阿久道がマザーの元に、雪乃、寿命が縮まります
聖カタリナータ初等部の門前に陣取った取材クルーは今日も朝から忙しく働いている。
『聖カタリナータ初等部では、今日から親に伴われて生徒の登校がはじまりました。登校経路に教師が立ち、母親たちが一様に緊張した面持ちで子どもの手を引いて校門を入っていきました。あ、これは、午後の授業の合図でしょうか。学校からハンドベルの音が聞こえてきます。
それではスタジオにお返しします』
テレビ画面がスタジオにかわると、女性アナウンサーが数人の解説者に同意を求めるように言った。
『謎の多い事件ですよね。夫は大学病院の准教授で、被害者の実家は大変な資産家だそうです。しかし、自宅からも、また遺体からも盗まれたものはないということは、どういうことを意味するのでしょうか?』
テレビ画面でコメンテーターが神妙にうなづく様子が映し出された。
そのスイッチを切ると、マザーが振り返った。シスター西園寺の目撃情報を理由に、阿久道が面会の申し込みをして、雪乃は心ならずもこの場にいた。
「報道というものは、毎日、飽きもしないで、よく同じことの繰り返しがおできになるものですね。お外のレポーターとカメラマンの方は、ずっと校門の前にいらして、お寒いのではないかと心配していますよ」
「しばらくは続く……、かもしれないのであります」
阿久道が黙っているので、雪乃が声を振り絞った。わずかに震え奇妙な話し方になった自覚はある。
雪乃は生きた心地がしなかった。
この修道院長は優しげだが威圧感がある。隣には、むっつりと黙る阿久道。
いや、隣どころが彼の体温を感じる。というのも修道会のソファが小さくて狭いのだ。阿久道と身体が触れたら、それだけで大ヤケドしそうで、雪乃は大きな身体を必死に細くした。
どっちが怖いかと聞かれたら、雪乃は返事に
「それほど関心を抱く事件ということもありますけど……」と、雪乃はぼそぼそと続けた。
阿久道は返事をしない。マザーも黙っている。ふたりとも話す気配がない。
頼む、どっちか話して。
もう無理だと雪乃は思った。
この間にいるだけで命が縮まる。大きな身体つきで穏やかに見えるが、彼女の心臓はそれほど強くない。なぜ、一ノ瀬がいないんだろうか。彼がいれば、まだ救われるのに。
「シスター西園寺の話は本当か? 先ほどお会いしたが、何も聞けなかった」
阿久道が沈黙を破った。思わず、雪乃の唇から長い吐息がもれた。
「本当ですよ。あの人は百歳近いので、いつもは眠っております。けれども頭脳は明晰でございます。おそらく、わたくし達にすべてを伝えたので、お話しする必要がないと考えていらっしゃるのでしょう」
「仙人か」
「修道女です」
ふたりが一瞬、視線を見合わせると雪乃の心臓はビクッと高鳴った。マザーが柔らかく微笑んだ。
生徒の親には彼女を神と崇める者もいて、ともかくも学校関係者にとってカリスマ的な存在だそうだが、こうしていると、普通の穏やかな老女。それでも形のない威圧感に身が縮こまる。
この気持ちはなに?
