容疑者逮捕:事件解決への道
人間が燃えている。
阿久道と麻衣子だと考える前に身体が動いた。
雪乃は来ていたコートを脱ぐと、身体ごと二人に覆いかぶさった。コートは全身を覆い、酸素を失った炎が行き場をなくすことで火が消え、ぶすぶすと燻った。覆いかぶさる雪乃に母屋から火の粉が降り掛かる。
「イ…キ……、できない……。殺す気か」という声が弱々しく聞こえた。
コートを取ると煤に黒ずんだ阿久道が麻衣子を抱えている。ひどい火傷だ。
雪乃は阿久道を支え、意識のない麻衣子を抱えると門の外へ逃げた。警察のサイレン音が遠く聞こえてきた。
「雪乃……」
「はい」
「ウ、ラニワ……。やつを追え!」
目が合った。暗黙の内に阿久道から、メッセージを受け取ると、彼女は立ち上がった。
「すぐ、そこに助けが来てますから」
近づくサイレンの音に雪乃は叫んで、燃えさかる建物を仰いだ。
裏庭。
警棒を右手に掴むと、彼女は炎の明かりで周囲を見ながら、先ほどのナビの地図を思い出した。
地図では裏手に畑があり、その先はあぜ道だった。
どう回ったら、裏手から逃げた人間を捕まえることができるのか。雪乃は他人になって推理する阿久道のやり方を真似た。
(私は家に火を付けた。家の裏手に逃げた。追っ手は炎の中。警察車両のサイレンの音が右側の国道から聞こえる。左だ!)
雪乃は正門から左に向かって全速力で走った。
スマホを掴むと、「新堂です。警視正が重症。私は犯人を追ってます」とだけ叫んで、通話中のままポケットに入れた。
真っ暗な夜道が先に続いている。
「火事か!」と、少し離れた隣家から男が飛び出して来た。
「この道から左へ曲がる場所は?」と、雪乃が叫んだ。
「え?」
「左へ行く道!」
「すぐ、そこの林の先だ」
雪乃はダッシュした。ナビ地図の記憶では、田んぼが広がっており、その先は川のはずである。
林を折れると、屋敷の裏手から通じる曲がり角に出た。見回しても誰もいない。だめだったか。落胆したが諦めきれない。右を見ると堤防がある。
堤防に向かった。
息が切れ、脇腹が痛む。パソコンにばかり向かっていたので、体力が落ちたのだろう。雨が激しくなり、頬に当たる。息が白く周囲を染めた。
堤防の土手を両手で掴みながら登ろうとしたとき、そこに草をなぎ倒した足跡を見つけた。
「現場から北東の堤防、容疑者、逃走中!」
スマホに向かって叫んだ。誰かが何か答えたが、雪乃は無視して、土手を駆け上がった。
堤防の上に来て、周囲を見渡したが誰もいない。川沿いに目を凝らすと、黒い人影が川に向かっている。
いた!
雨のために滑る斜面を、ほとんど転げ落ちるように走って、黒い影を追った。
黒い影は冬の川に入って行く。
死ぬ気か?
待て! と叫ぼうとして言葉をのんだ。なぜか、ふいに『待てと言って待つ奴はいない』というジョークを思い出した。なぜこんな時にこんな馬鹿げたことをと頭の片隅で考えながら、その影を追った。
川幅が狭まっており五メートル位先に対岸がある。
腰まで浸かって逃げる男。男だ。若い! 誰?
川に入ると、案外と流れが早かった。雨のせいだろう。気をつけないと足を取られそうだ。水に濡れた制服が重い。凍えて死ぬのではないかと怯える気持ちを叱った。
その瞬間、ふっと気が緩んだ。足が滑り、しまった! と考える間もなく転んだ。気がつくと顔の上に水面があり慌てた。暴れたために水しぶきが立つ。
冷たい水流が口と鼻から溢れるように押し寄せ、雪乃はパニックを起こしそうになった。
『雪乃!』
ふいに阿久道の声が聞こえた。
その声が彼女の精神を落ち着かせた。先ほど名前をはじめて呼ばれた。その記憶だった。
深く潜れ、と思った。流れは早いが川底は浅い。手をつくんだ。落ち着け。
手をつき、足を固定すると水面に浮かび上がった。水に濡れた顔を容赦なく冷たい雨が叩く。凍える! 震えが全身を覆い。上手く手足が動かない。
こんなところで死んでたまるか!
川底を確かめるように歩いた。身体が動かない。急がなければ低体温症で動けなくなる、その前に岸へ……。
対岸を見た。
男は岸に辿り着くと、一瞬だけ振り返った。
目があった。恐ろしく暗く冷たい瞳孔が、雪乃を睨み、それから、くるりと背を向けると、堤防を登っていく。
重い身体を必死になって動かし、雪乃は後を追った。岸に辿り着いたとき、男の姿は消えていた。激しく身体が震えた。歯の鳴る音が自分のものとは思えないほど大きい。
負けるもんか!
