第2章
なぜ、被害者は不倫に走りたかったのだろう
一ノ瀬は相棒の米長を伴って、寂れた商店街を歩いていた。冬の太陽が落ち、街灯が点灯したが、半分ほど電球が切れて薄暗い。失われたこの数十年で、よく見かけるシャッター街である。
なぜ、こんな郊外に被害者の向山汐緒は訪れたのだろうか? 阿久道の言う通り、自宅から使用途中のスイカが出て来た。降車駅は利用履歴から知れた。大抵は夕方から時に夜中までいたようだ。
周囲は薄暗い。一車線道路を挟んで、アーケードの商店街が続く通りである。まだ、五時過ぎだがシャッターが降りて、街全体がうらぶれている。
二百メートル程先で緩やかなカーブを描いており、その中心に、ぽっかりと灯りが浮かび上がっていた。コンビニだった。ほとんどの店が閉まっているので、それは砂漠で遭遇したオアシスのように安心感を与える。
「米長」
「ええ」
「あのコンビニに聞き込みするが、最初は客の振りをしよう」
「なぜですか?」
「ま、勘ってやつさ」
五時過ぎで、汐緒が頻繁に来る時間帯より、少し早い。
コンビニのドアを開けて入ると、サラリーマン風の男と制服姿の女子高生がふたりいた。店番は年配の男と若い男である。
「いっらしゃいませ」と、青年が言った。
ほうっと一ノ瀬は思った。大学生だろうか、繊細な顔立ちの人目を惹くアイドルのような男だった。彼の勘がカンカンと警鐘をならしている。一ノ瀬は買い物する振りをして、ゆっくりと店内を観察した。
サラリーマン風の男がレジで清算しており、その横で女子高生が待っている。
「まだですかぁ?」
横から女子高生が声をかけた。チョコレートを手に待っていた。
「待てよ、せっかちだな」
青年は柔らかい笑顔を向けて応えた。
「ごめんなさーい」
甘ったれた声だ。サラリーマン風の客を応対してから、青年は笑いかけると女の子のチョコレートを預かった。
「水越さん、今度の発表はいつあるんですぅ?」と、一人がはしゃいだ声で聞いた。もう一人が彼女の背中を意味ありげに叩いている。
「当分、ないよ」
「クリスマスコンサートとか、また教えてね」
「ああ、いいよ」
水越と呼ばれた青年は屈託のない笑い声をあげると、機敏な動きでレジに打ち込んでから、おつりを渡した。
女子高生達がいなくなると客足が遠のいた。一ノ瀬はレジに向かい、缶コーヒーを置いた。
「さっき、コンサートとか言ってたけど、なんかあるの?」と、水越に聞いた。
「聞いてたんすか?」
「ああ、興味があってね」
「いや」と、彼が照れたように笑った。
「教えてよ」
「そんな、大げさなもんじゃないです。大学でバイオリンを専攻していて、そのコンサートがあるというだけで」
「君が弾くの」
「ええ、まあ」
「謙遜するなよ。お客さん、こいつ、こう見えても、なかなかなんですよ」と、年配の男が言った。
「ファンも多くてね」
男は照れたような笑顔を作った。こりゃ、女が放っておかないな、モデル並みの容姿にバイオリンかと一ノ瀬は思った。
「叔父貴の店で楽器を買う金を稼いでるんです。ヒマなときは練習してもいいと言われてるんで」と、彼が言った。
「へえ、すごいね。いつもこの時間にバイトしてるの」
「昼間は大学があるので」
「そう、ところで」と、彼は警察手帳を見せた。
水越は驚いた表情をしたが、特にやましい感じはない。シロか、あるいは、自分を隠す術を持っているのか。汐緒の顔写真を出した。
「実は聞きたいことがあるんだが、この女性を見た事ない」
「どれどれ」と、年配に男も側に来た。
「ああ、あの人じゃないか、ほら、あの」
「ご存知で」
「そう言えば、最近は見ないなあ。どうしたんだろうか。ほら、二ヶ月前まで、しょっちゅう来ていたよ」
「そうなの」と、彼は水越に聞いた。
「ええ、来てました」
軽く
「こいつのファンの一人さ」
「叔父貴、いい加減にしろよ」
「照れんなよ。どっかのお金持ちの奥様かとも思ったけど、きれいで品のよい人だよな。遅くまで、ほら、そこのカウンターでコーヒーを飲んでたね。こいつがバイオリンを練習するのを熱心に聞いてましたよ」
店には窓際に軽く飲食するスペースがあり、細長いカウンターと三脚の椅子が備え付けてある。
「バイオリンの練習?」
水越は困った表情をした。
「叔父貴が人のいないときに練習してもいいと言うので、店に客がいないときに弾いているのです。コンクールも近いので」
「そう」
「それで、この人はいつから?」
「よく覚えてないですけど、確か、二年くらい前かな。そう夏だった。深夜の閉店頃で、誰もいないので、バイオリンを弾いていたんです。十一時の閉店時間になったので、店の戸締まりをしようと思ったら、彼女、外に倒れていた」
「この女性が?」
「はい……、それで、大丈夫ですか? と声をかけたら、目を覚まして。疲れて寝てしまったとか言って、慌てて帰って行きました。変だと思ったんですが。それから数日後に、また、いらして。とても上品な人でした」
「深夜は君ひとりなの」
「そうです」
「それでどうしたの?」
「バイオリンの音色が素晴らしいと褒めてくれました。誰も客がいない時に練習していると言ったら、聞かせて欲しいと言われ……、それからかな。夜遅くの客が途切れる時間帯に店の飲み物や菓子を買って、そこのカウンター席でバイオリン練習を聞いて、帰っていくんです」
「それだけ」
「はい」
一ノ瀬は彼を見ながら、どうしようかと迷った。
「その、バイオリン、聞かせてもらえるかな」
彼は返事の代わりに、カウンターの奥からバイオリンを取り出すと、弦の調節をはじめた。細く繊細な長い指が弦を持った。
一ノ瀬はコーヒーを持ってカウンターに腰を降ろした。
ふいに、震えるような美しい音色が響いた。
静かに目を閉じて聞いていると、穏やかで安らかな気持ちに満たされた。
音楽が終わった。
目をあけると、窓ガラスの向こうに空低く月が見えた。建物に触れそうなほど近く、異様に大きく青白い月だ。
「なるほど」と、彼は呻いた。
彼はレジに戻ると心から、「いい音色だ」と褒めた。水越は照れ笑いをして、「どうも」と口ごもった。
(つづく)
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