第3話 レース開始

 レース開始の電子ラッパが鳴った。青と白のチェッカーフラッグが大きくはためく。


 マルコがアクセルを踏み込むとジリジリしていたエンジン音から甲高い排気音に変わる。車体のサスペンションがふわりと浮くと同時に上から重力がかかる。俺たちのマシンは重低音から高音域へと音を奏でるのが自慢だ。ほかのマシンも爆音と共に次々浮遊していく。


 もう足下は、下層階の何百メタリの高さがあるか分からない。底がぽっかり穴を開けている。落ちたらおしまいだが、下層階に住んでいる人間は、高さに対する恐怖心がほとんどない。


 ただ、最下層は排気ガスが沈殿し人はほとんど寄りつかない。立ち入り禁止にならないのは、上層階の連中は下層階の危険な場所で人が死んでも何とも思っていないからだ。下層階は、見放された階層だ。


 マシンは一台も落ちることがない。ぐんぐん昇る。途中、幾重にも折り重なった配管と並走する。配管に沿って上を目指す。読み通り前のマシンの後ろにつけた。地上を走るときよりスリップストリームに乗るのは難しい。何故なら左右のコース取りだけでなく、上下の位置関係も関わってくるからだ。一台、二台と軽々追い抜いた。


 道は常に配管沿いにある。空気を送る配管。送電線。水道管。下水管。ゴミ処理管。もっぱらゴミは、上層階のゴミが管の中を風で送られてくる。配管を昇りきると、配管が天井を形成している。


 下層階のホールは上層階へと繋がり、外界エクステリユを隔てる壁で覆われ二重構造になっている。内壁と外壁の間はわずか三メタリで主に配管と、ホールに収まりきらなかった配線が敷かれている。


 ホールの内壁と外壁の間に飛び出ると、ライトすらない狭い空間となり、猛スピードで走り抜けるのは危険な場所になる。ただし、ここは執行シャ警察ルフの監視の目が届かない唯一の場所だ。


 天井の配管の下を逆さまになって並走していると、ここで、下から突き上げるように何台かのマシンが上のマシンにタックルをかけた。ぶつかられたマシンは、配管と接触し水道管や、ガス管を破裂させた。中には汚物まみれになった車体もあった。それが、俺たちのマシンだ。


「うっわ。臭いが入ってきそうだ」


「最悪だ。まだ、誰も銃を使わないだけましだったが。きっと上層階のために弾を取っておいてるんだろう」


 配管にかろうじてできていた隙間から上層階へと続く通気口沿いを縫うように通る。


「くっそ。こっから下水の滝だってのに、もうすでにドロドロってどういうこった」


 マシンのライトが頼りなのだが、光で照らされるのは上空から、細かい水しぶきとなって降ってくる汚物だ。その昔、レースが開催されたときに出来た穴から漏れ出ているというが、小さい穴のため上層階の配管管理センターも気づかないらしい。それが、複数あるので、こうやって垂れ流しなわけだ。配管は継ぎ足されて、古くなった配管はそのまま残っていく。


 ここで、マシンはみんな縦に並んだ。単純に汚物に濡れたくないからだ。だが、俺たちは一度汚れたのだから気にする必要がない。また磨いてやればいいだけのこと。まさかの十組抜きだ。マルコが奇声を上げながら中指を突き上げる。


「で、シンクロ具合はどうなんだ?」


「絶好調だぜ。ハンドルも手に吸いつくし。アクセルなんて俺の足そのものだ」


 俺は後続車をちらりと見やった。無駄な動きのない連中ばかりだ。


「今回のレース。シンクロ者はざっと五人ほどだ。いつもより多い」


 シンクロ者が有利なのは、マシンテクニックが上がるばかりではない。自分の体力と引き換えにマシンに付加をかけ、マシンがオーバーヒートするような無謀な運転も可能にすることができる。


「みんな上層階で執行シャ警察ルフを警戒してるんだな」


「俺はもう飛ばすぜ」


 マシンは唸り、俺たちを座席から押し出さんばかりに突き上げ加速した。マルコの思い一つで、最高速度まで達する。一気に一位と並んだ。一位はなんと、ダニー・モーレイだ。ダニーはシンクロの能力はない。なのに、こんなに早いのはどういうことだ。助手席の男は下層階では見ない顔だ。一体誰とペアを組んでいるんだ。


