第32話 若返る病と冷凍睡眠

「何なんだその病って」


「若返る病。『早若病』。若返りって言うと聞こえはいいけど、身体的にはもちろん記憶はどんどんなくなっていく。記憶を司る海馬の細胞が細胞分裂前の未分化状態になっていく病でね。最後には幼児、胎児になって死ぬ。それまでにあった『幼若化』という単語は、細胞が未分化状態に近い状態になるのは同じだけど、若返りじゃない。区別するために早若病って命名されたんだ」


「おい、ちょっと待てよ。じゃあニノンはその若返る病でお前より年下になってるのか」


「それだけじゃないよ。俺のことはもうほとんど忘れてる。人間の幼児は二歳か三歳になると海馬が完成する。逆を言えば一歳頃は海馬が未完成の状態、幼児期健忘、なんだよ。幼児は物事を覚えきれないよね。その状態になる。でも、実際はもっと早かった。海馬の未分化は、アルツハイマー病の海馬の萎縮とは別にしても、ニノンが十代にまで戻ったときには俺の顔の判断もつかなくなっていたよ。見た目の若返りのスピードよりも海馬の未分化のスピードの方が早かったんだ」


 ニノンの美しく透明感のある髪が通気口からの風を受けて青白くなびいた。彼女はじっと兄の隣で座り、兄を兄だと思わず口を難しく結んでいる。そのうっとりとしたようで、冷たい瞳と目が合うと今の話にはまるで興味がないというように眉の力が抜けていき、ぽっと上唇と下唇を離して小さく口を開いた。


 そこからは息がもれるだけで言葉は発せられなかった。俺はどう呼びかけていいものか分からなかったが、代わりにアークのこれまで俺が聞いたこともないような優しい声がニノンをなでた。


 それにもニノンは挙動では応じなかった。ただアークに仕える人形としか言いようがない、座り込んだままの姿勢で、瞬きを忘れた乾いた瞳から眼球を守ろうと生理現象の涙が滲む。


「早若病はアルザス建国以前に猛威をふるい、外界エクステリユの人類は絶滅の危機に貧した。俺たちは外界エクステリユの生存者だよ」


「アンヌ・フローラから聞いたよ。でもどうやって生きて出てきたんだ。まさかその氷のシンクロ能力か」


「順番に話すよ」


 アークはアナログ時計を気にしている。


「まず君をノーペアリングにしないとね」


 アンヌ・フローラから逃げるのはそれからということだろうか。俺は突然首筋に麻酔針を盛られた。不意打ちだ。というより勤務外でも麻酔を持ち歩いているのか・・・・・・不覚。


 目が覚めるとまた地下室のような場所にいた。でも、アークの家ではなさそうだ。今度は手術台に乗せられている。局所麻酔だったのか、身体は動かせないが意識はあった。


「店の地下だよ。安心して、ペアリングを外すには針を抜くだけだから」


「針って?」


 ろれつがうまく回らずよだれが垂れた。


「Uコードシステムが考案されたのは、実はエクステリユ顕在の時期でね。結構アナログなんだよ。電波を受信して抹殺の命令を受けると、生まれてすぐに胸部に埋め込まれた針が心臓に届くようになってるんだ。普段は針にカバーまでついてちょっと強打したぐらいじゃ心臓や血管を傷つけることはないんだよ」


 俺の視界の下で俺の胸にメスが入っていく。全身麻酔の方がありがたかった。


「じゃあ、エルザスの病院で生まれたやつはみんな、心臓の近くに針が入れられてるのか」


「そうだよ。だから俺たちがエクステリユで生まれたときには、考案はされてたものの実行まで移されてなかったからノーペアリングなんだよ」


 胸元に違和感を感じながら俺はアークに外界エクステリユのことをできるだけ多く聞いた。アークは手元のスピードは緩めず、問題の針を探り当てながら俺に説明した。


「エクステリユには百を越える国が存在していたよ。大陸間での貿易もあった。もちろん国同士の戦争も。そのすべてを凍らして悪かったね」


「エクステリユが凍りついて滅んだのは、やっぱりお前のせいなのか」


 アークはここぞとばかりに俺の胸から数ミリの針を抜いた。痛みは麻酔のおかげで感じなかったが、目に見えるような位置で引っこ抜かれたことと、明らかに引き抜かれた感じが、鳥肌を呼び起こした。


 心拍数も上がって、近くの装置が警報音を鳴らしている。アークは何も言わず取り乱さない。任せて大丈夫なんだろうか。針が生まれたときから埋められていたなんて信じられない。


「目に見えないけど、顕微鏡で見るとちゃんと受信機もついてるんだよ」


「なあ、答えろよ」


 アークは糸を取り出した。そして、ニノンに指示して助手をするように言った。


「大丈夫。手術前に勉強させるんだ。でも毎回忘れるから、やる前に毎回覚えさせないとね」


 ニノンが助手をこなせるのか。記憶することができないというより、まるで感情がないという方が正しいのではないだろうか。


「エクステリユって呼ぶ世界が滅んだのは俺の個人的な恨みのせいかも。でもこうするしか、誰も救えなかったよ。エクステリユは、病が蔓延し彼女もかかった。

 病は当時の技術では完治することは不可能だった。

 そこで俺は考えた。

 俺のシンクロ能力で、時を越えることを。

 俺のシンクロ能力は、エクステリユにある温暖化対策として導入された温暖化メサ冷却装置とシンクロする能力。

 病に感染した人類を氷漬けにして仮死状態のまま眠り、治療方法が確立されているであろう二百年後に目覚めることにしたんだ」

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