悪魔に協力する聖なるマザー
翌日、修道院での朝のお勤めが終わるころ、阿久道と雪乃がたずねて来た。
「なかなか、やっかいな事件で、お知恵をお借りしたい」と、阿久道が無表情に告げた。
「お役に立てるのでしたら何でも致しますよ。学校の近くを怖い人がうろついているかもしれないと、シスターたちも、おびえておりますからね」
阿久道はそれには答えず、要件を話した。
「マザーは被害者の娘とあっていると聞いている」
マザーは彼を見ていると聖書の堕天使を思い浮かべることがある。神に恋い焦がれ、唯一の存在になれずに地獄に落ちた堕天使ルシファー。この男は神ならず人に理解してもらえず、理解されない理由を理解できない。迷路にハマった彼はそれでも、ひとり信じる道を生きている。
「質問している」
「おお、そうでしたね。年を重ねますとね、耳が遠くなりまして。ときどき、現実と天国の境にいるようになります。さて、なんでございましょうか」
「被害者の自宅に行ったのか」
「ご実家には伺っておりますが、ご自宅を訪問したことはございません」
確かに宜永家とは昔から親しかった。汐緒の祖父に当たる宜永栄一郎は現在の初等部の前身であるカタリナータ小学校に娘を入学させ、学校経営が軌道に乗るための援助をした功労者でもある。
「花子」と、阿久道が言った。
その声で隣にすわる、愛嬌のある若い女性が話しだした。この子の名前は花子ではなかったはずだがと、マザーは口元をすぼめた。
「はい、あの、ご説明します。被害者が住んでいたのは、西の山手の閑静な住宅街で。敷地は九十坪くらいでしょうか。洋風の建物です。坂を上がった中腹ほどにあり、家の前は道路を隔てて雑木林です。雑木林の先は山坂でした。不審な車が家の前に止まっていても近所が気付きにくいような所です。隣家に聞き込みしましたが、白いバンについて誰も見ていません」
「どの辺りですか?」
「ここから西に車で行って三十分くらいです。あの辺りは……」
百坪くらいの土地を有した家が、坂道に横並びする住宅街を阿久道の助手は描写していた。新しく開発された地域だと分かった。玄関前の道路は雑木林が日光を遮って、昼中でも薄暗いのだろうか。
マザーは説明を聞きながら、ふたりを観察した。おそらく自宅に何かあったのだろう。
「戦後になって開発した、あそこかしら? 欧州にあるような
「金持ちの多いところだ」と、阿久道が口をはさんだ。
「おや、まあ」と言って、マザーは微笑んだ。
「花子」
「被害者は周囲とは
「のちほど、グーグルマップで見てみましょう」
阿久道が珍しく驚いた顔をした。グーグルマップで驚く人を見るのが、マザーのささやかな楽しみだ。人々は80歳の老婆に偏見を持つ。パソコンを使いこなすと思ってはいないからだが、こうした偏見を人は誰でも気づかずに持っている。
「パソコンを使われるのか?」
「使いますよ。年のせいで手が少し不自由になりましてね。お上手に字を書く事が難しくなりました。それでパソコンのお勉強を致しております」
阿久道は眉をあげると、雪乃に先をうながした。
「目撃情報は皆無です。容疑者が、あ、あの犯人ということですが、麻衣子さんが帰る前に逃げたとなると、昼日中に被害者を車に乗せて深夜に聖堂に来て、誰にも発見されなかった事実が不思議です。白いバンを、あの一帯の防犯カメラでしらみつぶしに調査しましたが何も発見できませんでした」
「おや、まあ、大変な作業のようですね」
花子と呼ばれる助手が阿久道の言葉を補足している。この子は、とマザーは思った。とても優秀でいい子だ。神様に愛されている子だろう。あるいは、この子が最終的にこの事件を解決するかもしれないとマザーは予感した。
「坂道を降りた国道やコンビニや個人の防犯カメラに映っているものはあるのですが、決め手になりません。聖堂近くの防犯カメラには車が映っていました。確かに、シスター西園寺さまのいう、午前零時頃に車が通っていますが、生憎の嵐でカメラレンズが曇り、画像が不鮮明です。色さえ定かではないのです。わかるのは車種が国産のバンのような車らしいというくらいです」
「ご自宅から、なにか捜査の助けになるものは出ていないのですか?」
阿久道がニッと笑った。いや、笑うというより顔の表情筋を移動したようで、これでは怖がたせるだけだと、マザーは彼のために心配になった。
「よく掃除された家だ。被害者もきれい好きなのかもしれんがね。犯人は几帳面な人間だ……。部屋には生活臭がなかった」
阿久道には珍しく逡巡するような表情をうかべている。きっと演技であろう。
「殺害現場に大量のルミノール反応がでた。被害者は右側から鉄状のもので一回強打されている。現場は一階のリビング。その他の場所に反応はでない。かなり重くなった被害者の身体をどう運んだのだか」
「重い……」
「修道女にこういう話はいいのか」
阿久道の慣れなそうな気遣いに、マザーはほほえんだ。
「長く生きてまいりましたよ。先の大戦からですからね。あなたさまの考えるより、そういう世界に付き合いが永うございます。お祈りしましょう」
