第10話 死亡診断書
その後俺とマルコは怪しげな地下室でどんちゃん賑やかに夜を過ごした。アークは一度だけ地下に降りてきて俺たちには目もくれず今は
「悪いな。空けちまった。えらく酸っぱいな」
生産地アルザス。わざわざ書いてある。上層階では白ワインは名産品だが、生産地はここエルザス(アルザス呼びなんてしてやるか)しかあり得ないので製造会社の表記だけで十分なはずだ。
瓶詰元の住所が剥がれかけているが、上層階らしき住所は記載されていない。見たことも聞いたこともない地名。収穫年1999年。今はアルザス歴200年だ。ちょっと待てよ。まさか、これは旧世界歴1999年のことか?
そんな。ありえない。そんなものは存在しないはずだ。旧世界歴1999年と言えばちょうど旧世界が滅びアルザス歴元年に当たる……。このエルザスが始まる前の世界。
俺は今更このワインの価値を酔った頭で計算して青冷めていた。エルザスのワインでさえ一万シュランするものだ。二百年前のものになると何百万シュランするのだろうか。
こんな高いものを手の届く場所に置くはずがないという軽い気持ちと、上層階の人間に対するちょっと意地悪な気持ちで手に取ってしまったのだ。マルコ曰く、手の届く範囲に置くのが悪いと言っていたが。
「エルザスが建てられる前のワインなんて。存在していることが奇跡だ。金額は・・・・・・待て、当てる」
「億単位だよ」
「言うなよ。ってまじか。弁償の使用もない」
「いいよ。また見つかるから」
俺は口をあんぐり開けたまま、自分でも酒臭い息を吐いた。いや、よくよく考えると甘酸っぱかった時点で普通のワインじゃないと気づくべきだった。ワインの底にも濁りかすが溜まっていたみたいだし。二百年も経って酢になってしまっていたんだろう。
「待て、どっからこれを。上層階でも売ってるような代物じゃねぇだろ。国宝級だ。まさかとは思うが」
「
「まさか。どうやって」
一個人が
マルコなら一攫千金を狙ってワインの入手方法をしつこく聞くことだろう。だが、アークはワインのボトルを寂しげに見つめているのだ。
「そんな大事なものとは、本当に申し訳ない」
慌てて謝罪するが、アークは何事もなかったように一階に消えた。と思ったら、もう一本持ってきた。
「乾杯しよう。今日は姉の召天日だから」
「追悼ミサはしないのか?」
お邪魔だったのではないだろうか。いや、姉の亡くなった日に死体あさりをしているこいつもおかしいだろう。
「やらないけど、こうして君と飲む」
アークは必要最低限の話を好んだ。というよりはぐらかすのが好きなようだ。アークの姉の話題は一切出ない。何故亡くなったのか、どんな人だったのか。
それよりもこんな酔った状況で下層階への帰還方法をこともなげに話して聞かせてきた。リングには検問が敷かれ、下層階と繋ぐ唯一のエレベーターには上層階の人間であっても身分証の提示が求められている状況だという。
レースは、爆発の件もあり、テロと断定されていた。ダニー・モーレイのやつが本当に余計なことをしてくれた。
「アサルトライフルは、俺が貰うね。リングの検問で金属探知されるし、君の友達の治療費の替わり」
「で、俺たちの身分証は作ってくれるのか?」
「何甘えてるの? 何日もかかるし、俺は君たちとは早く『さようなら』したいんだ。下層階へは、まあ任せてよ、必ず送り届けるから」
俺もこいつと関わるのは願い下げだと願っていたところ、考えを改めたのかアークは神妙な口角の持ち上げ方をして俺に共感を求めるような口ぶりで言った。
「でも、厄介払いしたいのはね、問題を持ち込んだからだよ。もし、平和な状態。俺の言う平和って言うのはプライバシーを侵害されない状態のことだよ。それが維持された状態で君と初対面だったとしたら、君とは何だか気が合いそうだね」
「皮肉ってるのか?」
「君が医者に頼れない事情がほかにもあるんじゃないかなと思ってね。そのときは来てくれてもいいよ。箱庭にいるときなら会ってあげれるかな」
