第五章 シンクロ
第23話 患者の少女ニノン
青い光が線となって俺を導く。身体は軽い。どこまでもどこまでも記憶としての俺が、線にそって電流になっていく。脳裏に浮かんだのは、いくつかの数字。意識の先に光が見えたとたん、その光は途絶え、がらんどうに瞳が見開かれた。
湿った空気に薬品の臭いが混じっている。ふと身体を起こそうと、床に手をつくとコンクリートの冷たさと、長時間横たわっていたのか指の痺れを感じた。高い場所からでも落ちたのか、床に面している右腕と右足が痛んだ。
俺はさっきの閃光をまぶたに思い描いた。ふと鮮明に数字が想起された。あの数字はポーターの番号だ。確か医師から教えられたアークに連絡できる唯一の番号。
息苦しくなって咳込んだ。額が汗ばんで走る以上に激しく運動した後みたいだ。滴る汗がコンクリートに落ちた。目線を上げると、暗い廊下の先に手術室が見えた。反対側には、病室が並ぶ。この場所は見覚えがある。まさか、嘘だろう。念願が叶ったのかアークの家の地下に着いていた。
呼吸の乱れや汗、脈拍の上昇でさっきの場所からこの家まで肉体が駆けたことを確認できた。俺はあの距離を、下層階から上層階までを一秒で走ったのだ。でも、どこをどうやって移動してきたんだ。それも、下層階から上層階へ。
ま、まさか、俺はシンクロ能力者にでもなったのか。
ここ何年も自分にはその才能はないと思っていたのに。だったら、一体何の機械とシンクロしているのだろう。マルコのように乗り物とシンクロしていればすぐにそれと分かりそうなものだが。俺には何かに乗った記憶はない。
いや、何かの上を走った。中というべきかもしれないが。眩しくて、青白い何かのライン上だ。まだ状況を飲み込めないが、
手術室は灯りがついていないが、病室はほの暗い白い灯りが漏れている。患者の少女がいた部屋だ。
アークに先に会うべきか、それともあの少女の治療中なのか、カーテンが揺れることを期待して聞き耳を立てたが、足音は愚か、ベッドのきしむ音、衣擦れの音さえもない。電灯のじりじりという音が聞こえるようだ。隠れていても仕方がない。俺だって不法侵入したくてしたわけじゃない。すでにお尋ね者となった今、怖いものなんてない。
ノックをしたが返事がないし、少女だけかもしれないので、そっと扉に手をそえて開けた。
そこには想像した通りに少女がいた。ただし少女が俺の存在には一切構わず、瞬き一つせず、うっすら口を開けて天井に微笑んでいるのを見て、せっかく生えていた心臓の毛を引き抜かれた。
もう少しで情けない声を出して逃げ帰るところだった。傍にあった棚の花瓶のスズランの花にぶつかり、小粒な花の一つが柄ごと折れて床に落ちた。振動を感知したのか、照明が温かみの帯びた暖色に変わった。
ふんわりとした少女のボブの髪が赤い光を帯びてベッドにのめりこむようになびいている。笑っていたのは気のせいだったか。少女は相変わらず俺にその黒い透き通った目を合わさないが、口角も下がっておりまぶたは力がぬけた状態で額にしわも寄りそうだったので、はじめて会ったときの印象は覆らなかった。
あの日と同じく少女の魂がここにない。
彼女は喜怒哀楽を失ってただ、感じないことが幸福。なんて、空想をめぐらせていると、少女は黒目を動かし、視界の隅で床に落ちた花に視線を落とした。目だけで行動を示したことに驚いた。睨んでいるが、目玉がとろんとしていて単純に花を追っているだけだと気づいた。
目が感情を訴えないことに驚いた。まるでただのカメラの動きだ。俺は慌てて花の傍にぶっきらぼうに立つ足を引っ込めた。
「わ、悪い。驚かせたな」
スズランの花のやり場に困って拾い上げて少女の顔の前に持っていく。やっと少女は俺の手を確認し、小さな指で花を受け取った。そのまま永眠するようにまぶたを閉じてしまったので、俺はそっと部屋を出ようとしたら、消え入る声で少女が呟いた。
「お兄ちゃんは?」
吐息とともに頬に少しピンクの赤みが差して、さながら今しがた息を吹き返した人形だ。紫色の唇が震えている。今の今まで少女が会話できる状態にあると思い至らなかったのは、不思議ではあったがしごく当然のことだった。
「お、俺はその」
「お兄ちゃんはどこ?」
少女の潤った目が開き、天井から俺に視線を泳がせ、俺ではない誰かを探して首を僅かに手前に傾けるまで、お兄ちゃんがアークのことを指すとは、なかなか合点がいかなかった。少女は見回すでもなく、俺の顔しかないことでほかに誰もいないと悟るとまた天井が自分の見つめるべき場所と、天井についた一点の染みを凝視しはじめる。
「あなたのお友だちは?」
少女ははじめて控えめに口元こそはにかんだが、瞳は緩むことを知らず、声も上げられずに慟哭して、その天井に全ての答えが眠っていると、見つめ続けている。
「会ってたのか? マルコと」
少女の存在をはじめて知ったとき、少女の方でも俺とマルコを知ったということだろうか。
「あなたと、あなたのお友だちが、冷凍されたところを見た」
俺たちがアークに冷凍処理されたところを彼女が見ていたというのなら、病室から出ることが許されているのだろうか。彼女に問い詰めてみたいことも数多くあるが、彼女やアークとの出会いのすぐ後だ、マルコが死んだのは。
何かの巡り会わせなのか、ちまたでは運命なんて言葉で片づけられるかもしれないが、虚しさや悲しみに必然や、なるべくしてなったということは納得がいかない。
「俺の友達は、死んだんだ。殺された」
こんなことを少女に言っても仕方がないのだが、彼女なら何かしらの同情が得られるんじゃないかという期待が作用して俺は、石みたいな本音を零した。吐き捨てたら軽い石ころの音がすればいいのに。
少女は、喜怒哀楽が上手く現せないのか、口元がやがて硬直し無表情になった。少女にいらない心配をかけさせたかもしれない。
「お前、名前は?」
「お兄ちゃんはニノンって呼ぶ」
無感動な受付ロボットが話すように、その声にアークに対する兄弟の親しみは感じられない。
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