聖母の慈しみに包まれて


 マザーは、被害者の娘麻衣子のことが気がかりで宜永家を訪問していた。


「麻衣子さんは、お食事をきちんと召し上がっているのですか?」

「マザー、ほんの少しですが……。お部屋で、ひとりで……。夫はしたいようにさせた方が良いと申しますし、いつもお部屋で頂いております」


 宜永典子は愚痴っぽい声で話した。


「本当に必要最低限のことだけ話すのですよ。いやとか、いいとか、それぐらいのことを、うなずいたり首を横にふったりで……。なんだか、とても怯えているようで。これからどうして良いのかしら、義弟に相談しようと思ったのですが。向山さんは、ああいう方ですから。本当にもう、マザーに来ていただいて良かったのですわ……」

「麻衣子さんとふたりだけで、お会いしてもよろしいですか」

「お願いいたします」


 典子は懇願するような声で言うと、麻衣子の私室に案内した。結婚前に汐緒の部屋だったという、二階の東向きの部屋。


 殺風景な部屋ではあった。

 ベッドと椅子が一脚に小さなテーブル。東向きの窓に黄色い無地のカーテンがかけてあった。


「汐緒さんがご結婚してから使ってなくて、麻衣子さんのために家具を入れたのですが」と、言い訳のように話すと彼女は部屋を出た。


 麻衣子は、ベッドにすわり、スマホのイヤホンをつけている。


「麻衣子さん」


 声をかけると、ゆっくりと振り返った。


「今日は、お話をしたくて参りましたよ。麻衣子さん」


 麻衣子は小さく頷いてイヤホンを外した。


「いつもおひとりでお食事なされて、さびしくない?」


 麻衣子が首を振った。


「そうでしたね。ずっと、おひとりで頂いていたのでしたね」


 麻衣子は無表情にうなずいた。一人で食事するのに慣れており、また、それが異常とは思っていないのだ。


「今日は、おいしいミカンをお持ちしましたよ。ご一緒にいただきましょうね」


 麻衣子は機械的にうなずいた。いつもの習慣で、マザーが手を合わせて食前の祈りをはじめたが、関心がないように見えた。


「神さま、今日は麻衣子さんとご一緒におミカンをいただきます。麻衣子さんのお心が慰められますように、そして、ご一緒に美味しいミカンがいただける時間を、お与えくださいましたことに感謝いたします」


 マザーは微笑んでからミカンを取り出した。


 ミカンの皮をむくと、小さなひと房を取って手渡した。そして、自分もひとつ口に入れた。甘い汁が口中にひろがる。


 麻衣子が食べ終わるのをみて、またひとつ取り分けて渡した。彼女は素直に受けとり口に入れた。なんども同じ動作を繰り返す。


「もうひとつ、むきましょうか」


 麻衣子が、こくりとうなずいた。

 ふたりでミカンを食べる静かな時が過ぎていく。


 窓の外は薄曇りで、群れにはぐれた一匹のツグミが近くに飛んできて去った。


 クィクィクィ……。


 群れを探しているような、つぐみの鳴き声が聞こえた。三個目のミカンの最後のひと房を渡した。


「ご一緒にいただくと、同じものでも美味しく感じられますね」


 彼女は、また小さくうなずいた。


「また、来てもいいかしら?」


 また小さくうなずいた。


「そう、良かったわ。あなたとご一緒にいただくミカンは特別おいしいですよ。なにかお話したいことはございますか」

「あ……」っと小さく麻衣子が声をあげた。


 次の瞬間、ふいに麻衣子の身体が震えはじめた。怯えた表情を浮かべ、微かに痙攣けいれんしている。彼女の視線を追って背後を振り返った。

 宜永よねなが家のひとり息子賢一郎がドアの先にいた。


 冷たく表情のない顔がゆるむと、マザーに向かって笑顔をうかべる。


 マザーが声をかける前に、「賢一郎さぁん」と、言う声が聞こえてきた。

 典子の声だが、それは常とは違い甘く、まるで恋人を呼ぶ若い少女のような声だ。


「ああ、ママ。ちょっと挨拶に」

「どうなさったの、賢一郎さぁん?」

「なんでもない」


 彼はそう言うと、マザーに頭を下げて消えた。開いたドアの向こう側には、ただ闇が残った。


 顔を戻すと麻衣子は元の能面のような表情に戻っている。

 

 なにか言葉にできない得体の知れない感覚を覚えた。この家は奇妙だ。平凡の家庭に見えるが、何かが奇妙だと勘が騒いだ。


 麻衣子と暇を告げ、階下に降りて行くと典子が待っていた。


「お世話になります」と、彼女は頭を下げた。

「いいのですよ。あなたもお疲れでしょうね」

「はい……」


 典子が口ごもった。表情が微妙に変化していく。


「まあ、マザーが、いらしてらしたの」という声がした。


 その声が苛立ちを含んみ低くなると典子に向かった。


「典子さん、マザーがいらしてるなら、どうして教えないの」

「すみません」

「まあ、マザー。お元気なご様子で」と、典子の姑、薫子が挨拶した。


 すっと典子が廊下の先へ去った。その横顔は固まっている。


 マザーと薫子は古い付き合いである。亡くなった汐緒が小学校に通っていたころ、何度も顔を合わせた。薫子が学校の役員をしていたためでもある。


 その頃は、ふくよかな体型で育ちの良さが現れていた。今、十数年振りに会う薫子は、痩せ、皺が深く、表情に偏狭へんきょうさがみえる。不幸というものはとマザーは心の奥で嘆息した。人間を変える。


「お祈り致しておりますよ」

「ああ、マザー。私は、もう生きている甲斐がなくて」

「お気持ちを確かにね」

「あの! あの、結婚が失敗だったんです。典子が嫁に来て賢一郎ができ、汐緒の居場所がなくなって、それで、あの向山が優秀だというから、もう……逃げるように向山と結婚して。可哀想な汐緒。あんなことになるなんて。賢一郎と仲がよくて……。それを典子が嫉妬して追い出したんですよ」

「お祈りしましょうね」


 話しだすと終わりがみえなかった。姑は嫁に聞こえようがおかまいなく話している。この家はかなり前から機能不全を起こしている。そう思いながら、マザーはただ黙って彼女の言葉を聞いていた。



(つづく)

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