箱庭とは何のことだろうか。それに俺はやましいことなどない。この男の常連になどなってたまるか。
「断る。俺もお前に何か頼るようなまねはしたくない」
「別にかまわないよ。俺も診てあげたくなんかないし」
どっちなんだ。
その夜、俺は病室を一つずつあてがわれた。マルコはあのまま、地下室だ。俺も酔いが回っていたが、意識は何故か落としたくなかった。隣は例の少女の病室だが、歩く足音が聞こえる。あの少女は、部屋で一人徘徊しているのかもしれない。
そんなことを考えていると眼も落ち、意識が遠退いたり戻ったりした。きっと、安眠できるというとき、首に痛みが走った。瞼を持ち上げると、アークが残念という顔で微笑み、俺の首から注射器を抜いた。
「君たちを運ぶには死体になってもらわないとね」そんな不吉な言葉が聞こえ、意識は深淵へと落ちていった。
夜が明けた予感というのは、身体のどこかで感じるもので、眠っていても意識して夢を操ることができる時間帯は大抵、眠りの覚めそうな朝が多い。
酷い二日酔いのように身体はだるく、ここにいると分かっていてもどこにいるのか分からない、寝ていることは分かるが起きることができない状況だ。体が冷たい。動かない。
いっそ気持ちよすぎて死んだか、いや、指を動かそうという意思だけはどこか頭の隅に残っている。
案外楽に瞼は開くかに思えた。うっすら瞼を持ち上げると、まつげがばりばりと音をたてて、目やにでくっついたように上手く開かない。目元が冷たい。いや、瞼が凍っている。
全身に震えが走る。寒い。痛い。着ている服まで霜が降りて手足の痺れがある。段々気温が暑くなってきたように感じる。四十度ぐらいあるのではないか。かじかんだ足に自分の脈が音を立てて走る。恐る恐る首を動かし、火傷したように赤くなった肌から、水滴が滴るのを見届けた。俺は今の今まで凍っていた。
周りが、急に静まり返ったように思う。耳の感覚が戻らない。おまけに暗い部屋なのに眩しい。手探りで回りを調べると、寝かされていた台の隣のテーブルに死亡診断書とかかれていた紙が置いてあった。
俺の名前ではなく偽名にされている。死亡診断書のサインはアークだ。
しかしアークの姿はない。この場所は、がらんどうに広い部屋、棺桶のような台に寝かされている。緑に色づけされた床、台を囲むように床にめぐる、排水口。台からも、大きな配管が延びていて、隣の台と繋がっている。
台はざっと十ほどある。天井から、各、台を照らすように配置された手術用のライト。ここは解剖室だ。危うく解剖されるところだったのか。と、アークに怒りを覚えていると、その一つにマルコが寝かされているのが見えた。目があった。ウインクして俺に笑顔で手を振る。
「すげーな俺たち凍ってたよな」
マルコは、何に感動したのか、俺に熱く語る。
「いや、殺されかけたんだぞ」
「まあ、夜中に俺も注射されたとき、一発殴ってやったけどな」
俺は少し感心した。爆睡していたわけではなかったのか。
「そうか」
「そしたら、あいつの澄ました顔が一瞬、怒りやがって。でも何も言わねーで手を引っ込めやがって、おやすみ、だとよ」
なかなか、マルコもやるものだと思った。何にしてもここがどこの病院なのか確かめる必要がある。俺はマルコの足の状態を確認して、しばらく担いだ。
地下二階から階段で上がり、電動車椅子を調達してきた。途中で警備ロボットに出くわすこともなかったから、警備の薄い病院なのだろう。リング付近の病院か、もしかしたら下層階の病院か。
一階エントランスに出るとはっきりした。二十番ホール中央病院だ。下層階で、一番大きな病院だ。
「ダンちゃん、俺たち帰ってきたぞ!」
マルコが大声を出すので、すれ違った医師に注意された。注意で済んだのが幸いだ。死体として俺たちを下層階の病院に送り届けてくれたのか、アークは? だとしても、人を仮死状態のまま凍らせる技術はまだ確立されていない。アークは何者なんだ。
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