第16話 マルコの死

 イザークが俺に駆け寄って顎をしゃくった。


「早く行ってやれ」


 よろめいた一歩が駆け出した。腹ばいになって洞窟を削るように抜けた。エレベーターには転がり込んだ。下層階の人々からも、泥だらけになった俺が全力で走るので万引き犯のような目で見られた。


 身体はちぐはぐに動くのに、意識だけは前へ前へと進む。鉄の橋で足を滑らせた。


 マシンがないので大通りでタクシーを拾った。料金は適当に渡したのに、支払うべき本来の金額は覚えていた。


 マルコの病院は分かるし、部屋も分かるのに、看護師に部屋を二度も尋ねた。


 死体安置室という言葉が脳裏に反響した。


 汗がどっと額に押し寄せてきた。頭からフードをかぶったままだった。体温の上昇で曇ったゴーグルをやっと外した。部屋の温度で膨張したように真っ赤になった指がちぐはぐに動いた。


 今この瞬間、本当にマルコが横たわって、呼吸をしていないと想像したら、白い病棟が霞んだ。


 診察に来ている重症でもない患者たちが、じろじろ見てくるのが腹立たしかった。ロビーに座れと受付ロボットに言われた。医者がすぐに来たが、今度は促されても立てなかった。


 じとっと汗ばんだ手のひらをズボンで握りしめてふいた。窓もない暗い部屋にぼんやりとした灯りが僅かについている。白い布の下に誰かが永遠に眠っている。


 顔の見えるところまで足が動くより早く、恐る恐る首を伸ばした。


 色でも塗ったような青白い顔のそれは、マルコヴィッチに間違いなかった。


 まるで、死人だと思った。死人のふりをして、今にもわっと脅かしてきそうだ。


 そう、解剖室のときみたいにすぐにウインクしてみせるに違いない。俺はすぐに目をそらしそうになるのをこらえた。そしたら、興奮とともに否定する自分の声が怯えた。


 マルコにすがりつきたいと腕を伸ばすと自分の悲鳴なのか、怒号なのか遠くで聞こえた。手をまさぐると、氷の冷たさが生きていてほしいと願う俺を拒んだ。何とかして、暖めてやりたいと何度も両手で握り直した。


 マルコは、うっすら笑っているようにも見えたが、青いまぶたは長いまつげを閉ざしたままだ。顎から下の傷を見ると、あの事件の後、入院していたマルコの姿が思い浮かんで、あのときと同じ疲労感を感じた。


 何かできそうで何もできないあの感覚。違うのは、今回ばかりはもう既に延命装置も外され、言葉も介さない。


「何で、マルコが発症するんだよ!」


 むせび泣く俺に愛想をつかしたのか、医者はいなくなった。身内でもないのに、片時も離れない俺を不気味に思ったのか、知り合いも遠慮して部屋に近づかなかった。


 生きていたマルコと死んでいるマルコが、とても同一のものであると認識できない。だから、何故自分でも泣いているのか分からない。ガキみたいに混乱していた。


 こんなに唐突に、数時間の後に人は亡くなり、俺を置いていくのかと。感情は時に言葉で表せない。悲しみとは痛みだ。涙でも洗い流しきれない痛みがあるのか。


 俺のすすり泣きが止んだときには、声をかけていく人もいたが、何を言われたのかまるで、分からない。俺はああ、とか、うんとか頷いて、それにマルコの相づちまで聞こえる具合だった。マルコにかかったシーツが揺れはしないかと振り返った。そこに音はなかった。

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