悪魔と聖女の間であえぐ普通の女
留置所内でマザーが跪いて祈った位置は偶然なのだろうか?
雪乃はいぶかった。
ちょうど陽の光が彼女の背後に射し、崇高な意志を感じるような絶妙な場所。あれは、あるいは計算づくなのか?
灰色の廊下を阿久道とマザーの背後を歩きながら、雪乃は考えていた。マザーはゆったりした歩き方で、驚いたことに、その歩調に阿久道が合わせている。
「国松師長さまは」と、いつもの落ち着いた声でマザーが言った。「なにかを懸命に我慢しているように見えましたね」
「なかなか手強い。師長が出頭する数時間前、私は向山准教授に会っている。奴の研究室じゃなく病棟で会い、娘の出生について聞いた」
雪乃も、そこは引っかかっていた。実は雪乃と阿久道は被害者の夫、向山に会いにいったばかりだった。国松師長が自首してきたのは、すぐその後だ。
それにしても、なぜだろう? 阿久道はマザーに破格の待遇で接している。捜査上の秘密や手配、阿久道が他人のために動くのは珍しい。いや、そもそも他人という認識が彼にはないと思う。
「そうでございますか」
「卵子提供についての法整備が日本は遅れている。端的に言えば、このことが今回の事件とどう結びついているのかわからない。また、全く関係ないのかもしれない」
「恐ろしいことですよ」
「なぜ、師長が麻衣子の母親だと」
マザーは歩みを止めた。
「麻衣子さんのお母様ですが」
「……」
「これは確信を持っているわけではないのですよ。体外受精されたのなら卵子提供者がいると存じまして。そして、師長さんが自首された。それでお会いしたかったのです」
「なるほど」と、阿久道が言った。
廊下の突き当たり、シスター島原が待つ部屋はすぐそこだった。
「同じ思いですな」と、彼は独り言のように呟いた。
「なにか思い当たることでもございますでしょうか?」
「先ほども話したが、向山、被害者の夫を大学病院にたずねた。ある細胞学の権威から聞いた実験的方法があってな。その時に、卵子が必要だという話も聞いたのだ」
「そうでございますか」
「その娘の生まれについて聞いたのが、病院の受付でね。やつ、大声で怒鳴りだした」
マザーが心を見透かすような微笑みを浮かべた。なんだか怖いと雪乃は思った。この二人は正反対の位置にいるが、極端という意味では似ている。
「どういう関係があるのかとか、怒鳴りだしてね。そこにいるすべての看護師やスタッフから患者までが振りかえった。きわめて愉快だった」と、彼は言った。
「まあ、愉快でいらしたの。お人が悪いですよ」
「泡を吹いて怒鳴っており、この声を誰も聞き逃すことはなかったろうな。それこそ病院中の噂になっただろう」
「それは、わたくしも見たかったと存じます」
「マザー」
「なんでしょうか」
「お人が悪いですな」
師長が自首してきたのは、その日の午後七時だと教えたうえで、阿久道が例の怖い顔でニッと笑った。
「ところで、今回の事件に関わる理由は、なにかね?」
「なぜでしょうね」
「マザーは、そういう方ですから!」と、廊下に出て来たシスター島原が、ここは私が援護とばかりに声をはさんだ。
「シスター島原」
「あらあら、失礼いたしました。お口がでしゃばりました」
マザーは、背の高い阿久道を見上げてうっすらと口元をゆるめた。
「でも。マザーはそういう方なんです、いつもお人のために働いて」
「ほお、それは人として希少価値がある」
「阿久道さま、これは母の影響ですよ。幼いころから母から言われていたことがございます」
彼女は昔を思いだすように、一言一言を丁寧に答えた。
「母は、いつもお人のために尽くしていました。家族はもちろん使用人が病気になると母が看病しました。困っている方がいるとお助けしていました。そんな風に、わたくしは母から、お人のために働きなさい、と教えられて育ちました。お人のために働くことは、結局は自分のためになるのですよという。わたくしは、その母の言葉をかみしめて生きて参りました」
阿久道には全く理解できない感覚だろうと雪乃は思った。
「ほお、いいことか、それが」
「いいとか悪いということではないと思います」
「善意も思う通りにはならない。そういうことが多い世の中だ」
「そうですとも。お人は複雑です。いろいろ悔しい思いをしたこともございます。お人のためと思っても、お相手に通じないこともありますし、苦労を抱えたこともございました」
「まあ、そうでしょうな」
「でも、それでも、これまで頑張ってきたことを、わたくしは誇りに思っております。いつか、わたくしが天に召されたときに、……それも、この年齢ですから、そう遠いことでもないでしょうね……。イエスさまと父母の前で自分に恥じる事なく、まっすぐと対峙できることを幸せに思っております」
阿久道は返事をしなかった。
「阿久道さま、お困りになった時にはイエス様にお願いするのですよ。そうすれば、イエス様はお願いをお聞き届けくださり、いつも最良の解決策を示してくださいます」
阿久道が頭を掻いていた。
「警察が掴んでいない、なにかをご存知か?」と、彼は聞いた。
「いいえ」
即答だった。
「いいですか。たとえ修道女といえども、事件の証拠を隠せば、罪に問われる。たとえ、マザー天神ノ宮といえどもだ」
「わたくしに罪を問えるのは神さまだけです」
「まったく……、あなたは食えない」
「阿久道警視正」と、マザーが言った。「あなたも、わたくしに全てを話されているわけではないでしょう。隠されていることもおありだろうと思っておりますよ」
「私は警察の人間だ。立場がちがう」
「わたくしは神に使える身です」
「違うように思えるが」
マザーがほほえみ、まるで、いい子ねとでもいうように阿久道の腕をぽんぽんと叩いた。雪乃は息をのんだ。阿久道が怒鳴ると思ったのだ。
「ところでね、阿久道さん。珍しいお名前ね。わたくしの古くから存じ上げてる方に、阿久道詠子さんという方がおられて、著名な陶芸家でございますけどね。お孫さんでしょうか」
え? まさか、この二人、知り合いなの? 陶芸家の阿久道詠子って、あの美術館にも作品がある、あの? 著名な。ま、まさかね。
「そうだが」
え? えええ? 阿久道警視正のことを全く知らないと、雪乃ははじめて後悔した。
「お祖母さまは、お元気でらっしゃいますか?」
しかし、彼は何も言わなかった。ただ、黒い修道服に身をつつんだマザーとシスター島原の姿を奇妙なモノでも見るように観察していた。
(つづく)
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