悪魔の作戦にキモい教授は、今日も平常運転
阿久道は雪乃が手帳を片付けると、正面から向山を見据えた。
「これからお聞きすることは、オフレコだ。犯人逮捕のためにご協力いただきたい。この話は外部に漏れないことは保証する。警察内部にもだ。私の秘書は口が堅いので安心してよい」
そうか、だから小道具で私のメモが必要だったのだ。
向山は迷っているように見えた。もう一言で落ちそうだったが、まだ、落ちない。阿久道は何も言わない。
これは辛い……。
背中を冷たい汗が落ちるのを感じながら、黙れ自分、静かに耐えろと雪乃はツバをのみ込んだ。
「妻は妊娠のできない身体だ。それで、他人の卵子を受精することで麻衣子を授かった」
落ちたのか! 落ちたのか?
「奥さんは知らなかった」と、阿久道がたたみ込んだ。
向山は狼狽して、横を向くと両手を神経質にこすり合わせている。
「それは……」
「本当のことを話しなさい。今さら隠しても何の益もない。いたずらに捜査を長引かせるだけだ。殺害した犯人がいる。それは、あなたではない?」
あれ? 雪乃は阿久道の微妙な変化に気づいた。いつもより声が優しいのだ。
「僕を疑っているのか?」
「あなたですか?」
「違う」
「では、汐緒さんは知らなかった」
「そ、そ、そ、そうだ」
「どう彼女に知らせずに妊娠させた!」と、いきなり声を荒げた阿久道。
うわっ、
でも、そこまで踏み込むって、パワハラじゃないのか。
向山は何も答えない。
しばらく、また気まずい沈黙が降りた。阿久道は彼が話しだすのを待っている。時間は刻々と過ぎた。誰も声を出さない。真剣勝負は再び口を切ったほうが負けだ。
「ぼ、僕の研究は卵子の細胞分裂……。最先端の体外受精の研究に不可欠なものだ。体外受精の研究について詳しく説明するつもりはない。ただ研究用に取得していた卵子を培養して自分の精子を受精させ、理論上の研究から培養して、一番育っているものを寝ている間に子宮に入れた」
「え? そんなことをして目覚めるでしょう」
雪乃が思わず声をだしてしまった。
「睡眠薬を使った……」
そう言って彼は口ごもった。それから、顔を上げると阿久道を見た。阿久道は地蔵のように何も言わない。しばらくして、向山が話はじめた。
「一回では無理だったが、三回目が成功だ。一つの胚だけ移植するというのは、当時としては画期的なことだったが、公に発表することはできなかったのが残念だ。後にアメリカの大学で、このとき経験をもとに共同研究したことが、今の研究につながって……」
「奥さんに説明することができなかったのは、なぜです」と、阿久道が途中で話を遮った。向山の自慢話に興味がないのだろう。
向山はどうにでもなれという投げやりな声で言った。
「あの時、彼女から離婚をほのめかされていた」
「離婚?」
雪乃は驚いた。カトリック信者である汐緒が離婚を考えたのか。
「当時、僕はまだ大学講師だった。進歩のためにも研究を中断することはできない」
「彼女はクリスチャンだ。本当に離婚したいと望んでいたとは思えない。そういう言葉で、あなたに訴えたいことがあった。言外に訴えたかったことは何か」
雪乃は阿久道がこういう話し方ができることに驚いた。言外に訴えたいこと? それを彼が聞くのかとツッコミたくなる。
「そういう話はわからない。理解しにくい」
向山は顎を上げると、斜め上から見下すような視線をつくった。傲慢な態度であったが、阿久道より背が低いために、逆に
「家内も、そんなことを言ったが。論理的に説明して欲しいと言ったのだがね。女には難しいのかね。妻の言葉は論理とはほど遠いことが多い」
向山、
「それで、麻衣子さんは、この事実をご存知か?」
「知るはずがない……と思う」
「奥さんは、麻衣子さんが一歳の時に事実を知ったようだ」
「ほお」と、向山が驚いた。
「責められなかったか?」
反応もなく、返事もなかった。おそらく覚えてもないのだろう。
「奥さんが夜に家を開けることは?」
「以前、家内は
「いつだ」
「十年も前だ」
ふたりの会話は、すべて断定的で、居心地が悪いと雪乃は思った。このふたり、ある意味、似ている。
「それが……。精神科の病院をやめて良くなったようだった。研究は忙しい。家内が幸せにやっていれば特に問題はない」
「夜にいなくても」
「そうだ」
「麻衣子さんは家に一人でいることが多かったと聞いたが」
「家内は子どもの自立に関して、親から早く離れた方がいいと言った。僕は娘の教育は妻に任せていた」
まったく、なんという勝手のいい男だ。結局、妻を金ずるとして考えているだけなのだ。雪乃は怒りをおぼえた。
阿久道のメモを思いだした。
『稀に罪を犯しても何の良心の呵責もないのかと疑いたくなる人物がいる。元来、そういう感情がない人間。(向山雅仁ついてのメモ)』という報告書。彼は犯人ではないのだろう。その一方、彼のこうした性格が、今回の事件に何かの遠因があると感じた。
「ところで麻衣子さんは?」
「義兄の宜永のところに、ずっと厄介になっている」
「会っていますか?」
「ときどき電話で様子を聞いてる」と、彼は言った。嘘だと思った。
「話が出来るようにはなっている?」
向山は首を振った。
「ところでだ、宜永さんは、麻衣子さんの出自をご存知か?」
「いや、それは、ない。誰にも話していない……。妻は兄嫁と心を許し合える関係じゃないと言っていた」
「そうか。では、これが最後だが、一応の裏付け捜査として、DNA鑑定をお願いしたい」
「DNA鑑定?」
「そうです。唾液を少し採取させていただきたい」
「いい加減にしてくれたまえ」
この時、はじめて怒気を含んだ声で向山が怒鳴った。
(つづく)
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