第51話 ノア
「何いちいち驚いてんの。あたしたちはUコードシステムそのものとしてお互いにシンクロしてるって何度言ったら分かるのかしら」
「ニノンから出てけよ。二百年もアークが守ってたんだぞ」
「あらー、そんな命令口調でいいの? そうだ、あの男の前でこの女の顔を切り裂いてやるってのはどう?」
白のワンピースをはためかせてはだしで駆ける。逃がしてたまるか。そのとき、がくんと膝を崩してニノンが倒れた。俺は慌てて抱き起した。苦しそうな喘ぎ声を上げる。アークとフローラ本人が今まさに戦っているのだろうか。
「おい、ニノン頼む。戻ってくれ」
ニノンの瞳が閉じられて意識も遠のく。どうやらニノンの身体との通信は途絶えたようだ。アークとフローラのいる階をしらみつぶしで探した。タワーのど真ん中にぽっかり空いた穴から剥き出しのエレベータや、トイレ、会議室や、オフィスが見える。砂ぼこりや、氷が見えないかと目を凝らす。
階下に氷の滑り台みたいなのがある。アークが受け身に使ったのだろうか。氷の滑り台の付近は、五十階だった。床に血が滴り落ちている。アークの血だろうか。歩を進めようかというときフローラの悲痛な断末魔が聞こえた。停電したフロアの奥から返り血を浴びて真っ赤に染まった金髪が見えた。手にした氷の剣は透明感が失せて赤黒く濁ってしまっている。
「アーク無事だったか」
心配には全く及ばなかったようだ。白衣の返り血はほとんどフローラのものらしい。手にブロンドの髪のフローラの首が握られていたので、俺は思わず飛びのいた。
「首を斬り落としたのか」
「弱点はここしかなかったんだよ。彼女どこまでが機械の肉体だったのか分からなかったし、悟られないように工夫してたみたいだしね。でも彼女が口を頭を反らして開けたときに、やっぱり背後から首を切断するしかないと思ってね。機械も人間も神経回路だけは首に集まるからね」
ついでにフローラの首が革命に必要かどうか聞いてきた。俺たちはそこまで野蛮じゃないぞ。アークはフローラの頭を捨てるかと思ったが、離れてしまった胴体にお情けで寄り添うように置いてきた。
血のついた氷の剣は手品のように水になって弾けた。なぜか無言で俺には目もくれなかった。ニノンのいる場所に行くべきだと俺も思った。アークを連れてニノンを安全な場所に置いてきた八十階に戻った。さすがに、今日は飛びすぎて座り込んだ。ニノンは目を開けて座り込んでいたが、アークの姿を見ても何も話さなかった。
ただ、驚いたことに、目元に涙こそなかったものの、水が伝った跡がある。俺もアークもいたく心に留めずにはいられなかった。
ウエストタワーの窓の外では青白い雲の上をそっと朝日がなでるのが見えてきた。なるほど上層階の太陽は確かに黄色だ。雲の凹凸をいくつもの筋になってこちらに光を届けてくる。
ニノンは無感動ではない。生きた存在であると。
医者がそうするようにアークは腕に埋め込んだ時計を見て、何かを計らっている。
「おい、Uコードシステムだけど。このままにしておくわけにはいかない。何か方法は――」
アークは俺の喉を締めるそぶりを見せて最後まで言わせなかった。方法はないのだ。ニノンはUコードシステムそのものだ。指示を出す人間がいなくなった今、意図的に人が殺されることはないだろうが、この瞬間も寿命や事故で死ぬ人がいる場合、ペアリングの外れていない人間は
アークの指が俺ののどぼとけから離れたところで、再び彼女を見やった。彼女はやはり笑ったり泣いたりしていなかった。ただそこにいるだけだ。これからもそう。彼女は、自分で自分の生を謳歌することはできない。彼女は自分で食事をすることができても、自分で食事をしたいという意思がないし、満足感や喜びも感じていない。
もしからしたら味そのものも。アークは表情にこそ出さないが嘆いている。人間を人間として生かしていないことにはじめから罪悪感がなかったわけではないのだ。皮肉なことにアークに潮時だと告げたのはUコードシステムそのものなのだ。俺は甘かった。ニノンを救うだの言っておきながら救えない。ここまで革命だの言っておきながらニノンを殺すこともできない。
ニノンよりも低く座り込んだアークはポケットから一本の注射器を取り出してニノンの首に刺した。それが安楽死の薬であることは何となく察しがついた。普段からアークはいつかこんな日が来ることを予期していたのだろうか。
自らでニノンの命を終わらせることを。ニノンは少し首をかしげただけだ。彼女の埃まみれの髪をアークが優しく払う。本来の美しい銀髪が覗き、アークがその髪と額に音のしないキスをする。
彼女の前髪に上からかぶさったアークの金髪は濡れてしおれて、うち震えている。アークの色違いの腕、移植の傷だらけの腕がニノンの背中を包んでいる。彼女の小さな指をさすって彼女が目を閉じるまで待ち続けている。
俺は一番辛い仕事をアークにさせてしまった。俺の弱さをアークはさぞ憎んでいるだろう。泣いてはいけない立場でありながら目頭が熱くなった。
指を一本ずつ引きはがすようにニノンから離れたアーク。泣いていたのかは分からない。アークは一滴も涙というものを見せない。心なしか前髪で目を隠している。俺のことを殴ってくれたほうがましだった。
太陽はもうその温もりを窓越しに伝えてきた。雲が太陽に追われて流されていく。俺にできることはせいぜい彼らを運ぶことだけだった。
アークによってニノンの亡骸は下層階で火葬された。もう復活の必要はないという強い意思表示だったのだろう。時間の経過はあっという間で、彼女の骨はマルコと同じ集団墓地に埋葬されたときには正午を回っていた。
「君と偶然出会えてよかったよ。俺は誰にも何も話したがらないから。最期までニノンと二人っきりだと思ってたからね」
「何だよ急に」
「本来ならもっと早くこうするべきだったんだ。俺たちは長く生き過ぎた」
「おい、待てよ」
まるでアークも死ぬような言いようだ。こいつならやりかねない。
「姉さんをずっと僕の思い出につきあわせてた。元々、昇天日は過ぎてたんだ。姉さんとはここで別れるよ」
「俺の方こそすまない。俺が巻き込んでばかりだったし。俺は何もできなかった。ニノンを救うとか、夢ばかり見てた。力もなかった」
アークは何も言わなかった。街頭のモニターがアンヌ・フローラ急死の速報を流している。政権交代のニュースも飛び出ている。下層階の住民が上層階に押しかけており、上層階エレベーター休止のニュースも流れた。
二人で無言で歩き続けていると、モニターを見ようと人でもみくちゃにされた。その拍子にアークの姿は見えなくなった。
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