悪魔を訪ねたマザー
阿久道警視正を訪ねて署にマザーがあらわれた。あいにくと彼は不在で、雪乃が応対することになったのだが。
マザーを玄関まで迎えに行き、雪乃は不思議な心地よさを感じた。たまたま、マザーとシスター島原に冬の長い日差しが届いていたからだが、そこだけ天上のように見え、雪乃は思わず目をこすった。
「今日は、どうなされましたか?」と、雪乃は声をかけた。
「お頼みしたいことがあって、お伺いしましたよ」
「申し訳ございません、阿久道警視正は席を外しております」
「お忙しいのでしょうね」
「私でよろしければ、どうぞこちらへ」
雪乃は外来者を通す個室へ案内した。無機質なテーブルと椅子が四脚あり、角に内線電話がある殺風景な部屋だ。
「ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「今回の事件が解決されたとか」
「はい。マスコミも騒がせた大きな事件ですが、一応、解決ということで、供述調書を取って。後は被疑者を検事局へ送致するだけです。少しお待ちください……」
そう言いながら、雪乃は部屋から出た。板垣に阿久道にマザーのことを伝えるように言付けして、紙コップにお茶を入れて戻った。
「あらあらあら、お気遣い、ありがとうございます」と、シスター島原は嬉しそうだ。
「それで、マザーのご用件をお伺いしても」
「お忙しいとはわかっておりますが。国松さんの人となりについて警察の方に申し上げなければと存じまして」
「マザーは被疑者をご存知なのですか」
「被疑者とは?」
「すみません。警察用語で、あの、つかまった犯人のことを、そう呼びます。それで……」
「国松師長のことは、よく存じておりましてね。有能で愛情深い方です」
「そうですね。非常に感じの良い女性です。温かみがあって。それが、あの向山准教授に片想いだそうです」と、あのに力を込めた雪乃自身、苦笑いが浮かんだ。
「その上、十年以上の片思いだ」
阿久道の低くよく通る声が背後から聞こえた。雪乃は、あっと思って発作的に背すじを伸ばした。
「おやおや、いらしてたんですね」
「マザーもか」
「国松さんの、ご様子はいかがですか?」
「素直だ。必要なことだけ穏やかに話している。女性には珍しいことだが、とても落ち着いている」
マザーは少し笑った。
「花子、師長についてマザーに」
雪乃は逡巡したが、命令に従うことにした。外部に機密を漏らすことは本来はできない。しかし、阿久道はつねに自分ルールの治外法権の男だ。
「あ、あの、被疑者は長いこと看護師として信頼を集めてきた人物のようで、彼女のことを聞き込みに行った捜査員が口をそろえて、悪い噂がないと言っております。彼女の下で働いていた看護師たちから減刑の嘆願まで来たそうです。患者からの評判もすこぶる良い人です」
「そうです。そういうお方です。彼女は事件について、なんと言ってらっしゃるの?」
「捜査上の秘密を私の立場では公にできないのです」
「そうでしょうね」と、マザーは微笑んだ。
「記者会見で話したことが全てだ。向山に恋している。それが動機だ、十年前からだ」
マザーは彼の言葉を
「阿久道警視正は彼女が犯人だと思ってらっしゃるの?」
「花子」
「え〜っと。あの」
「供述についてマザーに教えてよい」
「あの、マザー。師長さんは、十月頃、被害者の汐緒さんがケガをして、あの、大学病院に入院したそうです。そのときに殺そうと考え始めたと。計画的に見舞いの振りをして訪ねて行った。それで目の前にあった暖炉の火かき棒で隙を伺って殴ったということです」
雪乃は水越との一件を思い浮かべながら話した。十月に汐緒が医大病院に入院したのは確かだ。ただ、この件は管轄署に確認したが病院側から届いていない。大学で一目置かれている著名な向山准教授の妻だからだろう。
「不自然だと、お思いになりませんか?」と、マザーが聞いた。
「思うな」と、阿久道が引き取った。
