悪魔に囚われた娘を心配する母


「毎日、夜遅くまで嫁入りまえの娘が、度が過ぎていると思うのだけど……、お母さんね、心配しているのよ」


 休日の朝、朝食に起きた雪乃は母の不機嫌に直面した。確かに、阿久道についてから定時に帰ったことがない。定時どころか午前様である。母は過敏に心配性だ。しかし、それを娘に見せることは滅多にない。我慢強いところは似たもの親子。そんな母が愚痴を言うのは余程のことだった。


 しかし、嫁入りという言葉は痛かった。


 母がどう考えようが、きっと一生結婚はできないだろうと諦観している。小学生の頃から身体が大きく、男の子にからかわれた思い出しかない。成長するに従い、華奢でこびを売る子は男性に大切にされ、自分は、「デカッ」と言われ続けた。男たちは無神経で、この上なく残酷だった。


「いくらお仕事だと言っても。いい加減にしないと身体を壊すわよ」

「心配いらない」

「そうは言っても」


 首を回すと、骨がぼきぼきと音を立てる。


 ここ数日は身体全体が重く疲れが翌朝まで取れない。丈夫が取り柄と思っていたが、さすがに参った。しかし、それは自分だけではない。捜査一課全員の疲労がたまっていた。


 だからこそ弱音は吐けない。あのチャラ男の板垣でさえ、ビデオ検証に付き合って徹夜した。ただビデオを見ながら検証する、気の遠くなるほどの根気仕事。その結果が上がれば士気にも影響するのだが、まだ先が見えない。


 テレビのワイドショーでは警察の無能とか、初動捜査のミスとか、勝手な報道がされている。そのため上層部からのプレッシャーもきつい。


喫緊きっきんの事項である。署全体で必ず犯人逮捕に結びつけたい」が、署長の毎朝のあいさつとなった。

 そんな時、被害者の悲惨な写真がネットに流出。それが一層、署内に影を落とした。


 雪乃は阿久道の捜査に期待していた。それは、誰もが同じ思いで、阿久道に反発を感じる者も、『神頼みじゃない、悪魔頼みするから、なんとかしてくれや』という板垣の言葉にみなが同調する。このままでは年末年始は返上だろう。


 警察学校で最初に唱える言葉は『誇りと使命感を持って、国家と国民に奉仕すること』であった。


 雪乃は、この言葉に熱い思いを抱いていた。しかし、なんの成果もないまま、時間だけが無闇に過ぎていく。徒労という言葉が心の奥におりのように溜まる。ただの安易な決まり文句に陥った。


 翌朝、警察署では眼を真っ赤にした板垣が、「チェース」と帰るところだった。


「夜勤明け」

「そっす。ヘビロテ、じゃ、また」


 言葉を出すのも疲れたという表情で彼は去った。部屋に入ると阿久道がパソコンを見ている。この人は寝ているのだろうかといぶかしみながら挨拶した。


「おはようござい……」という言葉が終わらない内に彼の指示が飛んだ。

「フォルダ内。B―九十八。動画」

「はい」


 共有フォルダに新しく動画ファイルが追加されていた。B―九十八とは九十八番目のファイル。映像をクリックすると、コンビニでの映像だった。画面下に十月十五日二一時八分とある。


 男性が汐緒からバイオリンを受取っている。汐緒が聞き取りにくい声でなにか言った。


 男は水越という音大生だろう。

 彼が珍しそうに楽器を眺め、それから、弦を調節した。弦をかき鳴らす雑音が聞こえる。


 汐緒はカウンターの向こう側に立っている。もう彼女はこの世にはいない。しかし、この映像のなかでは、自分の運命も知らずに立っている。その姿には物哀しさを覚えた。


 次の瞬間、ふいに華麗に重なる弦の音が響いた。弦音が重層に重なり、中音の心に染みる音色が聞こえる。彼女は知らなかったが、それはバッハの無伴奏バイオリンパルティータ第2番「シャコンヌ」だった。


 水越の背中しか見えない。いったい、こんな音を出せる人はどんな顔で演奏しているのだろうと興味がわいた。


 いつまでも聞いていたいが、いきなり曲が終わった。

 汐緒がなにか言った。彼はバイオリンを返して、それから、レジに戻った。ふたりの声は小さく、周囲の雑音に消されている。


 彼女は返されたバイオリンを所在なく持ったまま、その場に立っていた。その時、コンビニのドアが開いて、若い女が入ってきた。


『いらっしゃっ』と、男の声が途中で止まった。急に声に親しさが交じり、『おう、来たの』と笑いを含んだ。


 髪の短い背の低い女で、男と並ぶと背の高さが子どもと大人くらいに違った。ふっくらとした肢体したいに雪乃はつい自分と比較した。自分がこの程度ならと。その女は小柄で可愛く、そして、理知的に見えた。その向こう側で驚いた表情の汐緒が彼等を見ていた。


「花子」

「はい」

「その子、どう思う?」


 阿久道は言葉が短い。行間から彼の言わんとすることを推察しなければならない。最初は難しかったが、細心に注意する事で可能になった。


「彼女ですね。この水越という男性の彼女だと思います」

「そう、だな。次の画面。九十九」


 雪乃はファイルを開いた。


 水越は若い女性と話していた。それもとても親しげに。唇と唇の間が五センチくらいにしか離れていない。それは少し前にキスしたかのように紅潮している。時計を見ると、同じ日の十分後である。雪乃が注目したのは、とぼとぼした足取りでバイオリンを持ったままコンビニを去る汐緒の後ろ姿であった。


 若い女の子のほうは、しばらくコンビニにいると「明日また」とでも言うように手を振り帰った。水越は、それから一時間ほど店にいて、店長と交代して店を出た。


「変ですね」と、雪乃は気付いた。

「なに?」

「被害者がコンビニを去っている時間です。午後九時半……」


 雪乃はデータに入力した汐緒の電車で帰った時間を取り出した。


「この日はスイカデータで電車で帰った時間がないです」

「よく気付いた」

「この後、どうしているのでしょう」

「そうだ、帰ってない」

「それは」

「どうやって家に戻った」


 気がつくと阿久道が新しい書類を机に置き、次の瞬間、姿は消えていた。

 書類を見た。一ノ瀬からの報告書で十月に汐緒が銀座でシャノーというバイオリンの名器を購入したとある。その値段を見て驚いた。六百五十万円。クレジットカードの一括払いだった。

 先ほどの映像でみたバイオリンに違いない。


 水越にプレゼントしようとして断られたのだろうか。しかし、六百五十万円だ。それをプレゼントするなんて、雪乃には理解できない。そして、彼に拒否された。屈辱だったろうか? かわいそうにと同情はしたが、同時にこの人は何をしているのかという反感も持った。


 彼女はデータ入力をした。

 スマホが鳴った。画面で阿久道とわかった。


「気が変わった。駐車場だ」

「はい」


 気が変わった理由はわからないが、ともかく、コートを手に取った。

 駐車場に行くと阿久道がハンドルを持って、覆面パトカーに乗っていた。


 助手席に駆け込み、ドアを閉める途中で車が急発進した。阿久道の運転は雑だ。ハンドルを持ちたかったが、諦めの胸中で神仏に祈った。


 国道に出ると、ナビの到着時刻が、どんどん早まるのを、雪乃は唇を噛み締めながら見つめていた。

 阿久道は運転に集中しているように見えた。しかし、交差点にさしかかったとき、止まっている車に気付いていないのか、スピードが落ちない。


「警視! 前」と、雪乃が思わず叫んだ。


(つづく)

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