悪魔の怒鳴り声と女を滅ぼす美しい男
急ブレーキを踏んだ阿久道。その様子で上の空なんだと気付いた。彼は車のハンドルさばきが下手ではない。むしろ、うまい。が、今は事件に集中して運転を忘れているのだ。いろいろな意味で職人気質なところがある。
「運転を代ります」と、雪乃が珍しく強気にでた。
「うるさい」
「変ります!」
阿久道はフンっと鼻で息をすると、ふいにシートベルトを外し、後部座席に前転した。
え? 目が点になった。まさか、運転席からの前転なんて、どうやったらできるのだ。あまりに素早くて、どうして彼がいま後部座席にすわっているのか理解できない。
「行け」と、阿久道が命じた。
雪乃はハザードランプを押して助手席から運転席に変わろうとした。
交差点の信号が青に変わり、後方の車がクラクションを鳴らしている。それは執拗で、他に車はなく追い越し車線で抜けるのにわざとらしい。雪乃は運転席に変わろうとしたが、オタオタと動作が遅く、シートベルトを外すのにも苦労していると、窓を乱暴に叩かれた。
ヤクザ風の男だった。
「すみ……」という言葉を発する途中で、後部ドアの窓が開き、阿久道がいきなり怒鳴った。
「じゃっかああしいわぁ!」
腹の底から出る
はじめの頃、板垣が言っていた阿久道の怒鳴り声って、このことなのかと雪乃は思いあたった。
「もっ、もうし訳ございません。
それを尻目に雪乃は運転席に移動して、アクセルを踏んだ。バックミラーに、交差点で腰を90度に曲げ最敬礼する男がうつり、後続車が恐る恐る彼を抜いていた。
ナビ通りに運転していくと、県立音楽学院大学大学院に到着した。
駐車場で停車してすぐ、阿久道はとっとと降りて先に歩いていく。彼の後を追い大学の事務局に向かった。
「警察のものだ」
「は、はあ」
「水越冬馬という学生に面会したい」
「ああ、あの水越さん……」と、すぐに事務局の女性が返事をした。それで彼はこの音大でも有名な存在なのだと気づいた。普通なら、事務局が個々の学生を知るはずがない。
「弦管打楽器専修科のぉ……、レッスン室に予約が入ってます、レッスン室は……」
事務局で教えられた建物に入ると、均一に並んだ部屋から練習中のピアノや弦楽器の音が聞こえてくる。こういう世界もあるのだと雪乃には新鮮だった。
水越の借りているレッスン室は二○三二号室、阿久道がドアを開けた。
彼はバイオリンで高音部のビブラートを鳴らしている。同じ箇所をなんども確認するかのように繰り返していた。
背の高いシルエットが朝の光に浮かび、まるで天上界の神のようだ。黒いタートルに黒いズボンを穿いた姿は人間離れした魅力があり近寄りがたい。
「失礼」と、阿久道が言うと、彼は神経質な表情を浮かべてから、手を止めた。
目の焦点が合わないかのように、ぼんやりした表情で顔をあげ、それから、バイオリンを下ろした。
その顔……。
雪乃は、どぎまぎして少し後ずさった。男に綺麗という言葉は褒め言葉にならない。が、端正とか、秀麗とか、美しいとか、そうした単語がぐるぐる巡ることを止められない。
「今、練習中なんですが」と、彼が言った。
その声が宙に浮かんだ。低い、戸惑いがこめられた声で、これだけで死ねると雪乃は思った。
「警察のものだが」
阿久道の声がいつもより優しく聞こえたのは、彼の顔のせいだろうか。
水越は返事をしなかった。しばらく、考えるように顔を傾け、それからバイオリンをケースに入れた。
「なんでしょうか」
「向山汐緒さんについて伺いたい」
いいぞ、警視正。もっと相手の言葉を誘って声を聞かせて欲しい。雪乃は心から応援した。
「向山さん……」と、呟いた声が他人行儀で、知らない人に対するニュアンスがあった。一ノ瀬から名前を聞いてるはずだが忘れているようだ。彼は「知りません」と、言った。
「そう、ところで、そのバイオリンはシャノー?」
「バイオリンですか?」
「そう」
「いえ、シャノーではないですが……、ああ、そうか」
そう言って、彼が微笑んだ。微笑んだのだ。彼が微笑みを浮かべたのだ。
「わかりました。思い出したくないですが、でも彼女のことですね。僕のバイオリンを聞きに来ていた。確か亡くなったとか」
「そう。彼女が買ったはずのシャノーが自宅にない。あんたは知っているか?」
「そう、それは困ったな」と、呟いた。
彼はグランドピアノの横に置かれた椅子に座った。それからピアノの蓋を開けると、鍵盤に指をすべらした。
なんの意味もない音階が彼の指の下で息を吹きかえす。
「シャノーは自宅にあります」
「なぜ」
「彼女がいきなりマンションに現れて、父親の所有するものだけど、処分するから貰って欲しいと。その前にもバイトしている時に来て、そう言われたのですが、しかし、断った」