 しかも、運転手でもないのにマシンとシンクロしている。運転するダニーの手にそっと指を添えているだけだが、運転手は一人というルールを無視している。


「ずるいぞ」


 ダニー・モーレイはカウボーイハットをひょいと持ち上げてこちらに挨拶した。


「あんまり、脅すんじゃねぇぞ。こんなレース、賞金が高額でなけりゃ参加なんてしねぇよ。シャルフに通報してすぐに潰してもらうことだってできるんだ」


 窓を開けてドライバーを投げずに入られなかった。ポケットに大小のドライバーがある。予備もな。


「恥じを知れ。マシン同士で潰しあうのは構わないが。レースそのものを潰してみろ。参加してない奴らまで下層階だからって理由で、何されるか分からない」


「ほざいてろよ。優勝するのはこの俺だ。サリュー(じゃあな)」


 ダニー・モーレイは下層階人のくせに上層階特融の気取ったランセス語を用いた。


「ウィツァ語で話せバカ」


 マルコが怒鳴るのと同時に、ダニー・モーレイのマシンが一気に火を噴いた。浮遊モード強に切り替えて配管沿いではなく自由飛行を始めた。


 いかさま野郎にもほどがある。しかも、レースを告発するなんて脅しやがった。俺たちだけでなく下層階そのものが危険にさらされると理解できないのか。


 配電室が見えてきた。ここまで来ると下層階と上層階を隔てる空間『リング』になる。下層階のホールは全てここで一束に集結する。ホールはリングで管理され、ホールから上層階への行き来を閉ざすことができる弁がある。さながら血管の弁のようなものだ。


 リングには上層階に違法に出稼ぎする人間がいないか見張る機能があるばかりでなく、そもそもこのエルザスから外界エクステリユへ出ていこうとする人間を見張る外輪がある。それがエルザスを一周する展望台でリング状なのだ。


 配電室の外についている監視カメラに映らないように素早く飛び越える。一応マシンはレース中、ジャミングを搭載していたので、監視カメラには妨害電波で顔が映らなかったはずだ。ほかのレーサーも同じだ。


 だが、映像の乱れで通報されるかもしれない。実際に執行シャ警察ルフが到着するまで数分ある。それまでに視界から消えていればいいだけのことだ。ダニー・モーレイに引き離されまいとマルコが歯を食いしばってエンジンに念を送る。


 マルコの場合全体重でマシンに乗り上げ、フロントガラスに額を何度もぶつけている。リングを通過した。下にはみごとなリングの展望台。ドーナツ状のその中に何百ものホールがチューブ状になっている。


 全て上層階に向うエレベーターだ。このエレベーターはガラス張りで俺たちが丸見えだ。いよいよ通報される。本物の太陽の光で目が眩んだ。ここは、青白い灯りでいっぱいだ。甘そうな、そしてつかみたくなる綿あめ状の雲と、水よりも澄んだ本物の群青の空が見える。光が俺たちを飲み込んだ。食われる。


 エレベーターを追い越し、上層階へ飛び出る。目が焼ける。ライトではない、熱を持った光。太陽だ。色は何よりも白く突き抜けて美しい。肌寒かった下層階のことが吹き飛ぶ。


 上層階の人間は絵で太陽を描くとき黄色で色を塗り、空は青で塗るというのを思い出した。俺たち下層階の人間はライトと同じ白色で描く。空は黄色だったり灰色だったり黒だったり。


 俺たちは叫んだ。何度でも叫んだ。


 上層階には何度か来たことがあるが、空を自由に飛ぶことはレース以外ではほとんどない。ビル郡の合間から上層階の空、ドーム状のガラスが見える。強度を保つために張られた黒い鋼鉄の網目がガラスを覆っている。蜘蛛の巣の中というよりは、どこか肋骨のような骨格を持つ空だ。分断された太陽光が地上に影を落としている。


 エルザスの面積の七割を占める無計画に建てられた下層階をとりまとめる上層階とあって、いびつな二十のホールをレンズのように覆うためにこうしたデザインにして微調整しているのだろう。


 トラックだ。間一髪で避ける。向こうも浮遊しているとはいえ、一般道は交通量が多くてまずい。信号が、赤だ。目立つが、高度を上げる。浮遊モードはここから強だ。高度は維持しなければならない。ビルの谷間を抜け、眼下にビル群、マンション、住宅街が小さなブロックになるまで上昇し続ける。

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