聖女の失敗


 宜永家の応接室で、被害者の義理姉は憔悴しきってマザーに相談していた。


「これからとは、どういう意味でございますか?」

「麻衣子さんを、いつまでも、こちらでお預かりするのも変ですし……。といっても義弟、こちらとしては、もう縁が切れておりますので、向山さんと呼んでもよろしいでしょうか。向山さんはああいう方ですので、ご相談しても上の空のお返事しかいただけなくて。向山さんのご実家に連絡してはどうかとも夫と話しております」

「そのことで、ご相談したいことがございます」

「麻衣子のことですか?」

「そうですよ」


 押し付けられては堪らないと、典子は身構えた。


「ところで、マザー。あの子は、本当は誰の子なんですか?」

「どういう意味でございましょうか」

「警察からの解剖所見を夫がみて、それで、あの、それで、実の子ではありえないと。義妹と血がつながってないと……」


 典子の目が異様に光った。

 マザーは彼女の手を強く握った。その瞬間、部屋の外で何かぶつかる大きな物音が聞こえた。


「なにかしら?」


 典子が軽く会釈して立ち上がり、部屋のドアを開けた。

 そこに―、

 麻衣子が立っていた。


 マザーは、はっとして立ち上がった。

 みな凍り付いたように何かを待ったが、しかし、実際に誰も何を待っているのかわからなかった。


 一秒、二秒、三秒……。


「マザーがいる……、と聞いて……」と、麻衣子が弁解するように言った。


 先ほどの典子の言葉を聞いてしまったのだとマザーは悟った。

 彼女は麻衣子に向かって手を伸ばした。

 しかし、その手は届かなかった。


「私は?……」


 麻衣子が消えた。そんなふうに見えた。足音も聞こえなかった。

 玄関の方角から、扉が閉まる大きな音だけが奇妙なうつろさで聞こえた。

 ふいにマザーが大声を出した。


「シスター! 追いかけて」

「はい」


 シスター島原が、あわてて後を追った。

 マザーは走ろうとして、ソファにつまずき左手をひねった。するどい痛みが全身をつらぬいて、びくっとした。

 彼女は、それを無視して玄関に向かった。


「マザー」

「追いかけましょう」

「関さん」


 典子がお手伝いを呼んだ。


「麻衣子さんを追いかけます。夫に連絡してください」

「わかりました」


 すでに日は落ちており、麻衣子は周囲にはいない。


「すぐ警察に」と、島原に言った。

「警察ですか?」

「嫌な予感がするのです」

「そんな……、警察なんて大げさな」と、典子が口をだしたが、断固とした態度で連絡を入れた。妙に胸が騒いだ。


 麻衣子は見つからなかった。

 遅くなって修道院に戻ってはじめて、マザーは腕の痛みに気付いた。表情に出たのだろうか、シスター島原がすぐに察して駆けつけて来た。


「まあ、マザー、どうしましょう。その……、お手が赤くふくらんでおります」

「宜永さんのお宅で、少しひねったようですね」


 疲れが刻まれた顔のまま、左手首を右手で支えながらそう言った。


「そんな。いつなさったのですか? 申し訳ございません。わたくしは気がつきませんでした」

「大丈夫ですよ」

「お医者さまに診察して頂かなくてもよろしいのでしょうか、湿布を致しますね。まあ、どうしましょう。あらあら、本当に、ずいぶん腫れていますが」

「大丈夫ですよ、捻挫です。以前にもしたことがございますからわかります。湿布をしていただいて、これでお時間がたてば良くなるでしょう」

「そうでしょうか」

「昔の人は、こういうのを時間薬と言ったものですよ」

「お年ですから……」という言葉の先をシスターが飲みこんだ。


 包帯を巻き終わるとマザーは立ち上がった。


「どちらへ行かれるのですか?」

「御聖堂でお祈りしております。なにかご連絡がありましたら、すぐお教えくださいませ」

「少しお休みになられてください」

「御聖堂でイエスさまにご報告いたしますのが、わたくしには一番のお休みのようです」


 修道院から聖堂までは、渡り廊下でつながっている。

 ロザリオを不自由な左手にかけ、右手で廊下の手すりを持ちながら聖堂に向かって歩いた。


 誰もいなかった。


 祈りの前に祭壇にあるロウソクに火をつけようとしたが、痛みと捻挫で難しい。

 マッチを一本すろうとして失敗した。口にマッチの箱をくわえて、左手で抑え、右手でマッチを持った。


 そのとき、祭壇の左壁のロウソクの火が灯った。


 シスター滝川が立っていた。

 右壁のロウソクの火が灯った。

 そこにシスター島原がいた。


 祭壇の前に立つマザーに、他のシスターが手を差し出していた。


「わたくしにお貸しくださいませ」


 マザーは唇のマッチ箱を手渡した。車いすの音がして、シスター西園寺が聖堂に入ってきた。


「マザー、わたくしたちも、ご一緒にお祈りさせていただきます。麻衣子さんは、きっと見つかりますよ」と、シスター滝川が言った。


 十二人のシスターたちは聖堂の祭壇の前にひざまずくと、ロザリオを持った。祈りの声が、その夜は遅くまで聖堂に響いていた。


 さて、次の物語はこの数時間前に遡る。マザーがまだ麻衣子を探していたころ、警察署では阿久道が走っていた。


第2章完了

最終章につづく

  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る