燃えさかる炎のなかで密かに笑う人
家の周囲は高いブロック塀。外部から見た限りでは、内部も真っ暗な様子で人の気配はなかった。
正門は寺にあるような木造作りで年代を経ている。赤い瓦屋根が夜の暗さで暗赤色に見え、建物全体がチグハグな印象を受けた。おそらく何度か増改築している為ではないだろうか。
ここ数ヶ月は人の手が入っていない。雑草がブロック塀の間にも生えていた。
雨の音が際立つほど、周囲に物音がしなかった。
阿久道が門の前にくると、ためらいもせず通用門を開けた。鍵がかかってない。
「勝手に」という言葉を雪乃はのんだ。
廃屋とはいえ私邸である。捜査令状もなく入れば住居侵入罪だ。しかし、ここに麻衣子がいるとすれば、阿久道の選択に異議を唱えることができるだろうか。雪乃は迷いながら彼の後に続いた。
「応援を呼びますか」と、背中に囁いた。
「確信がない」
阿久道のいわんとする意味はわかった。応援を呼ぶとなると、家に入る為に捜査令状を取る必要がある。が、その時間はない。
雪乃は小さくうなずいた。
通用門を抜けると石畳があり、その先は、すりガラスと木枠でできた引き戸の玄関。古い日本家屋に良くある造りだと思った。建家は横長で、玄関の右奥に掃き出しのガラス窓が四枚ある。その一枚が破られていた。誰かが勝手に侵入したのだろうか? 壊した跡を新聞紙で
玄関は鍵がかかっている。
阿久道が新聞紙を取り外して窓を開けた。キイキイという音が雨音に消された。
埃にまみれた廊下に古い足痕があった。以前に誰かが侵入した跡だろう。
二人が中に入ると雨粒が廊下を汚した。障子でできた引き戸を開くと、そこは漆黒の闇。目が慣れてくると畳敷きの八畳くらいの部屋だとわかった。
誰もいない。
カビと埃の交じった部屋の匂いが、雨に濡れた身体に不快さを加えた。
「誰もいませんね」と、呟いた瞬間、阿久道が「しっ!」と小さく発した。
雪乃は五感をフルに活動させた。その時、なにかを感じた。それがなにかわからない。空気を軽く震わせるなにか。
生温い風と嫌な匂いだ。どこから?
注意を払いながらフスマを開けると、また、同じような和室。四面が水墨画で描かれたフスマで遮られている。経年により、建て付けの上部に五ミリくらいの隙間ができている。その隙間から空気が漏れていた。
目が闇に慣れてから、空気の漏れる場所に近づき、内部を伺った。人の気配は感じない。
フスマを開けると正面は障子の引き戸。左右はやはり水墨画のフスマ。前に進もうとすると腕を掴まれた。
彼がタタミを指差した。雨に濡れた靴痕が残っている。大きいものと、小さなもの。濡れているから今日に違いない。それは一直線に左側のフスマから右側へと向かっている。
凍える寒さなのに緊張で手が汗ばんだ。
阿久道が指で右のフスマを指示したので、雪乃はそっと近づいた。足が震えている。制服の袖で手の汗を拭い、腰に下げた警棒を取り上げた。大丈夫、柔道試合のように冷静に相手が誰だろうと隙をつくのよと心に念じながら、阿久道の顔を見た。
彼がまともに目を合わせてきた。そして、例の笑い顔をした。その不気味な表情が、その時に限って頼もしく覚え、雪乃の心を鎮めた。
彼の合図で同時にフスマを開けた。
そこは土間に通じる部屋で誰もいない。外部の微かな灯りで二階へ通じる階段が見える。生暖かい空気と匂いは階段から降りてくる。
階段に足を乗せると軋んで鳴った。その瞬間、阿久道が階段を駆け上がった。咄嗟の行動で、雪乃はついていくことができなかった。ひと呼吸置いてから後を追った。
階段の途中で、ふいに阿久道の声が響いた。
「逃げろ! 雪乃!」
あっと思った瞬間、爆発音のような音が響き、雪乃は爆風に巻き込まれた。身体が宙に浮いて、一階の床に叩き付けられた。
ガス臭とともに、階段を舐めるように炎が襲ってくる。雪乃は無我夢中で土間に逃げ、勝手口のドアにしがみついた。鍵がかかっている。
「警視正!」
大声で叫んだが答えがない。炎の発する熱で身体が燃えるようだ。渾身の力で勝手口の木戸を蹴破り中庭に踊り出た。冷たい雨が身体を冷やす。
「警視正!」
連絡! 署に連絡しなければと気がつき、スマホを取りだした。板垣が出た。住所を告げて、「爆発! 火事! 応援を、警視正が中に! 場所は……」と叫んだ。
雨にも関わらず炎の勢いは止まらない。火の粉が降り髪を焦がす。
「警視正!」
泣きだしそうになりながら、雪乃は庭を回って正面玄関まで戻った。二階の窓に炎が見える。
「警視正!」
その時、ガラス窓に人影が見えた。
と―、
窓ガラスが割れ、二階から黒い影がふたつ。重なって屋根を転がり落ち、庭木にバウンドした。ガラスの破片や屋根瓦が共に落ちてくる。
(つづく)
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