たぶん、神聖なものに触れたときに感じる
その上、隣は悪魔だ。
ダメダメダメ、平常心。そう思うと、雪乃の指先は細かく震えていた。
「今日は、別の話を伺いたい」と、阿久道が高圧的な口調でマザーの言葉を無視した。
それに対して、マザーは穏やかさを失わない。北風と太陽の直接対決だが、太陽に分がないと雪乃は思う。いや、一番はこの間にいる自分だ。今日は睡眠薬を飲まないと、きっと緊張と興奮が残って眠れないだろう。
「どういったお話でしょうか?」
「被害者の夫に会ったか?」
「以前、少しだけですが」
「どう思った?」
「そうですね。無口な方ですから」
雪乃は向山准教授を思い浮かべた。
「花子、説明」
はっとして、雪乃は
「お部屋の温度が高いのでしょうか?」と、マザーに聞かれた。
額を流れていく汗をマザーが誤解したと気づき、ブンブンと頭をふった。
「花子」
「あ、あの、教授は大変に頭の良い人なんでしょうが。なんていうか。言葉が通じませんでした、あの、ご説明するのは難しいのですが。今回の事件では被害者の夫で、○×&?……」と、途中で言葉がうわずり、自分でも何を言ってるのかわからない。
「警察ではそういう場合、まず疑うのが近親者だ」と、阿久道が引き取った。
「汐緒さんは、こちらの卒業生でした」と、マザーが答えた。「結婚されるとき挨拶に来られましてね」
マザーは考えこむような様子で続けた。
「もう十七年も前でしょうか。結婚式に招待され、そのときに、ご主人になる方とお会いしましたよ。相手の方を、とても頭の良い優秀な方だと、ご両親が喜んでいらしたのを覚えているのですが。とても無口な方でした」
「結婚式での二人の様子は?」
「汐緒さんは、大変に、はしゃいでいましたね。ですが、わたくしは不安に感じましたよ。この年になりますと、お人のことが見えるようになるものです。ご主人は無表情な方でしたから、汐緒さんの姿が余計に目立っていたのです」
「感情がないような、そんな印象ではなかったか?」
マザーは答えなかった。
「大学病院での評判は良くも悪くもない。研究者としての腕は一流で尊敬されてはいる。人柄という点で好かれる男ではない。私と同じだ」と、阿久道が言ったので雪乃は驚いた。
「わたくしは学校のお母さま方に、よくお話するのですよ。頭がいいことやテストがすべてではありません。心の優しい、お人の影で働ける子にお育て下さいと。今の日本では、それは難しいようですね」
雪乃は話の方向が微妙にずれたことに
「稀に犯罪を犯しても何の良心の呵責もないのかと疑う人物がいる。元来、そういう感情がない。向山氏に、そういう匂いを感じた」
「向山さんが奥さまを?」
「花子」と、また話をふられた。
「あ、あの、それは不可能です。そもそもアメリカにいらしたのです。あ、あの、どこまで話してもよろしいのですか?」
「かまわん、すべて話せ」
雪乃は手で守るように持つメモ帳をくった。静かな修道院で、その音が無粋に響く。
「あ、の、なんでもES細胞とかなんとかでの不妊治療の最前線の学会だそうですが……。担当する者が向こうに確認しました。向山氏は確かに出席してらした」
今朝の捜査会議の報告メモを確認しながら雪乃は伝えた。
「そうですか。それはようございましたよ。麻衣子さんのことを考えると、これ以上の悲しみを少女に与えたくはございません」
「推定死亡時間は鑑識によると、前日の昼頃から夜にかけて、ほぼ十時間の間……、嵐で濡れたことなどから推定時間にやや幅がある」
マザーが十字を切った。
「そして、犯行現場は彼女の自宅だ」
「まあ、なんということでございましょう。お祈りしましょう」
「自宅の部屋はきちんと掃除が行き届いていた。奇妙なくらいに整った部屋だが、科学捜査班が調べた結果、一階のリビングからルミノール反応が出た。ルミノール反応についてご存知か?」
「いいえ」
「花子」
「あ、簡単に説明しますと、ある薬をつけて特殊な機械で見ると血液に反応するのです。それが自宅内で反応したということです」
雪乃はおそるおそる阿久道を見た。捜査範囲を一般人に話すなど、まずい。これが上に知れたら問題になる。どうしたらいいと思うと冷や汗が出てくる。
「では犯人の方の指紋も出たのでございましょうか?」
犯人の方?
その言葉に、阿久道の唇がヒクついている。
ま、まずいです、マザー、と雪乃は人差し指を唇においた。
「指紋は出なかった。また、ドアや窓が壊されていない。強引に侵入したわけではない。被害者が犯人を招き入れたとしか思えない状況だ」
「ご自宅内でというのは間違いのないことですね」
「そして、ここまで犯人が運んだ。自宅から車で三十分くらいの距離。嵐の中を歩いて運ぶ距離ではない。車で運んだことは間違いない」
「どのようなお方でしょうか?」
うわ、またまた敬語。阿久道の唇が皮肉に捲れ上がってる。歯肉が見えるから、まずいです、マザーと再び雪乃は怯えた。
「逆に心当たりの人間を聞きたい。被害者に強く恨みを持っていた人間、あるいは、こちらに運んだ理由が知りたい」
マザーは考えている様子だったが、しかし、何も言わなかった。雪乃は彼女の言外の言葉を読み取りたいと思った。若いころから化粧をしない顔は皺が少なく、年齢を重ねてもなお美しかった。
そして、どうか怒らないでくれと心から祈っていた。
(つづく)
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