彼はため息をついて、そこで言葉を止めた。それからピアノに向かうと小曲を適当に弾き散らした。髪が額に落ち、横顔に陰影ができた。雪乃の口から思わず吐息をもれた。
「なぜ、断ったのかね」
阿久道の声が不協和音のようにピアノを遮った。雪乃は彼の口を塞ごうかと本気で思った。
水越は答えなかった。
最初は適当に左手で弾いていたが、そのうち、両手で弾きはじめた。それはショパンの『革命エチュード』で、流れるような左手の音階に、右手の和音が重なる勇壮な曲目だが、彼は意図して柔らかく弾いた。こんなに切ない音を聞いたことがないと雪乃は思った。もし途中で制止したら、本気で阿久道に逆らおうと思ったが、彼も黙っていた。
水越は一章を軽く弾いてから、それから指を止めた。細くて繊細な長い指……。あの指が私の髪に触たら……、ありえない妄想をはじめて雪乃は慌てて首を振った。ふと阿久道が見ているのに気付き顔を伏せた。
「彼女、変でした。マンションに来てシャノーを押し付けると、どうしても一曲聞かせて欲しいと言われ、どうしようもなくて、それで、部屋に入れて弾きました。それで、やはり貰えないと言うと、急に妙なことを言われて」
「なに?」
「はっきりと言葉が聞こえなかったんですが、素敵でしょうとか、なんとか、それから、いっしょに死にましょう、とか。それが運命なのとか。私たちの運命。それしかもう方法はないでしょう。とか言って」
「それで」
水越の視線が雪乃とぶつかった。それは助けて欲しいと言っていた。もちろん、助けるしかないと思ったが、行動に移すことができない。雪乃はいつものように、ただ茫然と視線を返すだけの無力な自分に苛立った。すもう部屋と呼ばれている自分に苛立った。
「彼女、部屋にあった果物ナイフを取ったんで、それで、驚いて逃げようとしたら、いきなり自分の身体に刺したんです」
「えっ」と、無意識に声が漏れた。
「それで、どうした」
「それで、驚いて、どうしていいかわからなくなって。焦って跳び付いてナイフを……」
「取り上げた」
「そうです。血が流れて、そうしたら、彼女、気を失った。それで、匿名で救急車を呼んだんですが。ちょっと恐くなって、マンション前の道路まで連れ出して、そこに置いた。関わりたくなくて」
「その後は」
「知りません。部屋から救急車が立ち去るのを見ていました」
「それはいつの話だ」
「十月……。確か、十月十六日か十七日頃だった」
「その後、彼女に会ったか?」
「いえ、一度も」
「そうか」
「彼女、その時は死んでなかったんだ。よかった」
「そんな、当てつけの自殺未遂で人は死なない」
彼は安堵したような表情をした。
「心配していたのか」
「まあ」
「で、報道で彼女が死んだことを知ってどう思った」
「あれが、あの女性だとは知らなかった。名前も知らなかったので。あとで刑事さんが来て、それで知ったのですが」
「そう。ところで、彼女はコンビニにはいつも一人だったか」
「そうでした」
阿久道が部屋を出たので後に続いた。部屋のドアを閉じると、再びバイオリンの音色が聞こえた。
「花子」
「はい」
「一目惚れか」
「いえ……、そんな。まさか。向こうがどうせ……。あの、私なんか……」
返事になってないと自分でも思った。
「ああいう男は困ったものだな」
「ど、どうしてですか?」
「女に影響を及ぼす強烈なホルモンを自覚していない。おそらく、これからも寂しい女たちが、あの男に吸い寄せられ愚かな行為を繰り返す」
「それが、彼の罪でしょうか」
「罪だよ。自覚して予防することをしない。全く無防備だ」
「確かに、路上に置きっ放しってひどいですけど」
「まだ、19歳だ。子どもだよ」と、阿久道が言った。
まだ、19歳、確かに成人前だが、彼の近くで感じた特殊な感情を思い出すと、離れても身体が熱くなる。阿久道は黙ったまま、葉を落とした街路樹の道を歩きながら、ぽつりと言った。
「それが、幸せだろうか」
雪乃は彼の顔を見つめた。いつもは顔を見ると緊張するが、その時に限って距離が縮まった。ある意味、阿久道も彼と同じ種類の人間なのかもしれない。恐ろしいほど頭が切れるということは、普通の人とはまた別な世界が見えているのだろう。
「でも、今回の事件と関係はなさそうですね」
「さあ、どうだか。あとで消防署に裏付けに行ってこい」
「はい」
消防署では確かに汐緒を救急車に乗せ、本人の希望で東府医科大学病院へ搬送したという話を聞いたが、それはのちの話。
(つづく)
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