細胞学の権威は、悪魔をイラつかせる
阿久道の右足が貧乏ゆすりしているのを雪乃は目の端でとらえた。博士は陽気でいい人だが、雑談が多い。
「別の言葉では細胞時計が異なるとも言える。この二つの被験者は、テロメアも同じであった。ふたりの人物からとった D N Aであるならば、と仮定した場合、ありえん結論しかない」
「どういうことだろうか」
阿久道の言葉が聞こえなかったのか、博士はそのまま講義を続けた。
「この子は男の子かの?」
「いえ、女の子です」
「ふむ、非常に興味深い。ありえん事態がおきとるようじゃ。受精卵を使ったろうが。方法を確認したいもんじゃ。まあ良い、まあ良い。ありえんことばかりじゃ」と言ってから、博士は次の言葉をさらりと言ってのけた。
「一般にクローンを作るときは……」
「クローンって、その、クローンというと」
雪乃は、驚きのあまり言葉がもつれた。
この風変わりな博士といい、その上にSFのような話。通常捜査をしているとは思えない。
「そう、クローンじゃ。もし、このDNAが間違いなければ、他に結論はない。この子は父親のクローンとして生まれたようじゃの。そして、女の子であるはずがない」
「どうして、それがわかるのですか?」
「遺伝子配列のパターンが、このふたりは瓜二つじゃからの。通常はありえんことじゃ。ただし、クローンは性別を別にはできん」
「外面的に父親とそっくりではないのですが」
「それは問題ではないぞよ。多くの人はクローンというものを誤解しておる。遺伝子情報が同じということで完璧に似るわけでもない。そして、女の子の容姿をしているとすれば、そっくりとはいかんじゃろう」
博士は机の上を探り、羊の写真を取り出すと一人で眺めた。
「以前に、どこの国だったか、イギリスかアメリカか、クローン猫を誕生させたが、親クローンと毛並みが違ったということじゃ、そのためにペットビジネスとして成り立たなかったらしい。金もかかりすぎるしのう。生育環境など、さまざまな要素で親検体とは個体差があるんじゃよ」
雪乃は博士の手のなかで揺れる羊の写真に注意を惹かれた。白い短い毛の痩せた羊の写真である。
「ともかく、このDNAはまちがいないのかね」
「花子」
「私は、とても慎重に髪の毛を保管して、それからマザーからいただいた唾液をお渡ししました」と、彼女は怯えながら答えた。
ありえない。厳格に管理して渡した。間違えるはずはない。
「もし」と、阿久道は言った。
「まちがいなく、別々のDNAを検査したとする。その場合の考えうる結論は」
「クローンしかなかろう。これを成功させた男は科学者としての誘惑に逆らえなかったようじゃな。いわゆるマッドサイエンティストという類いの人間だ。困ったものだ。……が、はてさて、これは大変な領域へと発展したようじゃな」
博士は阿久道と視線を合わせた。
「ことは重大な生命の倫理問題を含んでおる。公表するわけにはいかんじゃろうて、もし、その誰かさんが生きておるならな」
クローンという言葉から、ずっと口に手をあてていた雪乃は狼狽して阿久道の腕を取り、はっとして離した。
「本当に間違いはないのか?」
阿久道がわかっていることを確かめるように、もう一度たずねた。彼としては珍しいことであった。
「そうじゃな。念のために再度検査をしたが、結果は同じじゃ。おそらく」と、博士は続けた。
「じゃが、百パーセント確実ということは、この世の中にはないとも言える。さて、ことはもっと
無意識に首を振って、その直後に阿久道と目があい、失敗したと思った。
「ほうか、ほうか。それじゃあ、わしの退屈な講義を、もう一度、お聞かせいたそう。といっても、実はわしも忘れておって調べておいたんじゃがのう。一九九七年に、羊のドリーが誕生したことを知っておりますかのぅ?」
博士は、はじめて手にもった羊の写真を顔の正面にあげた。
「当時、このニュースで世界中が大騒ぎになった。その後、日本でも倫理委員会ができての、その会議に専門家とか識者とか言われて出席したわい。そこでじゃ。協議の結果できたのが、二○○○年のクローン規制法じゃ。ご存知かの」
大きくうなずいたので、今度は博士の失望を買ったと気がついた。しかし、彼はそれを無視して先を続けた。
「クローン規制法は、クローン胚を人や動物に移植してはいかんというものじゃ。有り体に言えば、クローン人間を作ってはならんという法律じゃな。これに抵触すれば懲役及び罰金が科せられる」