「では、話そう。即死というわけではなく、しばらく息があった。殴られた頭を引きずるような、血液の科学反応があるということだ。犯人に向かって倒れたまま悶えて、意識を失い、それから、しばらくして、息絶えた。ある状況で……」
「右の側面から?」
「そうだ」
「お宅は鍵が掛かっていたのでしょうか?」
「娘が帰宅して、その時に鍵が掛かっていたのか。何も話せない状態なので、不明だ」
「不思議ですね」
「不思議とは?」
「わたくしの拝見してきた汐緒さんは……」
初等部で見た汐緒の姿を記憶の底から探った。
「わたくしは汐緒さんを子どもの頃から、良く存じております。結婚されてから、なぜかとても地味になられたように思います。麻衣子さんのために学校に来られるときですが、お化粧っけが少なく、お人を避けるような様子がよく見受けられました。ずいぶんと若い時と変られたと思ったものです」
「なるほど」
「いつも少し心がうつろな様子で心配しておりました。麻衣子さんに、お母様はお家ではどうなされていますか? と聞いたことがあります。いつでしたでしょうか? 彼女はなにも答えませんでした」
聖堂の裏に倒れていた汐緒は、ピンクのカーディガンにスカートを穿いていた。首に巻いたダイヤモンドのネックレスが泥に汚れて光っていた。
「ネックレスは本物のダイヤモンドですね」
「そうだ」
「それもそのままでした……。誰も盗まなかったのですね」
結婚前の汐緒はブランド服を身につけ、常に高価なネックレスをつけていた。それが結婚後には地味になり服装に構わなくなっていた。しかし、聖堂裏で遺体となっていた汐緒は昔のような華やかな姿をしていた。
「どなたかと一緒だったのでしょうか?」
阿久道は首を振った。
「現場のフローリングもソファも、見た目ではきれいに掃除されていた。犯人は冷静な人間だ。配水管から血液の化学反応あり。掃除した後に、汚れた手や雑巾とか、なにかを洗った。それから、ソファの掃除にはオキシドールが使われていた」
「もしかすると血を見なれている人かもしれませんね」と、マザーは答えた。
「普通は傷や血に本能的な怯えを感じるが、すぐに血を拭き取るほど冷静な人間だ。もうひとつ、長くおけばシミとなり取れにくいことを知っている人間でもある」
「医療関係者だとおっしゃりたいの?」
先日、柚木を訪ねたおりに、警察から車について質問されたという言葉を思いだした。
「柚木さんのご家族をお疑いなのですか?」
「マザーの意見は」
「わたくしは専門家ではございません。だから、わからないとお答えしておいたほうがいいと存じます、が」
「が?」
「個人的な見解として。この年になりますとね、誰が信頼できる人かということは、わかるようになるものですよ」
「それで?」
「柚木さまは信頼できる方に思えました」
「そのことで、マザーに頼みがある」
「なんでしょうか」
「麻衣子さんの唾液が必要だ。ある鑑定をしたいのだが、ご家族に了承を得る事は難しい」
「それがお役に立つのでしょうか」
マザーは顔をあげると、視線を合わせた。彼に潜むなにかを感じた。彼に従うことは神の御心に沿うのだろうか。
「どうしたらよろしいのでしょう」
「このキットで口のなかの唾液をつけて、この容器に密封するだけなんだが」
「とても簡単なことのようね」
「簡単だ」
マザーは迷いもなくキットを受け取った。阿久道は礼を言わない。いつかこの男に神の存在を知らしめねばと考えているとは思いも寄らないだろう。
この警視正への宣教は困難な道でしょうね、イエスさま。そう思うと闘志がわく。
「汐緒さんが、よく外出していたことをご存知か?」
「わたくしも、そのお話をお伺いして、とても驚きました。お小さいころ派手なところもありましたが、根は真面目なお嬢さんでしたから」
「仕事柄、驚くことはない」
「神に使える身として、わたくしは、いろいろな方の相談を受けます。どのご家族も外からは平凡に見えるかもしれませんが、本当に普通というお人は少ないのですよ。いろいろな家族の形があり、その度に、なんということでしょうと思うことがありました」
マザーは修道院で練習する子どもたちの声を聞き心を痛めた。
クリスマスミサのために、聖歌を練習する子ども達の歌声が小さく聞こえている。
♪アレルヤ アレルヤ アレルヤ
♪そのわざは不思議 神をたたえよ
♪アレルヤ アレルヤ アレルヤ
「これほど平和な学校で」と、雪乃がつぶやいた。「なぜ、あんなことが」
「今日の午後に、また麻衣子さんのところへまいります。イチゴを持っていきましょう」
「彼女は話せるのか?」
「いいえ、ご一緒に、お三時をいただくだけですよ。お話がおできになるには、お時間が必要だと思います」
阿久道は、そうかというように手で膝を打ち、それから立ち上がると、別れの挨拶をして帰った。マザーはふたりのために祈りを唱えた。それから、彼が置いていったキットを眺めた。
(つづく)
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