マリアさまの通信簿


 会議室で、マザー天神ノ宮はひとり表紙に金の十字架がついた青い手帳を操っていた。ドアが閉まる音で、彼女は顔をあげた。校長が立っていた。


「あのお子さまは少し派手なお嬢さんでしたね。学校では授業中にお隣の子にいじわるをなされて、わたくしが注意すると、はっとして振り返ったお顔を思いだしますよ。切れ長の目が美しく、きっと日本的な美女に成長なされると思っていました」

「はあ」と、校長はあやふやに答えた。マザーの話についていけないのだ。

「おわかりになりませんか。向山さんのお話です」

「今回の、例の」


 校長の頭には父母会をどう乗り切るしかない。マザーは皮肉な思いを抱きながら続けた。この校長は有能ではあるが、焦点を間違えることが多い。


 まあ、校長の気持ちも理解はできたが。


 昨今の少子化により一部のブランド校を除いて、どこの私立小学校も経営的には苦しい。このような事件は創立以来はじめてであり、もし、これが殺人事件になれば学校の存続にかかわるかもしれない。


「可愛がられて育った、少しわがままなお嬢さんでしたね。走ることがお好きな子で、いつもクラスで一番か二番でしたよ。ゴールをしたときの得意なお顔を思いだします。本当に、このようなことになるとは残念でなりません」

「そうでしたか。今は中等部の一年生ですね」

「校長」


 いくぶん声に力を入れると、彼はシャッキとしてマザーの顔をうかがった。


「お嬢さんの話ではございません。お母さまの向山汐緒さんのお話をしています」

「覚えてらっしゃるのですか?」

「生徒のことは、すべてこの手帳に記録しております」


 マザーの有名な手帳。別名『マリアさまの通信簿』と呼ばれる年代別に管理された数十冊の青い手帳である。しかし、実際はそんなものは必要ない。

 マザーは、どんな些細なことでも覚えている。


 八十歳になった今でも記憶力はずば抜け、その記憶で他人を脅かすことに、ひそかな楽しみを見いだしているのではと、他のシスターたちは怪しんでもいた。


「お嬢さんの麻衣子さんは無口な子でらしてね。お母さまの子どもの頃とあまりに違うので、わたくしは驚いておりました。未熟児でお生まれになられたとかで、クラスでもひと際お小さい子でした。とても大人しい子でしたよ」

「そうでしたか。私の記憶に残ってはいませんので、問題をおこさない大人しい子だったのでしょうな。よく覚えていらっしゃいますな」


 その言葉にマザーは口許を緩めた。


「向山さんのご実家は熱心なクリスチャンで、お祖父さまの代からのお付き合いですから。麻衣子さんの洗礼式にも出席させていただきましたよ」


 校長は神経質にうなずいた。


 その時、廊下を走る乱暴な足音が聞こえた。マザーが顔をしかめたのを見て、校長の顔に緊張が走った。

 会議室のドアが音を立てて開くと、警備員の森本が大声で叫んだ。


「大変です。大変なんです。外で、外で」


 同じ言葉を二回ずつ繰り返すと、「テレビをご覧になりましたか?」と興奮していた。

 想像しうる最悪の状況だ……。


 校長が立ち上がって会議室のガラス窓に近づくと、テレビカメラ数台が木立を通して見え、マスコミ関係者がマイクに向かって話している。ディレクターらしい人間がこちらを見た瞬間、彼は窓から離れた。


 森本が会議室のテレビをつけた。

『聖カタリナータ初等部で殺人事件?』

 テレビ画面にクレジットが踊り、学校の正面玄関が大きく写しだされた。


「どうして……」と、校長が諦めた口調で囁いた。

「すぐに教職員とシスター方全員に、お集まり頂いたほうが、よろしいようですね」

「森本さん、全員に会議室に集まるように伝えてください」

「わかりました」


 威勢のよい声が合図のように人びとが会議室に入ってきた。

 

 この学校では誰もがマザーの意向によって動く。時に、それは尊敬を通りこして宗教に近かった。入室して来た人びとは一様にマザーの顔を伺い校長へと不安そうに視線を移した。なにか言わなければ……。


「皆さん」と、校長は言葉を選ぶように話した。

「これからの対応で学校の将来が決まるといっても過言ではないでしょうな。慎重に対処しましょう」

「今、事務局の電話は鳴りっぱなしなんです。不安になった親御さんからの問い合わせが殺到しています」と、おずおずとした態度で事務局長が声をあげた。

「どう応えたらよいのでしょうか?」

「マニュアルは?」と、数学教師が言った。


 マザーは嘆息した。最近の若い教師は常にマニュアルはと聞く。


「校内で人が殺されたときのマニュアルなんてありますか!」


 ヒステリックな声で主任教師が叫んだ。一瞬、会議室が凍り付き、そのまま深い静けさに沈んだ。


『今日、学校は臨時休校になったようです。外部からは静まりかえった校舎しか見る事ができません。警察の発表では事件と事故の両面からの捜査になるということですが。著名な大学准教授の夫人が、なぜ学校で遺体となって発見されたのか? 謎が深まります……』


 テレビ映像からレポーターのうわずった声が聞こえる。


 外からは野次馬らしい人びとの声も漏れくる。学校の周囲に多くの人が集まっているのではないか。これはとんだ悪夢になりそうね、とマザーは考えた。


「今は何もわからないのです。外部の方々に余計なことを話されないようにしてください。そして、校長、明日にでも保護者会を開くと、ご案内なされた方がよろしいですね」と、マザーが提案した。

「しかし、何を話したらよいか」

「なにも」と、マザーは答えた。

「何も分かっておりませんから、そう正直にお話いたしましょう。わたくしは、いつもこう思っておりますよ。すべての事は神さまの御心でなされていると。こうした試練も神さまのお与えになった御計みはからいなのです。ですから、お祈りいたしましょう。きっとよろしいように、わたくし達を導いてくださいます」


 マザーはいつものように手を合わせた。


「ところで、明日は出かけてまいります」と、祈りの言葉のあとでマザーが言った。

「どちらに?」

「向山さんのご家族をお慰めにまいります」

「しかし、警察がご家族との接触をやめて欲しいとの依頼が」と、言いかけて校長は口をつぐんだ。


 マザー天神ノ宮がほほえんだからだ。


(つづく)

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