第六章 氷塔
第30話 ポーター
「忘れないことね。遠隔操作であなたの命をいつでも奪うことができる。これは一時釈放よ。あなたは投獄されたも同じ。我々が本当に必要としているのはこの女性よ。ただし、彼女に手を出すことはドレイシーが許さない。あなたには簡単なことをお願いするわ。彼女にこれを食べさせてほしいの」
渡されたのは透明なビニール袋に入れられたカプセル菓子だった。こいつらが子供に食べさせられるような普通の菓子なんか渡すはずがない。中身は毒よりもやばそうだ。
「大丈夫彼女の命を奪うものじゃないわ。彼女にはサーバーのメンテナンスを手伝ってもらいたいだけよ」
何のサーバーだとか余計なことを聞くと殴られて放り出されて今、公園のステンレスのベンチに座っている。我ながら情けない。イーブンも没収されたが、どさくさに紛れてデータは削除した。ワンプッシュで削除できるシステムを入れている。
同時にイザークにも俺の身に何かあったことが伝わるだろう。イザークならUコードシステムの脅威が俺たちにも降りかかったことが理解できるはずだ。ノーペアリングにする方法はもしかしたらイザークの方が先に見つけるかもしれない。
何にしろ、いつ殺されてもおかしくないまずい状況になった。幸い、どさくさに紛れてアークが没収したサバイバルナイフを取り返した。あいつは俺をニノンから遠ざけることしか頭にない。
普通なら危険なサバイバルナイフを遠ざけるべきだ。不用心にもその辺のデスクに置きっぱなしだったのだ。だが、ナイフ一本でこれからどうするべきか。
上層階の噴水が節約気味に噴出した。傍で遊ぶ子供の姿もない。下層階ならこの水に子供はみな汚れた身体で飛び込むだろう。誰にも看取られることなくしぶきは水面に淀んでいく。無機質で美麗な散り様だ。本物の芝生が、スプリンクラーを受けて生暖かく輝く。
それにしてもあの、ニノンがアークの姉だということはあり得るのだろうか。妹の間違いじゃないのだろうか。
彼女についての詳しい情報は得られなかったが、彼女に会ったらカプセル菓子を渡すように言われたので、彼女がなんらかの理由で少女の姿になっていることをアンヌ・フローラは知っているのだろう。だが、半ば信じがたい。
アークの居場所なんて心当たりがない。こっそりアークが目を通していた上層階の観光施設の本は持ってきたが。アークをイメージしたらシンクロで飛べるだろうか。案外すんなり開放されてよかった。あいつらは俺がいざとなったらポーターで瞬間移動できることを知らないのだから。
白いアスファルトは歩くと、音を吸収して実際に歩いている感覚がなくなってくる。立ち並ぶ青いカフェ群。こんなにカフェばかり並べては競争率がすごそうだ。ここは商店ばかりが整理された五番地区だ。
下層階は二十番ホールまであるが、上層階は五番地区までしかないが広い土地で人々がひしめき合って生活する必要がない。
五角形を描くように構成され、北を起点に一番地区。時計回りに東が二番地区。南東が三番地区、南西が四番地区、西が五番地区に区割りされている。面積も高さもエルザスの三割しか占めない上層階は、洗練され、一つのことに特化した機能を果たすことしか目的とされていない都市計画のもと建てられた。
観光施設の本を真剣に読んだのは生まれてはじめてのことだ。上層階は金を稼ぐ場所ということ以外に下層階の住民にはメリットがない。なるほど、上の連中は金を使う場所も充実しているわけだ。
北の一番地区は上層階の中でも特権階級が住む、下層階への差別の厳しい場所だ。ここにアンヌ・フローラもいる。上層階の住民も恐れをなして近寄らないという都市伝説もある。
本にはいくつかのあからさまなマーキングがしてあった。『憧れの仮想空間はココ! 若者で知らない人はいない。癒しの仮想空間提供喫茶店』『二番地区代表ともいえるスタイリストが集う美容室』これを素直に信じるのはどうだろう。
アークがニノンのために観光? そんな優しい弟なのだろうか。これ見よがしにこの本を置いていった気もしないでもないのは何故だろう。俺はこのガイドブックを盗んできたんだ。
あの
それにしてもアークの逃げ足の早さ。俺を置いていったことを考えるとあらかじめいつでも逃げられる準備はしていたのだろう。あの隠し階段の件も然り。きっと他人に見られて困るようなことは書いてないはずだ。
こんな本からアークの行き先なんて調べても無駄な気がしてきた。ドーム内の空気を循環させるそよ風、循環風に任せて斜め読みしていると、スズランの写真が挟まっているのを見つけた。そういえば、花瓶に飾っていた。ニノンが好きな花なのかも。
エルザスで本物の花が見られる場所は限られる。花屋か、上層階の農業地帯、
無人タクシーを飛ばして南東に位置する三番地区の
上層階そのものがドームなのに、その中に畑の種類ごとにドームで覆われているのだから不思議な空間だ。ただ、あまりの広さに明確な目的地がなければ移動するだけで日が暮れてしまうだろう。花だけを生産するエリアに行くことにした。植物園もあったが、どちらがいいかなんて分からない。
いや、待てよ、花の遺伝子を研究する研究所や、培養専門のラボなどもあったはずだ。やはり的を絞りきれていない。アンヌ・フローラは明日の正午がタイムリミットと言っていた。ニノンを見つけられなければ俺は再び確保されるか、その場でUコードシステムに殺される。
ほかにアークの家で見落としてないだろうか。そういえばはじめて会ったあの日、箱庭で会えると言っていたが、それは治療法のことだった。タクシーを一旦下車して俺は途方にくれながら用水路の傍に座り込んだ。
いい加減シンクロ能力をうまく使えないとまずい。きっと瞬時に移動するのにも目的地をある程度イメージできないといけないのかもしれない。アーク本人のことなら嫌でも目に浮かぶのに。
園芸ドームと農地ドームの間は白いアスファルトと青い用水路ではっきり区割りされている。とぼとぼと歩きながら、そういえば上層階を探索することなんて今までなかったと思い至った。
箱庭療法とは、小さな箱や盆に砂を敷いてそこに好きなようにミニチュアを並べていく治療法のことだ。そんなもの、こんなだだっ広い場所でやる必要はない。もう一度立ち止まって観光本を見る。ガーデンらしきものもあるにはあるが。
いや、待てよ。このあからさまなマーカーがついている『癒し系仮想空間提供喫茶店』は、案外ありえるかもしれない。仮想空間なら箱庭だって何だって作り出せる。
地図と、写真に集中する。今度こそシンクロするんだ。力んでみたがワープはできなかった。またタクシーに乗るかと思案したが、タクシーで思い出した。マルコはマシンとシンクロしている。俺だってたぶん上層階のポーターにシンクロしているんだ。
イメージすべきは目的地ではなくポストの形をしたポーターそのものを思い浮かべればいいのではないか。その瞬間、胃が浮くような錯覚にとらわれた。緑の景色が通り過ぎていく。そして、息が上がって顔も真っ赤になった。
息が詰まる。俺は走っている。そうか、俺自身が高速で移動しなければならないんだ。同時に体力も消耗する。が、終わるのは一瞬だった。
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