シスター島原の朝は早い


 東京近郊の中都市に、カトリック小学校として歴史ある聖カタリナータ学院初等部がある。

 全校生徒360名。小規模だが多くの卒業生が自分たちの子どもを入れることで有名な地元の名門校であった。

 親の半数ほどは、この学校の出身者だという。


 学校行事で親たちは顔を合わせると、あの人は何期の卒業でと品の良い話し方のなかに、そこはかとない悪意をもった噂話がはじまる。良く言えば大変に家族的な、悪く言えば古くからの因習いんしゅうが残る小学校だ。その西角にはシスターたちが寄り添って暮らす修道院がある。


 親の母性愛に隠されたエゴと教師たちの熱意に秘められた私欲の狭間はざまに建てられた修道院で、修道長と十二人のシスターたちは俗世と離れた質素で静謐せいひつな祈りの日々を送っていた。


 さて、前夜、冬にはめずらしい竜巻がおこり、深夜には雨と風が強く吹き荒れた。

 修道院で暮らすシスター島原は、聖堂まわりの被害を確かめるため、午前六時半とはいえ、まだ薄暗いなか外へ出た。


 黒い修道服が汚れないように、注意深く裾を両手で持ち上げ、泥水のできた地面を歩いた。昨夜の嵐で折れた枝が、そこここに転がっている。


「あら、あら、どうしましょう。生徒たちが登校する前に、お掃除しなければいけませんね」と、彼女は、いつもの口癖を呟いた。


 寒い日である。心が重く感じたのだろう。


 建物の裏手に回ると、カカシが寝転がっていた。

 聖堂裏に、いきなりカカシが現れる不思議を疑いもしないのがシスター島原という人で、そこがまた、彼女の憎めない人柄でもある。


「あらまあ、こんなところにカカシが、まあ、それにしてもイエスさま。どうしてここにカカシを置かれたのでしょう。こんな場所にまでカカシを送ってくださったのは何か神さまのはからいなのでしょうか」


 そう独り言を言いながら近寄ったシスターの大きな手が、一瞬で凍りついた。


「アワュ」


 シスターの唇から声ともつかない音が漏れ……。大柄で骨太で小心な彼女。この一瞬で心臓発作を起こさなかったのは、まさに神の奇跡である。

 カカシは大地を抱くように両腕をまっすぐに広げ、両手首を下に曲げ、足を硬直させた人間であったからだ。


 修道院長であるマザー天神ノ宮が、この瞬間に心臓発作を起こさなかったシスターをみれば、

『そうですよ、これこそ神さまのお恵みですよ』と、十字をきったであろう。

 マザーは島原のもっとも尊敬する師である。


 故に、シスターの頭に浮かんだのも、マザーを探さなくてはであった。警察でも救急車でもなかった。


「あら、あら、あら、どうしましょう」と、彼女は狼狽した声をあげた。


 彼女の甲高い声が聞こえたシスターのひとりは、ああ、また、シスター島原が慌てていると意に返さなかった。彼女が慌てて、「あら、あら」と叫ぶのは、あまりに日常的だったからだ。ただ、その日、その声は次第に大きくなって止まらないことに少し異常を感じはした。


「あら、あら、あら」は、あたかも救急車のように近づいて、聖堂前で止まった。


 マザー天神ノ宮を探して、うろたえながらシスターは聖堂の重い扉を開けた。きっとここでお祈りされているにちがいないと思ったのだ。

 彼女はマザーが祈る姿を認め、ほっとした様子で近づいた。

 黒い修道服から滴りおちる泥水で、聖堂の聖なる床を大蛇が通り抜けた痕のように汚しても気が付かない。


 修道女である。

 これが尋常ではないことを、マザーなら、すぐ気がついてくれるとシスターは思っていた。


 マザー天神ノ宮は聖堂の固い長椅子にすわり、ロザリオを手に朝の祈りを唱えていた。それはマザーが入信後、繰り返し行われてきた修道生活の一部である。聖堂の内部ドアが勢いよく開かれ、冷たい風が背中に突き刺さった。マザーは動ずることもなく瞑想の中にいた。


「マザー、マザー、マザー……」


 その声でシスター島原と察したが、彼女は振り返らなかった。大きな身体を持て余し気味に、感動したりオロオロしたりするのが島原の日常である。祈りとミサを中心にした秩序だった単調な毎日に、そうした感動する心を持てることは恵みのひとつだというのが彼女の感想だ。


「あら、あら、あら」


 彼女は、それ以外の言葉を忘れたようだ。


「どうしたのですか? シスター」


 ゆったりとした声で話しながら、天神ノ宮は振り返った。

 目をピタッと相手にあてて話す、いつもの冷静なマザーに島原は少しほっとした。


「お祈りのところをお邪魔しました、マザー」


 そんなことを言っている場合ではないと、チラッと頭のすみに浮かんだが、いつもの習慣から言葉がついてでた。


「大丈夫ですよ、シスター。どうかしたのですか?」

「本当に、わたくし、お祈りのお邪魔をするつもりではなかったのですが」

「そうですか。では、お祈りに戻ってもよろしいですか?」

「はい」と、言ってから彼女は繰り返した。

「はい……、じゃ、なくて」

「じゃ、なくて?」

「天に召されて」

「そう? お祈りしましょうね」


 シスター島原はオロオロと言葉をつないだ。


「マザー、御聖堂の裏で、お人が倒れているのです」

「それを、早くおっしゃいなさい」


 マザー天神ノ宮は、すっと背筋をのばして立ち上がり、言葉少なに、その場に連れて行くようにと命じた。


(つづく)

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