容疑者vsマザーと悪魔


 雪乃は署内の廊下を留置所までマザーとともに歩いた。


「あなたのお気持ちは、きっとイエスさまもご存知ですよ」

「はい」と答えてから一呼吸おいて、雪乃は続けた。

「私は無神論者なんです」

「それは間違ったお考えですが。あなたは、まだとてもお若いですから、この世界で十分に生きてください。そして、わたくしくらいになったとき、もう一度、そのお胸にお聞きなさいね。生きていく上で神さまが必要になることが、きっとこれからございますよ」


 雪乃は言葉も発することができなかった。ただ、灰色の廊下を先に歩いていく。しばらくして、また振り返り遅れがちに歩くマザーに合わせて歩みを止めた。


「先生や生徒の親たちに聞き込みしたときですが、多くの人が大真面目に、マザーなら奇跡を起こせると信じているようでした」

「それは間違っております」と、マザーはてらいもなく答えた。

「わたくしは、なんの力もない修道女です。お人が、わたくしをそう思っていらっしゃるのでしたら、それは、その方達がそれをお望みだからだと思います」

「そう、なんですか……。では、私もその奇跡を望んでいます」

「これからお会いする方に対してでしょうか」


 阿久道が待っていた。

 マザーが会釈すると、阿久道は口元を軽くあげた。ほほえんでるつもりなのだと雪乃は思った。


 留置所の入り口で彼は係官に何かを伝えた。

 マザーの黒い修道服姿をチラッと横目で見て、係官は留置場のロックを解錠した。


「関わりのないことですからね」と、係官は念を押すように言った。

「収監している糸川の面会だ」

「わかりました」


 留置場に入ると阿久道が説明した。


「軽犯罪で勾留されている人間がいて、彼女の面会ということにした」


 マザーは静かにうなづいた。


 陰気な収監場所の廊下を歩いていくと、一つの鉄格子の前で阿久道が止まった。

 大きな音を響かせて解錠すると、狭い部屋に彼が招き入れた。実は雪乃は資料では読んでいても取り調べには関係していない。だから、留置場にいる国松に会うのはじめてだった。


 国松は、ひときわ小さくなったように身体を丸めて静かにすわっていた。


 彼女は顔をあげ不思議そうにマザーを見上げた。顔に苦悩が浮かんでいる。そして、額に手を上げ、まぶしいとでもいうように、顔を隠した。


「三十分だ」

「わかりました。二人にしていただいてよろしゅうございますか」

「よかろう、花子は廊下で待機するが」と、阿久道が言った。


 鉄格子の鍵を閉じると、阿久道は二人が見えない壁際に退き、雪乃は鉄格子越しに見守る形になった。

 マザーは軽くうなずいて彼女に近づいた。


「突然におうかがいして申し訳ございません。聖カタリナータ初等部の天神ノ宮でございます」


 国松師長は機械的に微笑んだ。

 こんな場所に勾留される立場は、さぞかし恐ろしいことだろう。叫び出したい感情を懸命に押さえ込むよう努めている国松の姿に、雪乃は胸が痛んだ。


「ここは、お寒いですね」と、マザーが言った。「大丈夫ですか?」


 国松は静かにうなずいた。

 自分の運命を受け入れ、その覚悟を持っているようにも見える。


「あまり時間がございません。無理をしてお話を伺いに参りました。あなたがクリスチャンかどうか存じませんが、どうか、神さまに本当のことを話すとお考えになって、お答えください」


