検視官:阿久道のいくところ地獄の凄惨な匂いがつきまとう


 阿久道は検視官である富士島のもとにいた。遺体の前で合掌したところ、助手から鼻栓を渡されたが拒否した。消毒薬と悪臭が鼻につく。


「見てもいいか」

「どうぞ」


 富士島は静かな男だ。骨格が細く背も高いため、動く度に微妙に身体全体が揺れるように見える。青白い顔が仕事柄もあってか、死神がカマを持って立っているようだと言われている。その比喩通りだと阿久道は彼を見る度にほくそ笑む。富士島はそれを逆に面白がる男と知っている。彼とは長い付き合いだった。


 阿久道はビニール手袋をはめると遺体の指を調べ、足の爪を見た。顔を近づけて匂いを嗅ぐ。


「きれいだ」

「ああ、かなり丁寧に遺体が拭き取ってある。薬品は塩素系漂白剤だな。どこの家庭にもあるカビ取りか、あるいは、まな板なんかを漂白する漂白剤だ。薬品を特定するために皮膚組織を取って検査に回してある。身体中の皮膚と、着ていたカーディガンやスカートも上から拭いている。御丁寧にダイヤのネックレスもだ、お陰でくすんでしまって価値が下がったな」

「死後か?」

「そうだね。かなり、念入りに証拠を消したようだ。たぶん、殺害するより、そっちに時間をかけたな。マニアックだ」

「たぶんという言葉は嫌いだが」

「君が気に入らなくてもね」


 富士島は普通に彼と接する数少ない人間だった。


「たぶんとしか、今は言えない」

「で?」

「うむ、直接の死因は鈍器による損傷と出血死。ただ、どれも致命傷ではない。つまり、苦しんだということだ。腕に、ほら、ここ」


 腕に細く赤い血筋がついている。


「針金のような細いもので縛っているな」

「それは、手足を拘束して痛ぶったということだな」

「そうだ。恨みを持っている相手か、あるいは異常者か。血液の凝固状態から、まあ三十分くらいで、最後に殺害している。肋骨が折れているが、必死に心臓マッサージをした時にできる折れ方と似ている、ここが奇妙なところだ」

「男?」

「レイプ痕があるが精液はでない」

「ゴムを使ったか?」

「いや、たぶん違うと思う。ゴムには滑り液がついているが、それにしては膣壁の損傷がひどい。もしかすると、見せかけかもな。なにか棒を突っ込んだだけかもしれない」

「男でない可能性もあるな」

「女でない可能性もね」と、言ってから彼は付け加えた。

「死後に遺体を移動した証拠に死斑がね。ほら、ここだ」


 富士島は遺体を横にすると背骨あたりを指さした。


「ここに、背骨に沿って、分かりにくいが……、薄く赤い班が残っているだろう。死亡時は仰向けだったが、死後二時間から五時間くらい後に姿勢を変えているはずだ。身体の前部に死斑が現れている」

「遺体発見時はうつぶせだった。ということは、移動時間がどのくらいか……」

「移動?」

「おそらく、殺害場所は別だ。遺体は運ばれたはずだよ。犯人像をわかりにくくするためにもな」

「犯人は異常にマニアックだな。塩素系洗剤を薄めて身体全体を丁寧に清めているところからも」


 富士島はニヤリとして身体をゆらした。


「儀式のようだな」

「それは分からない。ただ、単に証拠を残したくなかったのか。あるいは、犯人特有のこだわりか。マニアックな奴なら、そういうこともあり得る」

「なにもでない?」

「ああ、見事なほどな」

「凶器の推定は?」

「頭を殴ったのは、そうだな、この痕跡から、二センチほどの大きさのもの。破片は残ってない」

「つまり、頭をゴルフクラブのような棒で殴ったということか」

「そうだな、イメージとしては、いい例だ……。ただ、直接の死因は心臓からの出血死。それも非常に奇妙な方法で、もう少しで見逃すところだった」


 阿久道は解剖後の軽く閉じられた身体を見た。


「どういうことだ」

「非常に細長い針状のものを突き刺して、内蔵出血をさせている」

「つまり、それは外部への出血を押さえたという意味になるな」

「おそらく、そうだ。最初は打撲で内蔵が破れたと思ったが、頭部以外には出血していない。しかし、体内では大量の出血があった。まるで、縫合に失敗した手術みたいだったよ。それで、調べたら、みぞおちに小さな穴が開いていた。ほらここだ」


 縫合した身体の中心部分に一ミリほどの黒い痕がある。


「そう、ここから何かを心臓めがけて刺して、引き抜き、その後に心臓を執拗に圧迫して、そして、内部で出血多量で死亡した」

「いったい。なんのためにそんな事を」


 滅多に驚愕しない阿久道の表情に動揺が走った。


「ああ、慣れている。おそらく、殺人に、あるいは死体というものに慣れている奴だよ」

「そうか」


 阿久道が立ち去りかけると、彼が呼び止めた。声に迷いがあるのを感じた。


「なに?」

「これは、今回の事件とは関係ないことなんだが、だから検案書に書くことでもないとは思う」

「教えろ」

「この女性には娘がいると聞いているけど」

「ああ、中学生のな」

「そうか、その子、彼女の子じゃないね」


 返事をしなかったので、富士島は先を続けた。


「卵巣が萎縮している。更年期の症状ではなく。生まれながらの奇形だな。おそらくは」

「つまり、卵巣萎縮で卵子が形成されないという意味か」

「そういうことだ」

「娘は彼女の実子となっていた」

「妊娠はできる。難しいがね。子宮は平均女性より小さいが問題はない。普通より難しいかもしれんが……。しかし、卵巣が萎縮しているから、卵子ができないという事さ。誰かから卵子をもらったはずだ。そして、体外受精したはずだな」

「彼女の夫は産婦人科の著名な学者だから。たぶんそれで妊娠したか」

「たぶん、は嫌いなはずじゃないか」

「そうだ、虫酸が走る。じゃあ」

「ああ」

「それじゃ、正式な検死報告書を後で」


 阿久道は笑い顔を作ってみせたが、その顔で逆に人が怯えると知っていた。子どもの頃、笑顔を鏡で見て、自分でも、その顔に驚いた。頰が歪み、歯茎はぐきが剥き出しになるのだ。以前、富士島が冗談まじりに、笑顔が人を癒すのは嘘だな、その顔は人に戦慄せんりつを覚えさせると平然と言ってのけた。


 彼は背中を向けると軽く手をふってから、ビニール手袋をゴミ缶に投げ捨てた。

 ふん、と犯人に対して心の中で独白した。やるじゃないか。でも、俺の近くだったことが、あんたの不運だ。


(つづく)

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