呪われし人びと
阿久道が金子博士を訪ねた翌夕、マザーは麻衣子を訪ねた。
「犯人が捕まりましたね」
宜永典子が顔を合わせると、神経質にせき込んだ。心に
「ええ、そうでございますね」
「まさか病院の師長さんが。本当に信じられません。かわいそうな汐緒さん。でもこれで安心して天国に行くことができますね。あの犯人、義弟と同期で、それで昔から麻衣子さんも師長になついていたのに」
「麻衣子さんは、いかがお過ごしでございますか?」
「相変わらず、お部屋でお食事をして、あまり外へは出てきませんが。マザーが毎日お話していただいたお陰でしょうか。最近はお食事を持って参りますと、ありがとうと言ってくれます」
「そうですか。今日は修道会で焼いたクッキーを持って参りましたよ。麻衣子さんと一緒にオヤツをいただこうと思いまして」
「いつもお気遣いをいただきまして感謝申し上げております。あの……」
典子は言葉を濁して、なにか言いかけて黙った。マザーが静かに待っていると、日頃の不満が
「それにしても、あの当時、汐緒さんが自殺未遂をされたと病院からご連絡がきて、その後の騒ぎは大変でした」
「そうでしたの」
「汐緒さんにはお伝えしなかったのですが、義父母や夫も交えて家族会議を開きました。義妹の自殺未遂に、義父は心労から倒れて。義母も口癖のように、義弟の向山准教授を優秀な人だと思っていたのに裏切られたと申しまして、それはもう」
「ご家族の不幸が、その周囲の皆さま全てを巻き込むことは良くございますよ」
「自殺未遂などと、お恥ずかしいお話でございますので、もう主人は大変に怒っておりましたの。まあ、マザー、こんなところで立ち話をして……。よろしければ、麻衣子さんのお部屋に行かれる前に、お話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
マザーは典子のやつれた顔を観察した。この一か月の間で、急に目や口許のしわが増え、十歳くらいは老けたようだ。化粧のりが悪く、黄土色の仮面をつけたようにファンデーションがのっている。話し方も早口で余裕がない。
「よろしいですよ」と、マザーは優しく言った。
「ありがとうございます」
ふたりは応接室に入った。
「これから、わたくしたち家族がどうしたら良いのかわからなくて。麻衣子さんのことですが……」
典子はマザーの隣にすわると、膝を寄せて話しだした。
「夫は、向山、すみません。主人は義理の弟のことを呼び捨てするほど怒っておりまして。あの男とか呼んでおります。どうぞ、お許しください」
「お気遣いなく、お話しください」
「夫は……、麻衣子さんは、もうあの男に返せと言っています。でも、返せと申しましても、自宅に戻るには事件のことを考えますと、世間体もありますし。かといって、義弟は大学に居続けて家に帰る気配もありませんので。本当に、もう、わたくしは精神的に、なんだか追いつめられたような気持ちで、お食事もすすまない毎日なのです」
「お辛いですね」
「ええ、こんなことになるなんて」
彼女はハンカチを握りしめると、目にあてた。
「しばらく家を離れて実家に戻ろうかと思ったのですけど、両親にこんな話をするのも外聞が
「大変なご心労でしょうね。イエスさまは、あなたのお気持ちを理解されて、お辛いときは、あなたの側で一緒に歩いていらっしゃいますよ。どうぞ、おひとりでお悩みになりませんように。お祈りいたしましょうね」
典子はハンカチを取った。
「わかってはおりますが、眠ることもできなくて。夫は病院の仕事で忙しいですし……。相談いたしましても、最初は聞いてくれるのですが、そのうちに、もういい加減にしなさいと申しまして」
「あのね、典子さん」
マザーは彼女の手を取ってさすった。
「はい」
「もう、二○○○年以上も昔に、イエスさまは『明日を思いわずらうことなかれ、空を飛ぶ鳥を見なさい。彼らは明日のことで心配などしていない。明日のことは明日が自ら思いわずらう』と仰っています」
典子に言葉をかけながら、マザーは虚しさを感じていた。どれほど、言葉を尽くしても心に響かなければ、それは単なる石くれに過ぎない。彼女の哀れな表情の奥に隠された強情で鈍感な意志を誰が突き崩せるだろうか。事件は起きてしまった。すでに遅かったのだ。
「何もない平凡なときには理解する必要のない御言葉ですが、本当に大変なときこそ、この御言葉を考えるときと、わたくしは思っておりますよ」
「マザー……」
「いいですか? イエスさまは今日を生きなさいと仰っているのです。過去をわずらい、未来をわずらうことで、お心を乱してはいけませんよ。起きてしまったことを戻すことはできないのです。目の前にある大切なことを考えていくのです。そうすることで、お心が安らかになると思います」
「ああ、マザー。わたくしにそれができたら。どれほど楽になるのでしょう。こんなことをお話するつもりはなかったのですが。これからのことを、ご相談するつもりでしたのに……」
どれほど心をつくしても通じないのはないか。そうしたもどかしさをマザーは感じた。そして、いつものように心の内でイエスに救いを求めた。
(つづく)
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