行くよ。相手も疲れている、私は勝てる! 絶対捕まえる! 雪乃は気力を奮いおこした。
水に濡れた靴が重く、中に入った水がダプダプと揺れて歩きにくい。靴を脱ぎ捨てた。川辺の石が当たり足裏を傷つけたが寒さのために間隔が麻痺している。
堤防に登ると、橋とは逆方向に走る男が見える。遅い。普段なら軽く追いつける速度だ。
雪乃も走った。
マラソンの要領で、二回息を吐き、同様に吸うを繰り返す。ただ単調に走ることに専念した。
徐々に距離が縮まった。
十メートル、八メートル、五メートル、あと一メートル……。
男が振り返った。
濡れた黒髪が額に張りついた顔、落窪んだ目、深い闇を抱えた表情、とらえ所がなく虚ろに見えた。
白い息が薄暗闇に光る。
顔の半分は影になっていたが、見覚えのある顔。誰? 誰だった? 思い出せ、雪乃。そうだ、スマホ。
ポケットからスマホを出して叫ぼうとしたとき、
「あっ!」
男がナイフで切り掛かってきた。避けることが出来なかったが、怯むこともなかった。
左腕から血が吹き出した。
ひょろっと背の高い男で体力はなさそうだ。身体全体で息をしながら、闇雲にナイフを乱暴に振り回している。
「ウォーーーー」
獣のような叫び声を発して、雪乃は突進した。
柔道の間合いで、男の動きを見て跳びかかった。男の身体が宙を舞った。
地面に取り押さえると、男はふいに静かになった。雪乃は手錠を取り出して、体重をかけたまま男の腕にかけようとしたが、できない。身体が冷えきって上手く動けないのだ。切られた腕が痛む。突然、男が暴れだした。雪乃は体重を更にかけ、男を押さえたまま、空を見上げた。
「な……ぜ。なぜ」
なぜ、麻衣子を殺そうとしたと聞きたかったが、声がもつれた。
「クっ」と、言葉が下から漏れた。
顔に雨が降り注ぐ。男がもがいて、逃げようとするが、必死になって押さえ込んだ。どれくらいそうしていただろうか?
雪乃の体力は限界で、男を抑えているしかできない。
雨は容赦なく降り続いている。
身体が冷え、男と雪乃の体力を奪う。
10分、20分、30分……。
耐えきれない時間が容赦なく過ぎていく。このまま、男を取り押さえながら死ぬのだろうか。
もうだめだと思った。これ以上はできない、そう弱気になった時……、
その時、サイレン音が聞こえた。複数のサイレン音が近づいてくる。
泣きそうな気分を押し殺して背後を待った。警察車両が数台、止まる気配を感じる。
ヘッドライトが暖かい。
「新堂!」
一ノ瀬の声が聞こえた。
「大丈夫か」
雪乃は声のする方角を見た。
安堵の余り涙があふれそうになり、雪乃は口許を噛んだ。
「さあ、立て」
一ノ瀬に助け起こされて雪乃は立ち上がろうとしたが、身体が動かない。
数名の警官が雪乃の下の男を強引に立ち上がらせると、警察車両に引っ立てた。男がふいに奇妙な笑い声を上げた。
「あんたら下級の馬鹿に、……」
男が呟くのを誰もが無視して車に乗せた。
「さあ、おいで」と、一ノ瀬が言った。
身体全体がふらふらして恐ろしいほど震えていたが、なんとか歩けた。切られた腕が血に染まっている。
パトカーの側には数名の制服警官が立っていた。雪乃が頭を下げると同時に、彼らは誰ともなく全員が姿勢を正し、そして、雪乃に向かって最敬礼した。
逮捕した男は宜永賢一郎だった。
幼い頃から向山汐緒に恋心を抱いていた彼は、自分より若いバイオリニストの男に狂った彼女に、裏切られたと妄想したらしい。
犯行に及んだ日、彼は被害者の頭部を火かき棒で殴った。その後、汐緒の腕を縛って棒でレイプし、外科で使用する細いワイヤで内蔵を突き刺した。麻衣子が帰ってきたとき、代わりに罰を与えたと教えたらしい。メールでのやり取りで、麻衣子を支配するのは簡単だったと供述した。
母親が死ぬと脅して、師長を呼ばせ、それから、麻衣子ひとりを残して何食わぬ顔をして病院に戻った。麻衣子を自分の子だと思っている師長なら、おそらく彼女の罪を被るだろうと予想したという。
「なんで、もう少しで上手くいったのに」と、賢一郎は怯えきった子どもぽい顔で言ったという。
それを聞いて、雪乃は吐き気を感じた。
* * * * *
捜査一課では不死身の阿久道という新たな伝説が生まれた。
雪乃の傷は大したことはなかったが、阿久道は手と顔に深達性二度の火傷を負い、足を骨折した。治癒には一ヶ月ほどかかり、跡が残るかもしれない。
髪が燃えたので坊主にした彼は凄みを増した。
捜査一課課長への説明を終えてから、病院に見舞いに行くと、富士島が見舞いにきていた。
「大丈夫ですか」
「たいしたことはない。ガスが充満した場所に飛びこんだだけだ」
「ガス?」
「二階には暖房用のガス栓があった。あの男は麻衣子を犯人に仕立て自殺したと見せかけようとしていたんだな」と、阿久道が分析した。
「そうですか」
「奴はナルシストだ。自己愛型精神疾患タイプだ。自分以外の者をすべて見下して、思い通りにならないと攻撃的になる。罪の意識が欠如。母親は気付いていたかもしれないが、おそらく、信じたくなかっただろう。おそらく性的には不能。裁判では自己弁護と謝罪を繰り替えすな。検察もエースを投入してもらわないと。……それにしても」と、阿久道が見つめた。
「よくやった。雪乃」
そして、例の笑顔を見せた。
「その顔、やめとけ」と、富士島が突っ込んだ。
「雪乃を褒めようと思っただけだ」
富士島と顔を見合わせ、雪乃は微笑んだ。警察に入って、はじめて仕事をしたという達成感をもてた。
窓の外には、小春日和の青い空が広がっている。
(つづく)
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