阿久道が動く、雪乃ががんばる
眼球の奥にダマができたような不快を雪乃は感じていた。何度か瞬きしたが直らない。ドライアイだろうか? パソコン入力ばかりしているからだ。
仕事は阿久道が持ってきた書類を分類してまとめるだけ。良い事といえば、誰よりも事件に詳しくなった事だろう。それほど、阿久道の情報収拾は秀でている。
今は柚木という産婦人科医について入力していた。彼から押収した汐緒の診療記録をデータ化。『不正出血』と、ドイツ語の診断書に日本語訳を付ける。阿久道の依頼だった。今朝の捜査会議後、彼は戻ってくると、いつものようにドサっと資料を置いた。そして、いつものように、そこには読みにくい字の手書きメモがある。
「花子」
「はい」
「ドイツ語はできるか?」と、阿久道が聞いた。
「無理です」
「役立たずが。ま、いい。被害者の診療記録を翻訳しとけ」
何が、まあいいのだろうか? ドイツ語はできないと言ったではないか。軽くため息を付いて、何とかする方法を考えた。この数日で、雪乃は阿久道の捜査方法がわかった。というより、絶対君主に対応する家来の処し方を会得した、という方が正しい。
診療記録を、警察病院に勤務する医師権藤にメールして教えを乞うた。こういう場合に阿久道の名前は融通が効いた。誰もが雪乃に同情的なのだ。
「そうだね、簡単に言えば、この患者だけどね。不正出血で診察を受けたということだ」と、教えてくれた。
「出産して数ヶ月後くらいから、少しずつ出血して止まらなかったらしい。所感によると、卵巣萎縮の病変があるので、もともと生理は非常に不順だったとある、病名は機能性出血。検査では癌の疑いはないとある」
「それだけですか?」
「それだけだな」
「病気に対して処方薬はなかったのですか?」
「うん、ないね。良心的な医者だな。出血による貧血を防ぐための鉄分を処方しているが、抗生物質を入れてない。こうした場合にプラボナールなど処方することもあるが、それもないね。変わりにデパスを処方している。精神的なストレスだと診断したようだ」
「プラボナールって何ですか」
「ホルモン剤だよ。ホルモン異常による出血に処方する薬だ。因にデパスは精神安定剤」
「わかりました。ありがとうございます」
向山汐緒の項に診断記録を入力し終わった頃、制服姿の板垣が入ってきた。彼は阿久道が不在中だからと遊びに来たようだ。缶コーヒーをデスクに置くと、いつもの軽い調子で笑顔を作った。
「オッハー」
「おはようございます」
「これ飲んで。ところでさ、ア・ク・ド・ウは?」と、リズムを付けた。
「さあ」
「まあ、居場所を知ってる人がいたら。オレ的には驚きだけど、もしかしてと思ったすよ」
雪乃は
「まだ、私は初心者マークです」
「へ、いや。もうベテランの域っすよ。うん、ヤバすごだね?」
「なにがですか?」
「今回の人事さ」
「私の、ですか?」
「そう、オタクの! 雪乃ちゃんのことさ。阿久道警視がさ、これ以上、ボケ秘書を押し付けたら後悔するぞ、と課長を脅してさ。それってマジヤバっしょ。で、課長が部長に泣きついてとか。うん。でさ、抜擢されたのが、ジャジャーーン、あんたっすよ」
「それ、買いかぶりです」
「いや、マジ。この部屋から怒鳴り声が聞こえないって、うん、そりゃ奇跡だって」
「よく、怒られていますが」
「知らないんすよ。阿久道が本気で怒鳴った時の恐さを。オレ的には、あの声を聞いただけで、怒鳴られる悪夢を見たんすよ。うん」
「板垣さんでもですか」と、言った瞬間、阿久道が入ってきた。
「おう、オレでもヤバいが、でも、いざとなりゃ……」
「いざとなると何だ」と、低いがドスの効いた声がした。
その瞬間、板垣は身震いした。
人の顔が、こうも劇的に変化できると、雪乃ははじめて知った。
板垣は蒼白になり髪が逆立った。強引に歯を見せて、媚びた笑顔を作り、振り向くと、彼は、「あっ」と掠れた声をだした。
「それで? 質問の答えを聞こうか、うらなり。もう一つ、ここに来ている理由とな」
「その……」
板垣は言葉を忘れたのか。「その」と、また繰り返した。
「板垣さんは私にファクスを届けてくれました」と、雪乃が助けた。
「なんの」
疑い深そうに阿久道が聞いた。
「被害者の医療記録です」
「用件が終わったら行け」
彼の言葉が終わらない内に、板垣は消えていた。
「それで」
「はい」
「被害者の医療記録」
「今、入力中です」
「要点を」
「はい。不正出血だそうです」
「それだけか」
「はい。警察医の権藤さんが、良心的な医者だと感想を述べていました」
「根拠は?」
「薬の処方の仕方だそうです。被害者には精神的ストレスがあったようだと。だからデパスという精神安定剤を処方されたようです」
「後でデータを見るが、細大もらさず、すべての情報を入れておけ」
「はい」
思わず、わかっていますと言いそうになり、寸前で止めた。余計な無駄口は怒られると悟っていた。
「それから」
「はい」
「くだらん正義感から出る嘘は二度と使うな」
雪乃の心が冷えた。先ほどの板垣の事を言っているのだ。
「申し訳ございませんでした」
ちょうど謝ったとき、一ノ瀬がぶらりと入って来た。雪乃は一ノ瀬を見ると、いつも黒装束の道化師を思い出す。因に、阿久道は正義を貫こうとする悪魔という矛盾した存在だと感じていた。
「警視正」
阿久道は無言だった。一ノ瀬は気にもせずに続けた。
「例の電車の監視ビデオ、ビンゴでした。確かに、彼女、頻繁に乗車していますね。夫のいない日に限って。それも遅い時間に」
「スマホの記録はどうだ?」
「それが、スマホを使ってないですね。契約会社から記録は取ったのですが、資料でも見ての通り」
「外出するがスマホを使わない……。つまり、相手とはスマホで話し会う仲じゃない。または、常に同じ場所にいる相手に会いに行った。あるいは、夫に用心していたか」
「そこは」と、一ノ瀬が口を挟んだ。「あの夫。全く妻に興味を持ってないようですがね」
「一ノ瀬。人を外見で判断すると、後で泣くぞ」
「お言葉を返すようですが、奇妙な奴です」
阿久道の頭脳に収まったコンピュータが、『010101』と常人とは別の働きをしている様子が手に取るようにわかった。
「そうかな」と、彼は上の空で答えた。
「ところで、彼女が駅でスイカかパスモを購入してないか調べておけ。買っていれば、その利用履歴で彼女の行動範囲がわかる。だめなら、駅の映像をしらみつぶしだ」
「わ、わっかりましたぁ〜〜。それから」
「まだ、なにかあるのか」
「先ほど、聖カタリナータの修道院から電話があって」
「例のマザー天神ノ宮か」
「そうです。マザーが柚木医師から聞いたところによると、妊娠した時に被害者は卵巣萎縮を知らなかったと」
「どういう意味だ」
「娘の麻衣子を実子と思っていたようです」
「裏付けは?」
「ふたりの意見です。マザーが当時、被害者と会ったときの印象と。柚木医師の所見です。ともかくマザー天神ノ宮は人物です。あの人に嘘を言えるほど柚木医師は剛胆ではない」
阿久道は返事をしなかった。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます