一ノ瀬巡査部長は今日もたそがれている
被害者の夫、向山雅仁が勤務する東府医科大学病院は、近代的な建物と昭和初期に建てられた洋風建築が混在していた。研究室は病院楝の奥にある古い重厚なバロック様式。
一ノ瀬は阿久道に言われ雪乃を伴って研究室に向かった。
向山が自宅にいなかった日を特定するためだ。連絡すると今日は大学に泊まると言うので、約束を取り付けた。彼は米国から帰国して真直ぐ大学へ戻った。自宅周辺にはマスコミが多く、それを嫌ったとのことである。
ふたりが夜勤警備に場所を聞くと、四○一号室と教えられた。
少しガタガタと音が鳴る古いエレベータで四階まで登る。非常階段の隣が向山准教授の研究室であった。
両開きのガラス扉をノックしたが応答はない。
「いるはずだな」
「そうですね」
ドアを開いて中に入った。
研究室には、多数の資料や研究器具などが置いてあったが、不思議と整然としていた。古い洋館によくある贅沢な造りで天井が高くかなり広い。
部屋の中ほどに三段の階段があり、フロアが高くなった場所があった。その奥の机で顕微鏡を覗き込んでいる白衣の男がいた。
「すみませんが」と、彼は声をかけた。
「向山先生でしょうか?」
しばらく待ったが返答がなかった。
「向山先生!」
その声に男が顔を上げた。
「夜分にすみません。お約束した警察のものですが」
彼は迷惑そうな顔付きでふたりを見ると、その表情を隠した。
「ああ、すみません。研究に没頭すると時間を忘れます。私に何かご用ですか?」
向山は一ノ瀬の顔を見ると、そう言った。
乱暴な声でもなく興奮した声でもない。まして悲しみにくれた様子でもなかった。学生にむかって質問するときと同じ平静さ、妻を殺された夫のものではない。それが初対面での一ノ瀬の違和感となった。
研究室の奥に据えつけた簡易ベッドが目に入った。今回のためにというより、いつもそこで寝ている様子である。
頬骨がするどい目つきをメガネで隠し、高く骨張った
となりにいる雪乃のほうを一瞬も見ていない。
おそらく女に興味がないにちがいない。稀にそういう男がいると知っていた。同性愛者ではない。研究にしか興味がない。人間に興味がないのだ。
いや、傲慢な蛭だなと第一印象を一ノ瀬はすぐに修正した。阿久道の精密で論理的捜査より、彼はそうした勘を大事にする男だった。
「この度は、大変ご不幸なことに……」
「ああ、そ」と、彼は言った。
それで? と続けようとした言葉を中途でのんだようだ。夢から覚めたような言い方で、小馬鹿にされたような不快さを感じる。
「奥さまについて、なにか恨みをもっているような人に思い当たることがあれば、お教え願いたいのです」
いかにも単刀直入すぎると思ったが、向山の持つ何かが彼をそう駆り立てた。
「さあ、どうですか……。妻には家庭を任せているので、そういう方面について、私は口を出さない」
「奥さまの交友関係についてご存知のことがあれば、お聞きしたいのですが」
「娘の小学校の知り合いとかと付き合っていますよ」
「どなたかお名前をご存知ないですか?」
向山は首を傾げた。
それを知っている必要性を学術的に考えているかのような、難しい問題を解けと言われて困惑した表情である。その表情のどこかに、他人を見下すエリートの
一ノ瀬は彼らの夫婦関係を想像することができなくなった。希薄な関係ではなかったかと思う。自分の女房にこんな顔をすれば鉄拳が飛んできそうだと思った。
こいつは、冷酷というより無関心な
頭を掻いた。次の言葉を失ったのだ。
その時、研究室のドアがノックされ、向山と同じ位の年齢、四十代中頃の白衣を着た小柄な女性が現れた。白い花束を持っている。
「先生」と、彼女が声をかけて、すぐに一ノ瀬たちに気付いた。その場にいるだけで穏やかな空気が満ちてくる、ふくよかな女性だった。
「あっ、失礼いたしました。ご来客中でしたか」
「なんなの? 師長」
「奥さまに、スタッフからお花を」
「そう。……ありがとう」
師長と呼ばれた女は出た方が良いのか、それとも花を活けて帰れば良いのか、困った様子でその場に立っていた。少し目が赤くなっているのを一ノ瀬は見逃さなかった。
「国松師長は、私と同じ時期にこの病院に来た人です。こちらは警察の一ノ瀬さんと、もう一人は?」
「新堂雪乃です」と、一ノ瀬が答えた。
師長は軽く頭を下げた。穏やかな物腰の女性である。病院の看護師や患者たちに慕われていそうだ。
「師長さんですか……、遅くまでいらっしゃるんですね」
「夜勤日ですので。それで、先生が米国から帰国されたとお聞きして、スタッフからお悔やみを……」と、言葉を濁した。
「そうでしたか。今日は向山先生が自宅に帰らなかった日をお教えいただきたく、お訪ねしたのですが。ついでと言っちゃなんですが、その、ご一緒にお聞きしてもいいですか?」
「僕の外泊の日?」
「そうです。ちょっと気になることがありまして」
「どのくらいの期間」
「まあ、この半年ほどでも。よろしいでしょうか」
向山はパソコンに戻ると作業した。右足が貧乏ゆすりをはじめた。手っ取り早く帰したいんだろうが、そういかないぜと一ノ瀬は思った。しばらくして、プリンタの音がした。貧乏ゆすりが更に早くなった。印刷時間が長いのに苛立っている。
「師長」
「はい」
「僕の勤務日程表を持ってる?」
「お待ち下さい」
国松師長は花をいけると出て行った。
「これです」と、彼がプリントを渡した。
カレンダーに出張日が書いてあった。
「勤務時間は師長が持っていると思うから。とりあえず、大学に泊まることも多くて、だが、それをいちいち届けてないので、正確にはわからないがね」
「奥様が夜に出かけることが多かったと伺っていますが、ご存知でしたか?」
彼の表情は全く変らなかった。それが、何か問題でもあるのかという様子である。
「そう」と、少しして彼は返事した。
一ノ瀬はなにか言おうとして止めた。どう言ってよいのかわからなくなったのだ。しばらくして、師長が日程表を持って来た。彼らは、それを受取ると研究室を後にした。
建物を出てからはじめて、向山雅仁が妻の死に関して、全く質問しなかったことに驚いた。
冷たい夜気に当たりながら、「あれだな」と彼は雪乃に言った。
「あの夫が米国出張中じゃなきゃ、第一容疑者だったな」
「なんだか、冷たい人ですよね。今日、米国から帰国したばかりのはずで、研究室ってのも」
「ああ、驚いたね。妻の検死も米国からの電話で承諾したそうだが、会いに行こうとも思ってないようだ」
「そうですね」
彼は手に持った資料を見た。
「ほら、ほとんど家に帰ってない。浮気されても、しょうがないか」
雪乃は答えなかった。いい子だなと一ノ瀬は思った。
「じゃあ、明日な。今日は、ここで解散しよう。駅の監視カメラは捜査会議のあと、朝一番ということで」
「わかりました。お疲れさまです」
「ああ。すまんが、車、帰しといてくれる。俺は電車で帰るよ」
「わかりました。駅まで送りましょうか」
「いや」と、一ノ瀬は言った。
「少し風に当たって、頭を冷やすよ」
冬の風が心地よく感じた。得体の知れない醜悪さを、凍える風が清めてくれる気がしていた。
(つづく)
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