 師長は緊張し猜疑心さいぎしんをあらわにしている。


「お疲れでしょうが。わたくしのお聞きしたいことは麻衣子さんのことです」


 麻衣子という名前に彼女は、かすかに目が泳いだ。やはりかと雪乃は鉄格子の先から観察する。


「なにをお聞きになりたいのですか?」

「あなたは汐緒さんが、お子さまのできないお身体ということをご存知だったのではないの?」

「なにを仰っているのかわかりません」と、性急すぎる早さで彼女が応えた。

「あなたは、麻衣子さんのお母様ですね」


 師長の瞳孔が開いた。無意識に親指と人差し指を唇に持って行くと爪を噛んだ。

 一瞬だが、彼女は迷った。

 そして、大声で叫びはじめた。


「誰か! 誰か! 来て! 早く!」


 雪乃は慌てた、鉄格子のドアの鍵がはずそうとした。阿久道が彼女から鍵を奪って開けた。


「どうした?」と、阿久道が聞いた。

「この、この人を出して! 早く出して!」

「出て下さい」と、阿久道が冷静な声でマザーに言った。


 しかし、マザーはその場を動かない。


「早く!」

「出て下さい!」


 雪乃に師長の言葉が重なった。

 マザーは冷静に、そして、まるで、その場に誰もいないかのように、ゆったりとした動作でひざまずき、十字を切った。


 それは、彼女の日常の自然な振る舞いのようだ。


 彼女は両手を重ねると静かに主に祈りはじめた。教会で祈りの空間を共有して、そこで祈っているかのように。


 監房の高い位置にある格子窓から光が射して、ちょうど黒いベールの後部に天使の環があたる位置にいた。

 みな言葉を失った。


『恵みあふれる聖マリア

 主はあなたとともにおられます

 主はあなたを選び 祝福し

 あなたの子イエスも祝福されました

 神の母 聖マリア

 罪深い私たちのために

 今も 死を迎えるときも祈って下さい』


 マザーは、そのままの姿勢で顔をあげると優しげな声を出した。


「それで、わたくしの質問にお答えいただけますか?」


 師長は途方にくれて、雪乃に助けを求めるように顔を向けた。

 雪乃も困って、阿久道に視線を投げた。


 阿久道は、いつもの阿久道だった。何事もなかったかのようなポーカーフェイス。

 逃げ場を失った師長は、そのままの姿勢で両手を何度も神経質にこすりあわせており、雪乃は阿久道に促されて鉄格子の外に出た。


「脅かしてしまいましたね。お許しくださいね」


 マザーの声は穏やかだ。


「どうか、お立ちください。ご高齢の方が、そのような場所にひざまずかれてはお身体に触ります」

「そうね」と、マザーは言った。

「あなたはナースですから、そういうことをよくご存知ね。何年間、お人のために病院で働いていらしたの?」

「二十五年以上です」

「そう」


 マザーは、よっこらと起き上がると簡易ベッドにすわった。


「では、お言葉に甘えて、ここに座らせていただきますよ。確かに、ここの床は冷たくて。年寄りには足腰にきついことですね」と、言ってさらに続けた。

「そうですか。国松さまは病院に二十五年以上ですか、長い間お勤めされてきたのですね。ご結婚は、お考えにならなかったの?」


 師長の顔に動揺と救いを求める表情が同時に現れた。

 マザーは黙って彼女の顔を見つめている。


「……。若いときは、この仕事が天職と思っていました。今もですが。精一杯看病してさしあげて、患者さんが快復され退院されるときの笑顔に癒されて、辛いこともありますが続けてきました」

「そう。わたくしも、お仕事は違いますが同じですよ」

「あ、あの」

「修道女は、自分からなるものではないのです。不思議にお思いなるでしょうが、神さまに召命しょうめいされて、なんて申しましょうか、神さまに呼ばれたと思う瞬間があるのです。ですから、あなたのいうところの天職なのです。あなたのお仕事に対する情熱も、これと似ているのね。ご立派ですよ」

「そんなことはありません」

「お人のために働こうと思うお心が立派だとわたくしは思っております」


 そう言うと、マザーは手を伸ばして師長の手に重ねた。


「本当に、よく頑張りましたね」


 師長は目を閉じた。負けまいと必死になっていると感じた。


「麻衣子さんのことですが」

「申し訳ないことをしました。お嬢さんのお母さまを、私は奪ってしまったのです」

「そうなの? あなたのお嬢さまではないの?」


 師長は目を開けた。


「なにを仰っているのか、わかりません」と、彼女は冷静な声になった。

「麻衣子さんは、ずっと心で泣いています」

「本当に申し訳ございませんでしたとお伝えください。そして、麻衣子さんにお会いになったら、どうぞ、これからの人生で、お幸せをつかんでくださいとお伝え下さい。こんな私が言うのも失礼ですが、どうぞ、そうお伝え下さい」

「そうですか」とマザーは応えた。


 阿久道が監房にもどった。


「また、お会いしに来てもよろしいでしょうか? そして、神さまに、あなたがとても頑張ったことを一緒にお伝えしましょうね。いつも主があなたと供に歩んでいますよ」


 マザーの言葉に師長は首を横に振った。


(つづく)

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