第36話 ナノマシン
そうか、こいつのやっていることはタイムトラベルなんだなと再認識した。誰も理解者が得られない孤独な存在がアーク。俺が哀れみの目を向けてしまったためか、アークの表情が突然もの言わなくなってしまった。
しまったと思った。
ご機嫌取りは簡単ではない。アークは自分にとっては意義のない会話をしたがらない男だ。それが一度口を閉ざすともう封印されて過去の話など二度と出てこない。
それを決定的にする事件が起きた。
衣擦れの音。投げ出された指先が、机の金属類をかき落とし、床に高らかにばらまく音と、少女の重い後頭部が床を打つ音。跳ね上がるニノンの髪。アークが素早く立ち上がる。紫がかった唇がニノンと声にもならず呟く。
抱き起こしにかかる様子が、横になったままではよく見えない。ニノンは、目を閉じているのか、しきりにアークがニノンの髪をかき分け頬をつかみ、ライトで目を確認している。アークの金髪と重なってニノンが金髪に見えたことで、今までに似ても似つかないと思っていた二人は本物の兄弟だと確信した。
「おいおい、何があった?」
アークはニノンを抱き抱えて、別室の診察室に引きこもった。あまりにも、がさつな騒音を上げアークは診療しているようだ。さっきまでの名医師ぶりはなく、別人のように椅子を半狂乱に引き寄せ、咽るような唸り声が聞こえた。相当まずい状況らしい。ニノンはほかにも持病があるのか? 何かの発作か?
「おい、何があった? ニノンは無事か! 俺にも分かるように教えてくれ」
しばらくの沈黙、突然机が引っくり返る轟音。床も少し揺れた。相当まずい。まずいことには、怒りの矛先を俺に向けるべく別室から走ってくる。アークは俺を覆うビニールをひきちぎらんばかりに俺を詰問した。俺の腕はまだ若干痺れていて、アークの猛攻を受けるばかりだった。
「何のナノマシンを持ってきた」
手術台に乗せられたときから見えなくなっていた俺の上着からむさぼり出されたのは、アンヌ・フローラから渡されたカプセル菓子だ。今は袋も破れ、カプセルも空になっている。
「どこに置いてたんだ? まさか、ニノンは食べたのか?」
俺はとんだことを加担してしまった。中身はナノマシンだというのか。血の気が引く。アークの方は尚更だ。今まで見たこともない剣幕で、ありったけの憎悪を込めて、とうとう俺の上からビニールに爪を立て罵詈雑言を叫んだ。
「馬鹿を言うな。ニノンが自分から食べるか。姉さんに何をした。ナノマシンのプログラムは何だ! 姉さんを殺す気か!」
「持ってきたのは悪かった。でも中身は開けてない。オペの間、お前が持ってたんじゃないのか」
真っ白な爪がとうとう俺の首をひっかいて血が滲み出たが、何も言える立場ではなかった。
「何故持ってることを早く言わなかった。ナノマシンは体内のみならず体外でも自力で移動するタイプがある。見ろ、カプセルも袋も、破ったんだよ」
俺は絶句した。唯一痺れていていない部分である俺の顔面を殴ったアークは、ニノンの元に見たことないスコープや、錠剤、点滴、何に使うのかヘッドギアなどキャスターに詰めて廊下を走り去る。痛みよりも先に俺にも何かニノンの容態を見ることはできないかという後悔の念がよぎった。俺の呼びかけも完全無視された。
絶望的な叫びが聞こえた。何度もニノンを呼ぶ声。迷子になった子犬を探す悲痛な呼び声だ。
「どうしたニノンがいないのか?」
俺はとうとう身を乗り出した。ビニールは、穴だらけになってしぼんだ。重症でもないのに酸素なんかいるか。今はそれどころじゃない。
足を投げ出して床に転げ落ちる。痺れていて痛みはないが、後であざになるようなひどい落ち方だ。ほふく前進で、床をずるずる這う。アークが、舞い戻ってきたと思ったら俺には目もくれず走り抜け階段を上っていく。
「いたのか?」
見上げるように聞いたときにはもう降りてくるところだ。またすぐに見えなくなって店内を荒らしている音がする。
まるで空き巣だ。とうとう足音は外に吸い込まれるようにして完全に消えた。やっと扉につかまって立ち上がったとき、足の麻痺が消えてきた。俺はよろよろと、ニノンの寝かされていた別室に立ち寄る。
血液サンプルの横に置かれた金属探知機が、鳴っている。それですぐにナノマシンだと分かったのか。
自分のしてしまったことに罪悪感を感じていたたまれなくなり、鳴り続けている金属探知機をニノンの血の入った試験管から遠ざけた。
ニノンがわずか数分の間に自らの意思で歩いて姿を消すことなんてありえないように思う。血液に入り込んだナノマシンが脳まで行き渡ってしまったのか? ここから逃げるように脳に信号を送ったのか?
最悪の場合アンヌ・フローラのやつに意識を乗っ取られている可能性もあることに思い至り、めまいがしてきた。本当に取り返しがつかないぞ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます