配属された新人巡査、そこは悪魔のすくう場所


 新堂雪乃しんどうゆきのは無口だ。


 性質は茫洋ぼうようとして背が高く体重もあり大柄で、たいていの人は彼女に安心感を覚える。というより、少し軽んじる。だからか、つい、彼女の前で本音をもらす人は多い。だから、雪乃は他人の知りたくない秘密を知ることになる。


 その重荷が時に辛く、わずらわしい。人間というものは、外面的には幸せそうに見えても、嫉妬や羨望、秘密や闇を心に抱え、持て余しながら生きているものだと、彼女は幼くして知っていた。


 それがいいとか悪いとか、そういうことには頓着しないのが雪乃だった。そのまま受け入れるのが彼女の性質で優しさだ。

 そんな彼女を、友だちは親しみを込めてスノウベア(白熊)と呼び、口の悪い友はスモウ部屋と呼んだ。



* * *



 交通課から捜査一課への転属が内示されたのは、雪乃が警察署に勤務して二年後だった。十一月中旬の配属と異例な人事であったが、その事情を特に考えなかった。いずれにしろ、希望が聞き入れられて嬉しかったからだ。


 だから―、

「明日から君も捜査一課の一員だ。頑張ってくれたまえ」と、刑事部部長から辞令を受けた後、彼が軽く逡巡しゅんじゅんしたのを見逃した。


「君には、その内勤を、普通なら、その、お願いするのだがね。しかし、当県警には本庁から配属された優秀な警視正がいる。彼の直属部下になってもらう」


 警視正といえば本庁の課長か部長クラスである。東京郊外とはいえ地方の警察署では署長と同等だ。階級的には最下層である彼女が警視正直属部下とは特例だった。


「東大からハーバード大学院を卒業して、国家公務員一種合格……、あくどう」と、部長の声に皮肉の色が交じった。


「あくどう?」


 つい言葉が漏れ、雪乃は失敗したと舌打ちしたい気分になった。上下関係の厳しい警察で、上司に言葉を差し挟むことは許されない。部長はそれに気付かない振りをしてくれた。


「阿久に道と書いて、あくどうと読む。阿久道あくどうほまれ、誉は名誉のほまれだ。明日付けで彼の下についてもらう。以上だ」

「はっ」


 最敬礼をして、颯爽さっそうと退出しようとしたが足元がもつれた。緊張しすぎたためだが、踏み留まろうとして、たたらを踏んだ。部長を振り返ったが表情は変らない。

 なんとか扉を閉め、誰もいない廊下でひとりになると、はぁと、無意識に吐息が出た。新人警官として勤め、仕事にも慣れた所での部署替えだった。


 が……、阿久道警視。


 茫洋とした彼女さえも、その噂は聞いている。実際に彼に会ったわけではない。同じ署内に勤務していて、一度として顔を見た事もなく、ただ、伝説化した彼の噂だけは耳に届く。曰く、地獄からの使者。悪魔のような男。一メートル以内に近づいて無事でいる者はいない。


 まあ、いい、と思った。噂は噂。

 廊下沿いの窓から景色が視界に入った。


 天気予報では爆弾低気圧が近づいているという。街路樹がゆれ、灰色の雲が空に襲いかかっている。大きな鳥が一羽、強風にあおられ、平衡を崩しながら飛んでいた。羽を揺らせ懸命に風に逆らう姿は不思議な光景だった。トンビが真直ぐに飛べないなんてと思った瞬間、ピィーーッ、と鋭い鳴き声が聞こえてきた。



 *  *  *



 翌朝、捜査一課と書かれた部屋の前で、深呼吸をしてからドアを開け、「今日付けで配属となりました、新堂雪乃です」と挨拶した。


 声の威勢が良いが、イントネーションがゆったりして間延びしている。もっときびきびした態度を取るように、と教官に注意されたが直せない。


 返事はなかった。


 自分では勢いこんで挨拶したので、周囲の沈黙が痛かった。

 部屋には制服を着た二人の警官が残っている。全員揃うと二十三名だから、ほとんどが捜査会議にでも出席しているのだろうか。


「君かぁ」と、軽そうな青年が声をかけた。

「はっ、新堂雪乃です、阿久道警視の……」

 言葉が終わらない内に、「そうか。君なんだ。すでに伝説と化した超ヤバ秘書花子さん、じゃね?」と、彼が言葉を挟んだ。

「超ヤバ……ですか?」

「そう、そう、すでに伝説。ぶっちゃけ、ヤバいっしょ」


 雪乃の緊張がゆるんだ。こういうタイプは苦手だが、緊張する相手でもない。


「はあ」

「ボク、板垣、ここに来て一年っすよ」と、自己紹介してから続けた。

「阿久道警視の下かぁ。ま、警視に付く人は、みんな伝説になるんすよ。彼が署に配属されて三年。その間に下についた人間は何人目すか、ねえ、小泉さん、覚えている?……、だいたいがさ、キャリア組が四十過ぎで、東京郊外とはいえ地方にいて、その上に警視正ってキモくねぇ。本庁から、ここに流されたって、バレバレっしょ」

「そんなことはないぜ」と、小泉と呼ばれた男が言った。

「実際は本人の希望なんだとか。現場主義とかなんとか、ともかく、頭が切れるから、何考えてんだか、一般庶民にはわかんねぇよ。ほら、天才となんとかって……。で、秘書は四人目だよ」


 彼はそう言うと、雪乃の全身を眺め回した。


(他人は自分が思うほど私の事など興味がない。考えてない)


 いつも念じる呪文を心のなかで呟いた。身長百七十五センチ、体重七十八キロ、骨太で体重以上に大きく見られ、常に注目されることになれている。


「まあ、ガタイはでかいし健康そうっすね。半年じゃねぇ」

「おいおい。新入りを脅かすなよ。俺は三ヶ月と見た」と、小泉がまぜ返した。

「脅してんのは、小泉さんじゃ」


 彼等の軽口を聞きながら、雪乃は所在なく立っていた。その様子に二人が鼻白むのがわかった。無口と言われ、でくの坊とも言われ続けてきた。


 しかし、人は見かけによらない。


『現代では希少な明治生まれの耐えるヤマトナデシコのような女。そんな女になりんしゃい、雪乃。胸を張ってな』と、亡くなった祖母がそう言った。それが今も彼女の矜持きょうじになっている。


(つづく)

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