ノアの楽園に人形の眼差しを

影津

第一章 違法レース

第1話 違法レース

 下層階にこもった黒い排ガスが観客の熱気に煽られて上層階へと続く、下層階の筒状の居住区『ホール』の継ぎはぎだらけの壁を這うように立ち昇るのを、赤々とサーチライトが照らした。


 右も、左も上からも常軌を逸した歓声は、どの飛行車マシンに向けられたものなのか、はたまた、どのレーサーに向けての喝采なのかは分からないが、間違いなく、そのどれか一つくらいは、俺たちの背中に賭けている。


 マシンは無骨なデザインのものが多く角張っていて二百年より以前はただ単に車と呼ばれていたものを無重力装置で浮かせたものだ。どのマシンもマフラーを三本から四本つけてレース用に改造してある。


「見ろよダンちゃん、あそこに、ブロンドの可愛い女の子がいるぜ」


 マルコヴィッチは、まだメンテナンス中の車体の窓から観客席側へ、身を乗り出して手を振る。こんな大勝負のときにまで、のん気なことには正直呆れる。青い髪をいつも以上に逆立てて今日は、決めてきたとか言っていたはずなのだが。


「ほんと、お前は勝つ気あるのか。あの、ダニーの野郎が細工しやがったせいで、俺らだけパンク修理とか、笑えねぇ状況だろう」


 隣にぬけぬけと駐車しているのが、カウボーイハットをかぶったダニー・モーレイ。仲間と太い腕を伸ばして観客席に何やら嬉しそうに合図を送っている。


「車椅子で来てるから言ったんだよ、ダニー」


 俺はゴーグルを外して、額にかかった汗をぬぐってマルコをなじった。


「ダニーはやめろ、隣のバカと一緒にするな」


「はいはい、ダンちゃん」


 困ったことに厄介者のダニー・モーレイことダニエルと、俺は同じ名前だ。だから、マルコには幼い頃から俺のことをダンと呼ぶように言っている。


 幼少期のマルコは俺の兄貴分みたいなもんだったが、今は俺の方がマルコの面倒を見ている。誰とでも喧嘩するのは相変わらずで、生死を彷徨った事件の後も俺に殴りかかってきた。


 マルコの顎下から首を通り鎖骨まである大きくえぐれた傷はあの事件のときのものだが、顎の傷は俺が反撃したときについたものだ。


 今から始まろうとしているのは、下層階はじまって以来の過去最大の違法レース。上層階の人間も下層階から続々とマシンが飛び出てきたら度肝を抜くだろう。俺たちも捕まるリスクがあるが、観客も同罪だ。


 ある程度捕まる覚悟のある大人ばかりが集まっていると思っていたが、幼い子供も何人か紛れ込んでいる。顔なじみもいるが、どいつもこいつも、逃げ道だって、ある程度心得ている腕白ばかりだ。車椅子でこの人混みだと、いざってときには捕まるリスクが高まる。


「双眼鏡は?」


「ほらよ」


 車椅子の少女は真っ赤なドレスを身に着けている。下層階であの格好はあの年で身売りでもされたか、娼婦か。


「あんなのが趣味なのか?」


「かわいいだろ?」


「ま、俺たちを応援はしてないだろうな」


「問題はな、今度こそ一位をかっさらって、ファンをつけんだよ。見ろよ。観客一人一人の顔なんてここからじゃ遠くて見えねぇがな。俺にはどいつもこいつも、俺たちに旗振ってるように見えるぞ」


「シンクロできるくせに負けてばっかのマルコヴィッチ!」


 観客席の悪ガキに罵倒された。シンクロとは、レーサーにとって今や必須のスキルだ。マルコは俺と違って、マシンと意思疎通ができる。というか、乗りこなすことが出来るというべきか。


 マシンをシンクロ能力で無人のまま会場に運び込むこともできるし、多くのレーサーが乗らずにマシンとやってくる。実際レースにはマシンに乗る必要さえないとも言えるこの能力だが、乗ったときのほうがコントロールがいいし、ルール上、やはり乗ることが義務づけられている。


 この人工都市エルザスには、さまざまな機械と同調または、機械の特徴性質を自身に付与することができるシンクロ能力が発見されているが、俺には何のシンクロ能力もないので、こうして技師としてマルコのサポートをしている。


「うっるせぇ、黙ってろ」


 マルコが、車からわざわざ降りてきて俺の工具がたくさん詰まったズボンのポケットからドライバーを盗んで投げつけた。遠くて悪がきには届かなかったが、隣のダニーのボンネットに当たったので、ダニー・モーレイが憎らしげに笑った。俺たちがやけになってると思っているようだ。俺の心配事はドライバーの行方だけだ。


「なんだ、どうせ当ててやるなら、塗装ぐらい剥がしてやればいいのに。後で回収してきてくれよ」


「どいつもこいつも、馬鹿にしてやがる。ペペロン食うぞ。ペペロン」といいつつマルコは煙草をふかす。ペペロンチーノ味の煙草は、いかがなものなのか。


 試合開始まで三十分をきったとのアナウンスが入った。


「マルコ、時間がないな。試合が早まったみたいだ」


 三十分前のアナウンスは、毎回ダミーだ。もし万が一、上層階の連中が違法レースを取り締まりにきてもレースができるように開始時間十分前を示している。


「くそ、昼飯食う時間なかったな。ま、煙草で吸ったからいいか。つーか、執行シャ警察ルフの連中も毎回間抜けだよな。こんなに大騒ぎしても誰も気づかねぇんだから」


 執行シャ警察ルフは軍警察だ。反社会的な市民への攻撃も持さない。その構成員は主に権力階級である上層階に住む人間だ。


「今回は、甘くないぞ。コースを確認したか」


「もう、目が腐るほど確認したって」


 マルコは、サングラスの下から指を突っ込んで長いまつげをぼりぼりかいた。少し垂れた目が、不満そうにこちらを見下ろした。


「下層階のルートは、配管密集地区の下、下水の滝、と代わり映えしないが、配電室から、上層階エレベーターと並走するところから、上層階の警備が厳しくなる。ましてや、最後の上層階住宅地区、上層階北のツインタワー『ラ・ドゥ・トゥール・ルェフエ』がゴールときてる。左右どちらかのタワーに手でタッチしたら優勝だが。まず、絶対に見つかる。逃げ切っても、上層階で指名手配される」


「でも、勝ったら俺たちは下層階の英雄だ」


 マルコは声を張り上げて、群集に向ってガッツポーズを決める。淀みのない瞳は、これから先のことよりも、今日この日に名前を刻むことに意義を見出していた。観客もマルコに惜しみない声援を投げかけた。


「下層階じゃな」


 太陽代わりのライトを浴びた黒煙が白に染まって立ち昇るのを見上げていると、『ホール』の鉛色の空はこれから先何年も俺たちをここに缶詰めにするに違いないと思った。


 だが、マルコとならこうしてレースでどこへでもいけるという不思議な自信がある。

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