悪魔とマザー「人は簡単には死なない」
「ところでね」と、マザーは話を変えた。
「わたくしは師長さんが犯人とは思っておりませんよ。彼女は何らかの形でかかわっているかもしれませんが、真の犯人ではございませんでしょうね。それで、あなたは、わたくしを必要とされていっらしゃる」
「まったく」と、阿久道は今度こそ苦虫を噛み潰したように唇を曲げた。「あなたは、うちの者たちより役に立ちますな。今から警察に勤めないか?」
「あらあらあら、だめですよ!」と、真剣な顔をしてシスター島原が抗議した。
「シスター島原、これはこの方のご冗談ですから」
「マザー、失礼いたしました」
マザーが口元をうすくあげて微笑んだ。
「あなた様もそうお考えなのですね。何をお隠しになってらっしゃいますの」
「まあ、すべてを話しているわけではないが」
阿久道は探りを入れるように言った。
「確かに全てを話すわけにもいかないが……。もうひとつだけ鑑識からの報告をお教えしよう」
「それは?」
「前に被疑者は頭部を強打されたと話した。覚えてますか?」
「覚えておりますよ」
「被疑者は確かに頭部を強打された。眼球まで斜めに鋭く打ち砕いた力は怒りか、なにかの激情からのものだ」
「師長さまのような方が、そのように我を忘れるとは思えないと考えてらっしゃるのね」
「そうだ。つまり、私の言いたいことは、直接の死因はそれではないことだ」
「えっ!」と、シスター島原が驚きの声をあげてから、口を閉じた。
「人間というものは、普通に人が考えるほど、簡単には死なない」
「つまり、強打された後も生きていらしたの?」
マザーがわずかに眉をひそめた。
「いや、直接の死因は違うとだけ言った。鑑識によると被疑者は、薬漬けの……。といっても違法なドラッグを使っていたという意味ではないが」
「安心いたしましたよ」
「精神安定剤を含めて、医者の処方した薬をいろいろ常用していた。これは薬の血中濃度からわかっている」
「それで、長く苦しまれたの?」
阿久道が答えを避けたように見えた。
「さて、公に発表していないことが、ひとつある。被害者の肋骨が折れていた」
シスター島原から小さな悲鳴が漏れた。
「胸も殴られたということですか?」
「そこが違う。鑑識の話では……、心臓発作を起こした人間に対する一般的な救命処置を行ったように見えると。つまり、心臓マッサージをしたらしい」
「つまり、救命処置で?」
「そうだ。論理から導かれる結論としては、被疑者を助けようと懸命に心臓マッサージをした、その結果、肋骨が折れた」
マザーは、その言葉にいいようのない悲しみを覚えたようだ。また、かすかに眉をよせた。
「さて、マザー。あなたが隠されていることを、今、話してほしい?」
「真実はおのずと表にでてくるものでございます。ですから、その真実が現れるのをお待ちくださいませ。神さまの
阿久道の目に怒りが見えた。この場で絞め殺しそうな顔だったので、雪乃は心が冷えた。
「よろしいでしょう」と、やっと彼は言葉を出した。
マザーはほほえんだ。
「それから、もうひとつお願いがあるのです」
「マザー」と、彼はあきれた声をあげた。
「まだ、あるのですか?」
「そうですよ。イエスさまは、わたくしにお働きなさいと申しておりますから」
「それで、イエスさまは、今回、何と仰っているのですか?」
「師長をお救いしなさいと」
「それは、また、イエスさまは、ずいぶんと具体的な指示をなさいますな」
マザーは微笑んだ。
「できますでしょうか」
「いいですか、マザー。私はあなたを利用しようと考えている。そのことを覚えておいていただく」
「わかっておりますよ」
「まあ、ですが、師長のことはできることはする」
「ありがとうございます。あなたのためにお祈りいたしましょう」
「そこは辞退しておく」
雪乃はマザーを正面玄関まで案内してから、廊下を戻ると「署長が呼んでるから、阿久道警視正を」と板垣が伝言をもって待っていた。彼はチラッと阿久道をみて、「じゃあ、伝えてね」と、雪乃に耳打ちした。
*********
「それで」と、署長室に入ると同時に阿久道は続けた。
「被疑者は何かを隠している。おそらく、かばっている」
「それを、どうして、あの修道女が見抜いたのか、君はどう考えているのかね?」
「たぶん」
「たぶん?」
「イエスの力でしょうな」
「真面目に答えてるのかね」
「ともかく、記者会見では何も言わないほうが良いでしょう」
「容疑者ではないと考えているのか」
阿久道は鼻をすすると、署長に向かって恐ろしい笑顔を向けた。
「あの修道長、なかなかに手強い。卵巣奇形を知って、それで類推したのかと」
「それで、被疑者が答えをはぐらかしていたな」
「監房を見ていたわけですか」
「監視カメラでだがな。二人の会話を聞いていた」
「なかなか、師長もしぶとい。マザーのような人間に嘘を言わんと思ったが」
「黙るしかなかったか」
阿久道の眉間の皺が寄って、脳の内部で何かが動いたようだ。
「検察に送るのを延長してもらいたい」
「……。やっと犯人逮捕に繋がって手が離れ、捜査本部も縮小した。それは難しい」
ほとんど絶句しながら、署長は反論した。
「あの女は違う。死体遺棄で逮捕するならいいが、殺人の線では誤認逮捕で恥をかくだろう」
「死体遺棄?」
「おそらく、まだ、想像の域ではあるが、その線なら立件可能だが」
署長は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
(つづく)
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