産婦人科医の秘密


 シスター島原が「あらあらあら」と慌てながらも、なぜかゆったりと去ったあと、マザーは鋭い視線を柚木医師にむけた。


「お医者さまの守秘義務は、わたくしたち聖職者も同じですからよくわかります。ところで、わたくしは先日、妙なことを聞きました」

「はあ」

「卵巣奇形というご病気のことですが、柚木先生は専門家でいらっしゃるから、お教えいただけるのではないかと思いまして」

「卵巣奇形ですか。女性は四十歳頃から、卵巣が少しずつ萎縮して、更年期になることは自然ですが……。マザーがお聞きになりたいことは、そのことではないでしょうな」


「先ほど向山さんが先生の患者さんだとお伺いしました」

「家内にも向山さんの病状については話しておりません。娘が聖カタリナータ初等部に入学して、家内から向山さんについての悩みを相談されたとき、おそらくは彼女側の事情ではないかと思いましたがね」

「つまり、先生は、ご存知なのですね」

「つまり?」

「彼女に、お子さまができないということですが」


 柚木は黙った。


「わたくしは、とても不思議に思っていることがあるのです」と、返事を待たずにマザーが続けた。

「十三年前の夏、汐緒さんは嬉しそうに赤ちゃんのことをご報告にいらっしゃいました。敬虔なクリスチャンである彼女が、ご自分の子どもではないと知って、どれほどの悩みを抱えたことでしょう。それなのに、あのように自然に喜びを伝えることができたということが、わたくしには納得できないのです」

「そうですか。やはりそうでしたか」と、彼は嘆息した。

「私が軽卒だったかもしれません。婦人科系の症状で、向山さんがクリニッックを訪ねてきたとお話しましたね。確か娘たちが一歳過ぎくらいの頃です」

「どういうご症状だったかということをお聞きしたいわけではないのですよ」

「そうですな。その症状とは直接的には関係のないことですが、病気が隠れている場合を考えて超音波診断や卵巣造影などの検査をしました」


 彼は紅茶を口に含むと、少し考えてから続けた。


「ご存知のように、彼女が先天的な卵巣奇形だということを見つけました。珍しい症例ではあるのですが……。ご主人が受精卵について最先端の研究をしておられるのは知っていましたので、学会では有名な方ですからね。お子さまがお生まれになったのは、ご主人の力だと思い、素晴らしい技術ですと奥さまにお話したのです」

「向山准教授は、たいへん優秀なかたなのですね」

「まあ、産婦人科学会で知らない人がいるとしたら、それはモグリでしょうな。私は向山博士のような研究者ではなく、単なる町医者ですが、勉強のために医学雑誌で博士の論文を読ませていただいています」

「わたくしも少し読ませていただきました。専門用語が多くてわかりませんでしたが」

「はは……」と、彼が笑って続けた。

「さて、向山夫人のように卵子が全くできない状況では、子宮萎縮が併発することがあり、たとえ卵子を提供されて体外受精をしても、ご自分でお子さんをお産みになることが大変に難しい。その診断書を参考のために見せていただきたいと申し上げたら、非常に驚いていらした」

「先生のお話では、向山さんは、ある症状でクリニックを訪ねて来られたそうですが、医学雑誌に取り上げられるほどの著名な夫なら、なぜ、夫にそのご病気を見ていただかなかったのでしょう」


 柚木は、そうかという顔つきで説明した。


「いや、よく誤解されるのですが。医学博士が臨床医とは限らないことを一般の方は知らないのですな」

「存じませんでした」

「向山博士のように研究分野に進まれた方は、その方面での知識は、私など及びもつかないレベルです。しかし、臨床医としての経験がないことも少なくないのですな。特に向山博士のような特殊な専門家は最初から医師免許を取ってない方もいます。つまり医師としての経験がないのです」

「それで汐緒さんは?」

「私が申し上げたことに、非常に驚いて、この子が私の子ではないのですか? と、カートで眠っているお嬢さんをご覧になっていました」

「ご存知なかった」

「おそらく……。私は彼女がそれを知らないという事実に驚きました。卵巣が完璧に萎縮していては、医学上、卵子を作る事は難しい。ご自分のお子さまということはあり得ない。私の知識では妊娠できる方法を知りません」


 マザーはこの事実に納得した。あの夏、やはり汐緒は事実を知らなかったのだ。


「麻衣子さんの出生の秘密のために、汐緒さんが奥さまに冷たくなられたとお考えなのですね」

「そうだとしか思えません。こういう事は大変に微妙な問題ですから」

「そうでしょうね」と、マザーは首肯した。


「実は、マザー、昨日ですが、警察の方がこちらに来られて、汐緒さんのカルテを押収していきました。なんでも保険組合の診察記録からわかったらしく。調べたいことがあるらしいのですが」

「そうですか」

「変なことを聞かれました。私と妻の車の車種と色を教えて欲しいというのです」

「おや、まあ」とマザーは応えた。

「そう、それで、なんとお答えになられたの?」

「一台は私用に使う黒のベンツと、仕事用にトヨタの白いバンを使っているのですが。なぜ、そんな質問を警察はするのでしょうかね」


 マザーは応えることができなかった。それで立ち上がると庭を見た。


「ご心配なされることはないと存じます。お寒い日に奥様をお庭にお連れして失礼いたしました。お風邪を召すと申し訳ございません。そろそろお暇いたします。今日は本当にありがとうございました」


 マザーは庭にいるシスターに帰ると伝えた。

 玄関先でふたりに別れを告げようとすると、奈美恵が声をかけてきた。


「マザー、こんなことをお話するのは、陰口のようではばかれるのですが」

「お話なさってください。今はどんなことでもお教えいただければ思っております」

「向山さまについてなのですが、夜になると、よくお出かけして、お嬢さんを一人にすることがあったと聞いています」

「そうなの。その理由をご存知なの?」

「よくは存じませんが、あくまで噂なのですが」

「遠慮はいりませんよ」

「どなたか他の方がいらしたとか」と言って、奈美恵は薄く赤面した。

「そう、ありがとう」と、マザーは応えた。

(つづく)

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