悪魔VS聖人 雪乃はたえる



 学校関係を調査するチームから、被害者と柚木奈美恵の仲が険悪という聞き込み調査があった。お互いに口も聞かない関係だが、しかし、その理由を柚木はわからないと証言したという。


 マザーが彼女たちの関係を知っているのか阿久道は聞きたいにちがいない。


 半分ほど神の領域に足を踏み入れたマザーに、そうした下世話な関係はどう映るのだろう。


 なにも気づかない、きっとそうだと、雪乃は思った。

 誰もがマザーの前では自分をつくろっているにちがいない。


「ええ、存じておりますよ。確か、お嬢様同士が同じ学年でしたね。少しお待ちになって」


 マザーは立ち上がると部屋から出ていった。しばらくして彼女は青いノートの束を持って戻ってきた。右足が高齢のために不自由なのか、ゆったりとした歩きかたである。雪乃は立ち上がって、肘を支えた。


「ありがとう。でも、大丈夫ですよ」


 腰を降ろすと、マザーはノートを繰った。


「聖カタリナータ初等部は戦後すぐに立ち上げた学校でございましてね。こちらで学んだお母様がご自分の娘や時には孫を、また、お預けになってくださるのです。ただ……」

「ただ?」

「時に、そうした古くからいらした方々と、はじめて学校にお嬢様をお預けになった方との軋轢あつれきがございます。とても残念なことですが、柚木さんは産婦人科の開業医がご主人のようですね、奥様は看護師をされた優秀な方と書いておりますが、こちらの出身者の方ではございません。でも、汐緒さんは、お祖母さまの代から聖カタリナータで学んで頂いております」


 長い話に途中から阿久道の左手が太腿を叩きはじめ、その指が時々、雪乃の太腿にあたっていた。雪乃はハラハラした。きっと、どこかで彼は爆発するにちがいない。


「バカげた学校だ」


 なんの脈絡もなく、ふいに阿久道が切り捨てた。

 うわっと、雪乃は逃げ出したかった。ここか、ここできたか。


 阿久道の正直な感想にも、マザーの表情はかわらない。いや、いっそ嬉しそうだ。この人は、もしかしたら、阿久道に宣教しているつもりか。


 雪乃は思った。

 それは……、それは、なんというか、ものすごい勇者だ。いや、キリスト教的には殉教者じゅんきょうしゃか。


「こちらの学校が少し特殊、そういうことでございますが……。柚木さんとお話になられたの?」

「彼女たちは、どう争っていた」


 ふたりとも、お互いの発言は無視して先を続けている。あたふたする自分がアホのようだと雪乃は下唇を軽くかんだ。


「被害者との関係は悪くはなく、ただ、話をする関係ではないと聞いたが、どうだ」

「わたくしがすべて把握しているわけではございません。授業参観などの集まりや、『マリアさまの会』での様子から、親同士の争いを察することはございます。柚木奈美恵さんと汐緒さんの間にはなにかがあったのでしょう。お二人は顔を合わせても意識的に無視されていました」


 おや、マザーは気づいていたのかと雪乃は驚いた。


 阿久道から渡された資料には、聖カタリナータ初等部を卒業していない母親の場合、影で『あの方は外部の方』と呼ばれると書いてあった。


 生徒は受験で選ばれ入学してくる。学年によるが、親が出身者とそうでない者からの入学は、おおよそ半々くらい。この学校はペーパーテストのない面接主体の受験である。いわゆる、という状況を好まないマザーの意向があるとも書いてあった。しかし、雪乃が読んだ限りにおいて、まさしく、お受験する小学校だった。


「受験には積み木が必要だそうだな。小学受験用の塾では、いかに積木をうまく積めるかの練習があるそうだ」と、阿久道が嫌味ぽく言った。

「どちらで、そのようなお話をお聞きになったの?」

「ある担当の報告だ」

「それは嘆かわしいことですね。この学校に入るために、積み木がお上手になる必要は全くございませんよ。積み木は面接の待ち時間を退屈しないよう、受験を担当した、あるシスターの配慮からはじまったものなのです。お下手でも、それで合否を左右いたしませんよ」


 幼稚園生が受験用の塾で積木の練習をする。それも無駄に。雪乃は笑いたくなったが、失礼だろうと自重じちょうした。


「わたくしは戦後の混乱のなか、学校設立のために懸命に働きましたよ。日本がこのような競争社会に向かっていくとは想像もいたしませんでしたが。貧しい中で木箱を机に学校がはじまったのでございます。炭を使って鉛筆の代わりにして、保護者の方々が木を板に削りノートに致しました。苦しい時代だから助け合う心が育ったのだと思います。いま、初等部に通っているお子さまの中には、その当時の生徒の孫にあたる子もいます」

「昔は良かった……か」

「そうではございません。皆が貧しいからこそ、お互いに助け合うしかなかった、ということを言っているすぎないのです」


 出身者と外部の者、イジメの問題、成績の問題、教師への不満、それぞれの思惑が交叉しながら、学校という狭い社会は生きている。それは私立だろうが公立だろうか、変わりはないなと雪乃は思った。


「残念ながら」と、マザーは囁いた。「世の中は神さまのご意志とは別の方向へ向かっているようで、わたくしは心から憂えております」


 阿久道は興味なさそうに聞いていた。


 向山汐緒の殺害された方法を、マザーが知ったらどう感想を持つだろうかと、雪乃は慄然りつぜんとしていた。


(つづく)

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