悪魔VS悪魔、DNA鑑定は教授には鬼門だった



 阿久道のDNA鑑定依頼を拒否する教授。雪乃は不信感をもった。なぜ、そこまで拒否するのだろう。


「いや、無理にとは言えませんが」


 おや、と思った。阿久道が簡単に諦めたのだ。


 その時、彼のスマホが鳴った。慌てた様子でスマホを取り上げたので、さらに不思議で、めったに彼の顔を見ない雪乃だったが、思わず隣をガン見した。


「花子」

「はい」

「代わりにメールの返事をしてくれ。今は返事できないと」と、彼がスマホを渡してきた。嘘でしょと思いながら、雪乃は表情を変えずに受けとった。


『簡易ベッドに奴の毛髪が落ちている。採取さいしゅ』と、書いてある。


 え?

 さすがに、今度は驚いて顔を見たが、阿久道はしれっとして向山に対している。メールの返事をうつ振りをしてから、簡易ベッドを見た。


 いやいや。

 どうやって、あそこまで行くんだ。それに違法だ。向山は拒否しているし、そもそも専門家だ。雪乃が髪を採取した段階で彼も気づく。


 もう無理、いくら阿久道の依頼だろうが、これは無理だと彼女は青ざめた。


「向山先生。実は私は細胞の研究に興味がありまして。40歳近くなると、子どものないことが実に寂しい。あの書棚にある研究についてお教えいただけないでしょうか」と、阿久道が立ち上がって書棚に向かった。


 阿久道警視正!

 彼の顔を再び見つめてしまった。子どもって、阿久道警視正が子どもって……。


 まったく想像できない。彼が赤ちゃんのオムツ替えするなんて、バブバブ言うなんて、いや、それは、ない! 一ノ瀬巡査部長が聞いたら大爆笑するだろう。雪乃は逆に背筋が凍った。


 向山が後を追ったので、雪乃も立ち上がった。


「体細胞からの妊娠は可能ですか」

「男性だけということかね」

「そうです」

「それは、今の段階では無理ですな。やはり女性の卵子を採取して、そこに……」


 雪乃はゆっくりと後ずさり、向山に悟られないように簡易ベッドに近づいた。


「ほほう、卵子が必要ですか。ところで、先生の研究しているES細胞は胎盤から取るのですか?」

「胚性幹細胞か。生殖細胞から多々……」


 向山は研究について聞かれると言葉にメリハリができる。表情もいくぶん晴れやかになる。雪乃はバッグからそっとティッシュペーパーを取り出すと簡易ベッドの枕をみた。洗ってないのか多くの薄く細い毛髪がくっついている。すばやくくるんでポケットに入れた。


「今日はありがとう」


 雪乃がソファに戻ると同時に、阿久道が彼の言葉を遮った。


 もう用はないとばかり、すっと立ち去る彼に慌てて雪乃は追った。後に驚いた様子の向山を残して研究室を出た。病院側の建物に入ると同時に、雪乃はほっとする自分を感じた。


 古くて暗い研究棟とは違い、病棟側は近代的で天井まで届くガラスの仕切り窓から明るく夕日が差し込んでいる。看護婦やスタッフがきびきびと働いていた。


 阿久道は病院受付にあるモダンな長椅子に腰を降ろした。雪乃は所在なく立っていると、彼はポケットから黒い何かを取り出した。携帯用の小型録音機だった。


「座れ」

「は、はい」

「あの男は発達障害だな」と、彼が言った。

「発達障害?」

「他人とのコミュニケーションが苦手だ。ひとつのことに、こだわりが強い。研究分野や芸術方面など特殊な分野で成功するが。つまり何かに深くこだわることで大きな成果を挙げて、その分野で認められているが、社会生活を営むことが難しい」

「私は、あの男が犯人だとしても驚きませんが」

「いや、違うね」

「アリバイがありますものね」

「アリバイがなくても、彼は違う」


 雪乃は首を曲げて次の言葉を待った。


「ああいう男は他人を殺したいと、それも拷問に近い方法でやりたいと思う程、人間には興味がないものだ。もし、研究というテーマがなければ、第一容疑者かもしれないが。幸いなことに彼には研究がある」

「それが発達障害の症状ってことですか?」

「そうだ、脳の一部が普通に比べて未成熟。おそらく、脳をスキャンすれば小脳に問題があるかもしれない。別の言葉で言えば、発達アンバランス症候群」

「向山教授は被害者が卵子がつくれない身体と知って、あんなことを」

「いや、それも違うだろう。彼ら夫婦が数年間、不妊であったことは間違いないだろうが、それを気にする男ではない」と、阿久道は断定した。

「卵巣未熟を知らなかったと推察するね。奴はなにか研究のために、妻を利用したんだ」


 殺害された汐緒は、そういう男と暮らしていたのだ。誰にも相談できなかったのだろうか。著名な大学准教授の夫と優雅な生活、ひとり娘、インテリア雑誌にでも掲載されそうな金のかかった邸宅。外部からは幸せに見えただろうに。


 教授と阿久道の違いはあるのだろうか。浮かんだ言葉に彼女は赤くなった。


「この録音もデータ化して入力する」


 阿久道が録音メディアを彼女に渡した。


「でも、オフレコと」と、雪乃が驚いた。


 お前はアホかという見慣れた阿久道の表情を見て、雪乃はそれ以上の言葉をのみ込んだ。


「毛髪は取れたか」

「はい。ティッシュに包んであります」

「よくやった」


 彼の下に付いてはじめて受けた褒め言葉だった。たった一言だったが、雪乃は嬉しかった。

第1章完

第2章につづく

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