきたみたいだ。


「ポーターの電波が届けば来れるもんなんだね。俺の希望した通りの場所だし」


「何だここ」


 ポーターが数メートル先に傾いた状態で凍ったまま起動している。アークが前もって設置していたとでもいうのか、年期が入っている。その奥で巨大な人工物がそびえ立っている。


 氷山の一角が外界エクステリユの凍った大地から本物の雨雲の空へと連なっている。だがその氷をまとう黒光りのする機械はコンピュータとはとても思えない禍々しさを宿している。冷たい寒気に流された早い雲をその切っ先で貫くかのような氷の塔だ。


「旧ウィツアのケルン地方だよ。そしてこれが旧人類を一時的に救い、やがて滅ぼした温暖化メサ冷却装置

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