美しい音大生の男と悪魔の憑依
一ノ瀬は男に写真を見せながら、その様子を観察した。
「彼女だけど、名前を知ってる?」
「いえ、静かな方で、いつも僕のバイオリンを聞いていくだけなんで」
「そうか。向山汐緒という名前だよ」
「向山……」
彼はなにか思い出そうとするかのように、首を傾げた。
「聖カタリナータって学校の聖堂裏で、他殺体で発見された」
「あっ」と、小さく叫んだ。
「知ってる?」
「はい、それ、ニュースで見ました。まさか、そんな、ちょっと似ているとは思ったけど、まさか」
驚きの表情は演技には見えない。やはりシロかと彼は落胆した。
「おじさんのほうは」
話をいきなり振られて、年配の男は驚いた顔をして何も言えない。
「彼女のことで、気付いたことない?」
「あの女の人が。それは……。いつもあのカウンターに座って、それで一時間くらい、いろいろ買っては黙って座っていたんですよ。特にこいつが一人の時に来たらしくて、ファンが増えたなと、からかっていたんですがね」
「それで、これは、取りあえず一般的な質問なんだが、気を悪くしないでよ。十一月二十九日の夜はどこにいた?」
「先月の……。二十九日の夜?」
「珍しい嵐の夜だから思い出すのは簡単だけどね」
青年は考え込んで顔をしかめた。記憶を洗っているのだろう。
「夜は、ここです」
「そうだったな」と年配の男が言った。「普段、私は九時に帰るんだけどね。店は十一時半まで開けてるんだが、嵐だから早めに店じまいしようって、結局、十時までいて、客も来ないし、一緒に店を閉めて返ったよ。なんだったら監視カメラがあるから確認していいですよ。刑事さん」
「その後はどうされました」
「こいつをマンションまで送り、それから自宅に帰った」
「マンションには一人で住んでるの?」
彼は少し顔を赤らめた。それで女がいるなと一ノ瀬は直感した。まあ、この容姿なら、さぞかし不自由しないだろうと皮肉に予想した。
「監視カメラは、どのくらい前まで録画を残していますか?」
「ああ、最近は物騒だから、結構長く置いているけどね。しかし、まあ半年で上書きするかな」
「じゃあ、向山さんの映像もあるんですね」
「たぶん、ありますよ」
「お借りできますか」
「捜査のためだものね。仕方ないなあ」と、男は迷惑顔で了承した。
署に戻ると阿久道が帰りを待っていた。
「どうだった」
「シロですね。水越という音大生でバイオリンの上手いきれいな男がいましたがね」
「そうか」
「水越はバイトで働いているんですが。店に客がいない時、練習していると。被害者がその練習をただ黙って聞いていたそうです」
「……」
「監視カメラを大量に押収してきたので、一緒に見ますか?」と一ノ瀬が言ったとき、相棒の米長が迷惑そうな顔をした。
「見よう」
三人は視聴覚室まで行き、カメラ映像を回した。
「まずは、当日のアリバイ映像ですが」
映像はカウンター側から店内を映しており、水越の背中が見えた。レジの計算をしているようで、年配の男は店の品物を整理している。
「この子」
「ほら、顔が見えた。きれいな奴でしょう。店は叔父貴のもので、バイオリンを買うバイトなんだそうで。被害者は、なんでも夜に一、二時間ほどいて練習を聞いていたようです」
「練習をね」
しばらくして、水越がバイオリンを取り出した。最初に奏でた曲はサラサーテのツゴィネルワイゼンだった。
指馴らしの練習曲なのだろうか。
低い音程が深く響くと、瞬間に高音部まで一気に登りつめる。また、低音。ジプシーの放浪の嘆きが伝わってくるような、悲しみに満ちた演奏だった。
「身長百五十八センチ」と、阿久道は小さな声で呟くと、少し
いつもの阿久道の方法論がはじまった。これをはじめて見る者は不気味さに声を失う。彼は、時に対象相手になりきり、そこに自分を置いて感情を論理的に分析するのだ。
「体重四十三キロ。痩せた体型のわりに胸は豊満、四十歳より若く見える。冷たい印象の美形。私は向山汐緒、精神が安定せず薬に頼っている」
彼は短い髪を掻きむしったとき、となりで唖然としていた相棒が一ノ瀬の腕を強くつかんだ。
怖いか、わかるぞ、相棒、耐えろ。
今、阿久道は被害者の小柄で美しい女になりきっている。悪魔が
「麻衣子は私の子ではないが、夫を責めることができない。どうせ耳を貸さない。心が通じない。虚しいだけ。心を許せる友人もいない。両親には気を使わなければ。兄嫁は嫌いだ。秘密を持ち続けて心が寂しい。麻衣子を好きになれない。虚しい。誰か助けて欲しい。このバイオリンを聞く数時間が心の拠り所。この時間だけが休息の時、この時間はなにものにも代え難い」
ツゴイネルワイゼンの佳境部分、バイオリンが踊るように高音部で跳ねている。ジプシーたちが踊り狂っている様が目に浮かぶような演奏だ。と、ふいに音が途切れた。
「一ノ瀬」と、阿久道が声を上げた。
「はあ」
「確か、秋頃、被害者のクレジットカードで大金が使われていたはずだ」
「そうでしたか?」
「間違いない。六百万以上の一括払いだった」
「はあ、金持ちですね」
「感心するところじゃない。支払い先を調べておけ、おそらくは」
「おそらく?」
「高価なバイオリンを買っているはずだ。それからもう一つ頼みがある」
阿久道が珍しく優しげな声をだしたので、彼は震えた。
「なんですか」
「年下キラーに麻衣子の唾液かなにか、DNA鑑定できる唾液を取ってきてもらえ」
「年下キラーって、マザー天神ノ宮ですよね」
「そうだ。お前ならできるだろう」
「それを頼めと言うわけですね」
一ノ瀬は助けを求めて米長を見た。彼は瞬時に手を振って無理と否定した。
「はあ、あの、映像係は自分たちです」と、米長が呟いた。
「向山汐緒がいる場面がでたら、別ファイルにして後で見せるよう」
「というわけで、私は、こっちに専念しますんで、マザーの件は阿久道警視正のほうで、なんとか」
ビデオは紙袋三つにぎっしり詰まっていた。あれを全部見るのか、うんざりするな米長、と一ノ瀬は思った。しかし、マザーに指示するよりはましだろう。
(つづく)
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