検視官富士島と悪魔の企み
「それで、DNA鑑定の結果は?」と、阿久道が聞いた。
雪乃は阿久道とともに富士島検視官の部屋にいた。雪乃が採取した向山の毛髪と娘の麻衣子の検査結果がでたという連絡があったのだ。
「わからないとさ」
「わからない。一番聞きたくない言葉だ」
「なにかのミスではないのか」
「どういう意味だ?」
富士島はデスクの椅子を回転させて彼を見ると、困惑の様子で言葉を選んだ。
「このふたりの検査結果だが、同一人物だそうだ」
「同一人物とは?」
「これは向山準教授のDNAだそうだ」
「そんな馬鹿なことが……。検査途中でミスはなかったのか?」
「検査は俺も細心の注意をしているところを確認した。だから、ミスはない」
「つまり採取にミスをしたか?」
「そういうことかな」
「しかし、それは不自然だ。麻衣子の唾液なのは確かなはず。マザーは向山雅仁と接触してはいないのだから。とすると、簡易ベッドの毛髪が娘のものだったということか? しかし、それは……」
阿久道が、こちらを振り返った。雪乃はメモするふりをして顔を下げた。
「一ノ瀬に研究室の簡易ベッドに麻衣子が泊まることがあるか調べさせておけ」と、彼は言って、再び富士島に顔を向けた。
「親子でDNAが一致する可能性は?」
「それはない」と、富士島が細長い身体を震わせ鼻で笑った。
阿久道の眉間にシワがよった。
「もし、これは仮定だが」
「おや、仮定は嫌いだったろう」
「ああ、だが、同じだった場合、その場合に考えられることはあるか? 父親は細胞学で有名は教授だ。子どもは体外受精で生まれているが、なんらかの実験結果という線だ。つまり人体実験だ」
「DNAが一致するケースで考えられるのは、輸血した場合だよ。しばらくは、そのDNAが体内に残る。大量にどちらかの血液を輸血した可能性は? それも採取した時間で」
「ありえない。二人は事件後も別々に暮らしている」
「そうか。じゃあ、最終手段だな。君のことだ、わからないでは納得しないと思ってね。細胞学の世界的権威で金子博士という人物に連絡しておいた。再検査を彼に依頼してあるから、会ってくるといい。どうも別の意見があるらしい」と、彼は大学研究室の名前を告げた。
「金子博士。それで、その結果は?」
「連絡しろよ。その電話番号に。西南医科大学の研究室だよ、もう結果が出ているらしい」
言葉の途中で阿久道は去っていた。富士島は首を振ると苦笑いした。
「阿久道」と、雪乃に聞こえているとは気付かず彼は呟いた。「無理をしすぎるなよ」
*****
その夕暮れには西南医科大学内にある研究室に阿久道とともにいた。
「一ノ瀬から返事は?」
「研究室に娘の麻衣子さんが泊まったことはないと。大学を訪れたこともないそうです」
「裏付けは?」
「国松師長にも確認したそうです」
阿久道の返事はなかった。いつものことなので気に留めなかった。
そのまま大学に向かった。目当ての研究室はすぐに見つかった。博士の名前が手書きタヌキのイラスト付きで飾ってあったからだ。
ノックするとドアが勢いよく開き、タヌキが、いや、シワの多い白衣を着た太った男が悪戯ぽい表情で顔をだした。この人が金子博士だろうか。初対面だが、雪乃はすぐに好感を持った。周囲に明るい気分が伝染していく、体温が高そうな人物だ。
「よく来られたな。富士島君から連絡があったよ。金子だが。あんたが阿久道さんかね」
博士はふたりを迎えると、ぶっほほと高笑いした。
「まあ、どうぞ、どうぞ。その辺のものをどかしてお掛け下され」
白衣に包まれた巨体を器用に動かして、金子は椅子に腰を降ろした。ボサボサの白髪混じりの髪、顎ひげに埋まった唇は形をなさず米粒のようなものが右端についていた。雪乃は指摘しても良いのか迷った。
「この度は、ありがとうございます」
阿久道が礼儀正しく言ったので、別の意味で感心した。
「ほっほっ、では、本題に入りましょうかな。それにしても、今回の依頼は非常に興味深かったですぞ。いや、全く興味深い。これが事実とすれば衝撃ですな」
「どういう意味ですか」
「まあ、焦らず濁らず、ゆっくり聞いていただこうか」と、彼は身体をゆすりながら、芝居がかった声で言った。
阿久道に焦るなとは、雪乃は思った。博士は彼の異様にせっかちな性格を知らない。
「さて、ところで、通常の鑑定で結果を特定することが難しかったということじゃが、そりゃ、当然でしょうなぁ。さて、衝撃の結果のまえに……。まず、ここで、講義を聞いていただこう。寝てくださるな。最近の学生はすぐ寝るくせがついてな。講義の間に寝たヤツを起こすテクニックがワシの特技じゃ。たとえ警察の怖い警視正といえども、このペンがいきますな」
そう言って、金子博士はペンで刺す真似をして笑った。
雪乃は、いつ阿久道が爆発するか、はらはら見守った。一瞬でこの特異な人物に好感を持ったので、余計に心配だった。
「では、まず、男と女の遺伝の違いからじゃが、ミトコンドリアというものをご存知かな?」
「知っている」
「ふむ、聞いたことがあるというところじゃな」
金子博士の声は、とても残念そうだった。
「ふむ、さて、ミトコンドリアゲノムというのはミトコンドリア、おう、舌をかむ命名だ。その遺伝子のひとそろいをミトコンドリアゲノムというのじゃな。ミトちゃんは面白いことに母性遺伝、母親から子どもにしか遺伝しない。
「では、女の人にしかないのですか?」と、雪乃は思わず割って入り阿久道に睨まれた。
「いやいや、そういうことではないんじゃ。男性も持っておるが、男性側のミトちゃんは遺伝しないというだけじゃの。さてじゃ、警察では、おそらく通常の親子鑑定、つまりDNA指紋法を使ったのじゃろうが」
「それはミトコンドリアの鑑定とは違うのか?」と、阿久道がたずねた。
「ほう、優秀じゃ。ミトちゃんの名前をいっぺんに言えたの」
阿久道があきらかに皮肉を込めて頭を下げた。
「そう、違う」
「つまり、科学研ではミトコンドリアは調べていないと」
「そういうことじゃの。だが、ミトちゃんで調べると、このふたりの被験者は母が同じということになる。問題は」と、彼は顔を向けた。
「ふむ、ここからが本題じゃ。問題はテロメアだよ。テロメアとは別名『命の回数券』とよばれておる。テロメアという細胞の構造を調べると面白いぞ。さて、この違いがわかるかね」
阿久道は何も答えなかった。
(つづく)
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