悪魔vs聖女。雪乃の苦難はつづく
マザーの言葉に、となりにすわる阿久道の体温が上がった。
「麻衣子さんは何かをご覧になったのでしょうか?」
「それはわからない。時間的に言って、犯行は学校から帰る前後。彼女は、あれ以来、まったく話をしない」と言ってから、阿久道は雪乃を見た。
阿久道は笑っているのだろうか。
奇妙に
「それから……、解剖の結果だが、被害者は卵巣奇形であった」
「どういう意味でしょうか?」
「卵巣が完全に萎縮しており、この状態では卵子が形成されないということだ。つまり、娘が生まれるはずがない」
マザーが、はじめて動揺した表情を見せた。
「そんなことが……。わたくしは彼女のお腹に赤ちゃんがいるのを、はっきりと見ましたよ。どういうことでしょうか」
窓から午後の優しい陽射しが斜めに射し、修道服から伸びた指先を照らしている。マザーは十字を切ると静かに目をとじ黙想しはじめた。
阿久道が黙って付き合うはずがない。
彼が何か言おうとするのを遮ってマザーが話しだした。
「十三年前の八月、汐緒さんが大きなお腹を抱えて訪ねてきました。今月が産み月ですと仰って、はじめてのお産で不安ですから祈って下さいと。ですから、一緒に御聖堂でお祈りいたしました。あの夏の日は本当に暑うございましたから、セミの声まで思い出すほどに覚えております。……そのお話は信じがたいことです。後から、ご病気でもして、そうなったのではございませんの?」
「生まれながらのものだ」
「それでは奇跡が起きたのでしょう」
阿久道が笑い声をあげた。笑い顔をつくるだけの阿久道が声をだして笑ったので、雪乃はかえって、ぞっとした。悪魔が神のまえで高笑いしているように見えるのだ。
「マザー、こればかりは神とは関係のないことだ」
「神さまと関係のないことなど、この世にはございません」
「マザーは、ご存知か?」と、阿久道は彼女の言葉を無視して言った。
「他人の卵子による妊娠ということだが」
「わたくしは神に使える身でございます。その立場から申し上げれば、生命の操作は神の領域だと考えております」
「……」
「ローマ法王も体外受精を罪とみなすという声明を発表しております」
「検視官が断定している。しかし、被害者は夫の大学病院で分娩し、その記録が残ってもいる。だが体外受精の記録はない……」
阿久道はとことん罰当たりな人間だ、と雪乃はハラハラした。もう、こうなったら自分の首をかけて話を止めようかと迷った。
高齢の修道女に、こうした話をして理解できるわけがない。と、雪乃が驚いたことに、マザーが微笑んだ。その微笑みはまるで、ラファエロの聖母像のような静けさに包まれたものだった。
「それが本当のお話でしたら、大変なお苦しみでしたでしょう」
「不妊治療は大変だと聞いている」
「そうではありません」と、マザーは静かに間違いを正した。
「汐緒さんのご実家は、ご家族も含めて
「よく理解できない、初聖体とは」
「そう。教会にお行きなさいね。それは神さまからのお恵みなのですから」
雪乃は苦笑した。悪魔に教会をすすめるシスターってのは、なんというかシュールだ。
「教会に行けば神さまの愛を理解できますよ。今の日本ほど、神さまの愛が必要とされている時代はないのではと思っております。神さまは、お人を愛したくて愛したくてたまらないのです。それを受けることを拒んでいるのは、お人の方なのです」
阿久道は頭を掻いた。
冬の乾燥した空気に窓から射す光を受け、阿久道が無意識に掻いた頭から白いフケが辺りに飛び散った。
雪乃は頭に浮かんだ不穏な考えを手で追い払った。マザーのいう神も阿久道を愛したいのだろうかと。
「カトリック信者の家庭では幼児の折に洗礼を受けます。主任神父さまから洗礼を受けることにより、イエスさまと結ばれ神の民となるのです。初聖体は、洗礼を受けた者がイエスさまの血と身体として聖別されたワインとパンをいただくことで、イエスさまと一体になることです」
「神さまの身体を食べるということか」
阿久道の声には強烈な皮肉がふくまれ、雪乃はぞっとしてマザーの顔を見つめた。八十歳と聞いているが、シワの少ない顔は聖母のように、どんな言葉も受け入れ、動じることがない。
いい勝負だ。
いや、勝負じゃないが、両者、それぞれの立場に全くゆるぎがない。どうしたら、こうなれる。相撲じゃないが、がっぷり四つに組んで動く気配がない。小心者の雪乃は首を振るしかなかった。
「それはイエスさまが十字架にかかる前に、使徒に、これを私の身体と思って食べなさいと仰って、パンを与えたことからはじまっています」
「なるほど」
「堅信は秘跡です。信仰を確かなものとして宣言する儀式と申し上げれば良いでしょうね。だから幼児洗礼を受けた人が自分で理解できるお年になって、はじめて受けることができるのですよ」
「なるほど」
「汐緒さんは、子どもの頃、とても熱心なクリスチャンだったのです。他人の卵子により、お子さまを授かることに、普通の方以上にお苦しみになったのではないかと思うのですが……、わたくしがお会いした夏のあの日、汐緒さんは喜びに満ちておりました。汐緒さんという方は、ご自分のお気持ちが顔に出やすい方です。だから、彼女のお子さまとしか考えにくいのです」
阿久道は「なるほど」を繰り返すだけで、表情が変わらない。ある意味、失礼な態度を崩さない。
「ともかく、他人の卵子提供による体外受精は法的に難しい。あの当時では技術的にも、尚さら日本では難しいというのが専門家の意見なのだ。それをしたのなら本人の同意の元であろう」
「そうですか。困りましたね」
「このことは、少し調べてみる価値がありそうだ。事件とどう結びつくのか楽しみだ。経験上、不自然な事実というのは、必ず何かがある」
楽しみだという言葉に雪乃はぞっとした。しかし、マザーの表情はかわらない。ただ目の端をシワにして指を見つめると、無意識に胸の十字架に触れた。
「わたくしは汐緒さんが小学生としてお母さまに連れられて、入学されたときから存じております。少し気の強いお嬢さんでした。自分の中になにかを貯めておくということができない子でしたが、お母さまが厳しい方でしたので、お家では聞き分けの良い子だと聞いておりました。バイオリンがとてもお上手で、コンクールで賞をいただいたこともあって、わたくしも発表会にご招待をいただきました。嫌なことがあると、すぐお顔に出るお嬢さんで、そういう意味では素直な子でしたね」
「……」
「そうそう汐緒さんのお母様も、そういうお嬢さんでしたから、少し微笑ましくもありました。親子ですねと、よく思ったものです。反対に麻衣子さんだけは、感情をまったくお顔に出さないお嬢さんです。なにもかも心のなかにしまって、静かに耐えるようなところがあるお子さんでした」
マザーは悲しげに眉をよせた。
「神さま、お人というのは本当に悲しい」と、無意識に言葉にした。
雪乃も阿久道も黙ったまま次の言葉を待った。
「……。麻衣子さんと汐緒さんは親子としては似ていませんでしたね。お母様と、お顔も似てらっしゃらない。でも、あの夏の日、汐緒さんが、ご自分の子を妊娠したと喜んでいたことを否定できませんよ」
「産婦人科を営む柚木さんという人をご存知か?」と、唐突に阿久道が聞いた。
(つづく)
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