悪魔のジョークに戦慄、嫌な夫、向山教授の再登場


 一ノ瀬は飄々ひょうひょうとした様子で雪乃のデスクに尻をあずけ、阿久道に言った。


「マザー天神ノ宮は学校では神のような扱いを受けているカリスマ修道女ですからね」

「その、マザーが、わざわざ電話をくれたのかね」

「そうです」

「おまえがばばキラーとは知らなかった」と、阿久道が言った。


 雪乃思わず眉をあげた。ま、まさか、阿久道警視正がジョークを言ったのか。


「警視正」

「なんだ?」

「こりゃ、いっちゃいかんと思いますがね。マザーに、そういう言葉は不似合いですよ」

「そうか。では、向こうが年下キラーか」


 一ノ瀬は首を軽くふると何も言葉を返さず、来た時と同様にふらりと立ち去った。


「スイカの分析を急げ」と、その背中に命令が飛んだ。


 彼は手を振って扉を閉めた。


「花子」

「はい」

「車の運転は?」

「できます」

「では、車両を借りてこい」

「はい。あの」

「なんだ」

「私服に着替えますか?」

「制服だ」と、彼が言った。


 資料を整理して間違えないようにクリップすると、急いでコートを取って車両貸し出し担当部署へ向かった。


 手配した車に乗り、駐車場で待っていると、黒いカバンを持って阿久道が現れた。


「カバンに書類が入っているから持て。これから会う人物との会話を手帳にメモする。行き先は……」


 阿久道に住所を言われて目的地が私立東府医科大学病院だとわかった。なぜ、彼が今日も自分を連れて行くのか不明だったが、なにか理由があるのだろう。


 阿久道の行動には無駄がない。すべてに意味があると、この数日で理解した。恐ろしい上司だが、刺激的だ。もし、過去の秘書と雪乃が差があるとすれば、すべてを肯定的に捉える、その性格だろう。


 身長一七○センチに体重はここにきて少し痩せて六十八キロ。大柄な雪乃は立っているだけで威圧感がある。


 骨ばった細い体躯の阿久道の背後に立つと身体が横にはみ出る。彼は見ようによってはイケメンだ。堕天使ルシファーのような魅力があって、黒いスーツ姿の悪魔に控える護衛官みたい、とガラス窓に映った自分を見て雪乃は思ったことがある。


 私立東府医科大学病院に到着すると、阿久道は真直ぐに向山准教授の研究室を目指した。研究室のドアを案内も乞わずに開け、よく透る声で言った。


「約束したものだが」


 顕微鏡を覗いていた男が顔を上げた。迷惑そうな顔をして、とっさに隠した。


「ああ、研究に没頭すると時間を忘れる。誰かね。約束していたのか」と、彼は上の空で答えた。視線はすでに自分のパソコンに戻っていた。

「データ打ち込み終わるまで、そこのソファで待ってて……」


 彼はそう言うと顕微鏡の操作をしてから、隣にあるパソコンに打ち込みはじめた。機関銃を打つような大きな音でキーボードを叩く。


 ソファに腰を降ろした。


 大きな机の上に几帳面に正確な間合いを取って筆記道具とノートが並べられていた。家族の写真はなかった。亡くした妻の写真がないことに気付いて、阿久道を見ると彼も同じ場所に注目している。


 隅の花瓶に枯れた花が活けられている。部屋が整然としているだけに枯れた花が場違いに思えた。


 かなり待たされたのち、向山はリクライニング椅子を移動して彼らの前に座った。


「失礼した」と、取って付けたように彼が言った。


 しばらく言葉もなくすわっていた。雪乃は命令通りに手帳とボールペンを出した。


「今日は、どういったご用件かね?」


 向山が言った。


「麻衣子さんのことだが」


 彼は首を傾げると、あからさまに嫌な顔をした。


「麻衣子が事件となんの関係があるかね」

「彼女は誰の子だ?」


 いきなりの直球勝負には驚いた。向山は、はっとした表情をして、すぐに能面にもどった。一瞬だったが、動揺したことは見逃さなかった。


「花子」

「はい」

「書類」


 雪乃は警察カバンから資料を取り出すと手渡した。阿久道は読む振りをした。


「十二月三日付けの柚木医師からの証言。被害者は実子ではないと知らなかったと」

「そう」


 本で半分ほど埋まった窓から薄い光が差していた。阿久道が言葉を選んでいると雪乃は察した。


「誰の子とは……」


 向山は表情を顔に出さない、側にいる者に居心地の悪さを感じさせる男である。そこは阿久道と似ているが、しかし、向山には、爬虫類に出くわしたような気持ち悪さを感じると雪乃は思った。阿久道にはそれがない。どこまでも清々しく嫌な男だ。彼を応援したくなった自分に驚いた。


「戸籍上は妻の子だ」

「そんなことを聞いているわけではない」


 圧迫感を与える話し方だ。それを知りながら、合理的に利用している。自分を連れてきたことも同じ理由だろう。つまり、圧力をかけたいのだ。


 向山は右足を苛々と動かしている。動揺していた。いや、そうであって欲しい。初対面だが、彼の人となりはデータで知っている。幼い頃から優秀で尊敬されることに慣れた彼には不快かもしれない。阿久道の相手をするはめになったとは、お気の毒にと、内心、痛快だった。


「これは捜査なのか?」

「そうです」

「で、もしですよ。僕がそうだと言ったら、どうなるんだ」

「花子」

「はい」

「手帳を片付けろ、メモはしなくていい」と、阿久道が命じると、向山に対して口を曲げて脅した。それが笑顔だということは雪乃にしかわからないだろう。


(つづく)

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