マザーは、うなずいた。
「ところで、今日は大変なことをお願いしにまいりましたよ」
「なんでしょうか」
「国松さんとお会いしたいのです」
「それは、無理だ」
阿久道はまるで無理じゃないとでもいうように言った。
「この際ですが、日本のことわざでは嘘も方便と申しますし、イエスさまにお許しくださるように、御聖堂でお祈りしてきましたから申し上げますが」
「なにかな」
「わたくしは国松さんの主任神父の代わりとして告解を聞きにまいりました」
シスター島原が、あんぐりと口を開けるのが見えた。
「マザー、それは」
「被疑者がクリスチャンとは初耳だ」と、阿久道が言った。
「わたくしも存じませんよ」と、マザー。
シスター島原の開いた口が、ますます大きくなった。
「ですから、嘘も方便と申しました」
阿久道がにっと笑ったので、雪乃は背筋が凍った。
「今はまだ、たとえ家族でも被疑者とは接見できない」
「そうなの? それはどういうことなのでしょう」
「花子」
「はい、あの、マザー。これは法で定められたことで……。簡単にご説明すると、逮捕後四十八時間が警察の、あの、持ち時間なんです。この時間内に唯一会うことができるとしたら、それは被疑者の弁護人ですが、国松さんは弁護士の接見を拒否されました」
「法で決められたことなの?」と、無邪気な様子でシスター島原が聞いた。
「そうです。法です。被疑者は昨夜の七時に出頭してきました。逮捕状がでて取り調べを受けてから、ちょうど十八時間が過ぎています。三十時間後には検察へ送致されます。マザーが彼女に会えるとすればですが、勾留決定が裁判所から出てからですから、二日後くらいに」
「それでは遅いのです」
「なにか相当の理由があるのか」と、阿久道がわって入った。
「彼女が犯人だという証拠があるのですか?」
「自首して、自分の犯行だと供述している。凶器も自宅で発見された。被疑者が使った車は病院のバンで血液反応がでており、被疑者の血液と一致している。公判は十分維持できる」と、言ってから阿久道は、「おそらくはね」と付け加えた。
「わたくしは何かとんでもない間違いを犯しているような気がします。何かが違うと思っています。はっきりとは言えませんが。だからお会いして、自分自身の目で彼女を見て判断したいのです」
「それでは確固とした理由があって来られたわけではないのですな」
「イエスさまの命ずるままに参りました」
「イエスさまですか……」
阿久道はしばらく考え込むと、「花子、ちょっと来い」と言って外へ出た。
外に出ると彼は言った。
「話をつけてくるから、数分後にマザーをつれてこい。ただし、お付きのシスターは置いてこい」
「え? あの、どちらに」
「留置所だ」
それだけ告げると阿久道は大股で歩いて行った。
まずいことになったと考えながら、雪乃はマザーたちを待たせている部屋に戻った。
マザーは、しずかに祈りつづけていた。
「今は取り調べが終わって被疑者の国松さんは留置場にいます」と、雪乃は話した。「あの場所は寒いですから冷え込みますよ。よろしいでしょうか?」
マザーはうなずいて立ち上がった。シスター島原もあわてて立ち上がった。
「これは異例のことで、申し訳ないですが、マザーおひとりで」と、雪乃は大きい身体を小さくして頼んだ。
「シスター島原をここで待たせてもらってよろしいですか?」
「はい、こちらで、お待ちください」
「ありがとう」
「マザー、大丈夫でしょうか?」と、今まで黙っていたシスター島原が心配気な様子で囁いた。
「殺人犯にお会いになるのですよ」
マザーは安心させるように微笑むと、こっくりとうなずいてシスターの手を叩いた。
雪乃はマザーとともに警察署内を歩いた。修道服の老女と歩く雪乃に署内の多くの目が集まっていた。
(つづく)
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