どうしようと迷ってから、おずおずと返答をすることにした。
「ということは、彼が抵触している可能性が大きいということですね」
慎重に向山准教授の名前は出さなかった。阿久道の顔を見る事はやめた。博士が満足気にうなずいた。
「そういうことだが、しかし、この法律が成立したのは二○○○年じゃ。その子はいくつだったかの?」
「十三歳です」
「そうか」
しばらく沈黙が支配した。刑法には事後法という法律があって、罪を犯した後で作られた法により、過去までさかのぼり処罰されることはない。しかし、この場合、事後法はあてはまらない。
「ふむ」と、博士は言った。
「ふむ、まあ、この世界ではドリーが生まれる前から、人間についても、やろうとすれば可能という話はあったんじゃが。いろいろ解決せねばならない問題が多すぎてのう。まあ、倫理問題は遠く天の上に置いといての話じゃが、これをやった人物は恐ろしく優秀なことは間違いない。どういう奴かは聞かないでおいたほうが良かろう」
「証明されれば、彼は罪に問われる」と、ぽつりと阿久道が呟いた。
「そういうことじゃな、その男は罪には問われることじゃな……。が、まあ、困ったことかもしれん」
「なぜ」
「つまりじゃ、生まれた子が生存して成長しているということが、公にでもなってみなされ。その子は格好の見せ物になって、マスコミが大騒ぎですぞ。そりゃあ、想像しただけでも大変な騒ぎじゃ。それに女の子であることが不思議だ」
「クローンなら男であると」
「それは間違いない」
阿久道が深く物思いに沈んでいると思った。しばらく、周囲を沈黙が支配した。
「いろいろ、世話になった」と、阿久道が言った。
「いつでもいらっしゃれ」
そう言って、彼はぐほほっと笑った。阿久道は軽く唇を曲げただけだ。
「ほう、ほう……。ところで、これを話したものかどうかじゃが。クローン羊のドリーの最後を知っておりますかな?」
「いいえ」
「そうか……」と、彼は少し間を置いてから付けくわえた。
「羊のドリーは短命でしてのう。ドリーの血液から染色体末端部を取り出したのじゃが、普通の羊より短かった。ドリーが短命だった理由だ……」
「お世話になった」
「おや、テロメアの講義を聞きたくないのかね」
「別の機会に」と、阿久道が微笑んだ。というより、いつものように威嚇するように顔の筋肉が動いた。
「おまえさん。その顔」
「はあ」
「恐いぞよ」
は? それだけは、誰も言ってはいけない禁句。雪乃は耳をふさいで阿久道の爆発を防いだ。
「職業上の手です」と、彼が静かに答えた。
博士が再びぐほほっと笑った。
「これもじゃよ」
彼と別れた後、今日聞いた話は誰にも言わないようにと釘を刺された。言える話ではないと雪乃は思った。
のちに、阿久道は米国へ問い合わせ、幼いころに、麻衣子が性転換手術をしている事実を掴んだ。雪乃は、その事実に吐きそうになった。
*****
雪乃がひとり署にもどったところ、カウンターで板垣に捕まった。
「雪乃さん。さっき、すごい事があったすよ」
「なんですか?」
雪乃は先ほど聞いたばかりの事実を持て余していた。軽口に付きあう心境ではなかった。
「見つかったんすよ。例の車、ついに」
「えっ」
「ほら、被害者を乗せた白いバン」
雪乃はぼうーとした表情で彼を見た。
「ぼんやりしている場合じゃないっすよ。ほら、目撃情報から出ていた白いバン」
「ああ、あの」
「そうあの車っす。マジ驚き。病院の車だったんすよ」
病院って? と彼女は珍しく苛ついた。どこの病院かわからないじゃないと思い、その苛つき方が自分でも阿久道と似ていて、ぞっとした。
「病院ってどこの?」
「ほら、被害者の夫が勤める東府医科大学病院。驚いたっしょ。マジ、びっくりじゃね? 大学病院にある白いバンを全部調べて、病院の車だから、どの車でも血液反応がけっこう出るんで、その血液を害者と特定するのに手間取ったっすよ。そうしたら、ビンゴ! 一台の車が害者の血液と一致したっす」
「じゃあ、あの病院の職員に犯人がいるってことね」
「そっ。やっとわかってくれたっすね」
捜査一課にほとんど人がいない。皆、それで出払っているのだろうか。
「阿久道警視正に、このことは」
「たぶん、一ノ瀬さんあたりが知らせているっしょ」
だから、署に帰らなかったのかと思った。
(つづく)
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